2023年8月22日火曜日

人間の証明 (1977)

角川春樹が映画界に参入した角川映画の第2作。1作目の「犬神家の一族」の成功に後押しされ、ここでも元祖メディア・ミックス作戦が功をせいし映画として大ヒット。原作者の森村誠一も、一躍著名推理小説家として認知されることになります。

ニューヨークの空撮から始まり、製作者の気概が最初から現れています。一転して、日本。人気デザイナーの八杉恭子(岡田茉莉子)による華やかなファッションショーが開かれていたホテルのエレベーター内で、ニューヨークのハーレムから数日前に来たばかりの黒人の若者、ジョニー・ヘイワード(ジョー山中)は、古びた西城八十詩集を落として倒れ込み、そのまま「ストウハ」と言い遺して亡くなるのです。胸にはナイフが刺さっていました。

警視庁捜査一課と麹町署は、那須主任(鶴田浩二)のもとすぐさま捜査を開始。ホテル近くの公園の草むらが事件の発生現場と考えられ、血痕と共に古い麦わら帽子が発見されます。棟居刑事(松田優作)は、ストウハは麦わら帽子(straw hat)のこと、そしてホテルを見上げると最上階の回転棟の照明が麦わら帽子に見えること気がつきます。

その頃、会社役員の新見(夏八木勲)とショーの楽しんだ、新見の愛人、なおみ(范文雀)は帰り道で暴走車に轢かれ死亡します。運転していたのは八杉恭子の息子の郡恭平(岩城滉一)で、遺体を海に捨ててしまいます。しかし、現場に特徴的な懐中時計を落としてしまい、戻ってきた新見に拾われてしまいます。新見は、独自の調査で時計が恭平のものであることを突き止めます。恭子は恭平をニューヨークに逃亡させるのでした。 

ニューヨークの刑事、ケン・シュフタン(ジョージ・ケネディ)は、インターポールの依頼でヘイワードの調査を始めます。シュフタンは、ヘイワードがどこに行くのかと尋ねられ嬉しそうに「キスミー、ママ」と答えたこと、父親のウィルシャーが当たり屋をして渡航費用を工面したこと、ウィルシャーが進駐軍で日本にいたことなどが判明します。

棟居は、西城八十詩集のなかにある母親を思う「ぼくの帽子」に注目し、そこへ登場する霧積温泉が「キスミー」であることを見つけます。棟居は横渡刑事(ハナ肇)を伴い霧積に向かい、旅館の中居をしていた中山タネが、戦後間もなく進駐軍の黒人兵と日本女性と彼らの子の三人連れを見たらしいという話を聞き込み、タネに会いに行きますが、入れ違いでタネは殺されていました。

戦後の混乱期にタネが横須賀で水商売をしていた時、その店で働いていた一人が八杉恭子でした。そして棟居も当時、進駐軍に襲われた恭子を助けた父親が、暴行され亡くした過去を背負っていたのです。棟居は直接、恭子にあなたがヘイワードの母親であり、ヘイワードを殺した犯人だろうと問い詰めますが、まったく表情に変化はない。ところが、咄嗟に横渡が西城八十の詩を口にすると、恭子は驚きの表情を見せます。

ヘイワードの父親から直接母親が誰か聞き出すしかないと考えた棟居はニューヨークに行き、シュフタンの協力で父親を発見します。そして、逃亡していた恭平も発見し追跡しますが、拳銃を向けたためシュフタンに射殺されてしまいました。シュフタンの腕の入れ墨は、棟居の父を暴行した進駐軍兵士の一人と同じでした。棟居は、鏡に写るシュフタンに向け銃を発射するのでした。

これは自分が高校生の時随分と話題になり、西城八十の詩も暗誦できるほどになっていました。もちろん原作も読みましたが、その後は映画も原作もそれほど高い評価はされていないように思います。実際、あらためて見ても少なくとも映画に関しては傑作とは言い難いように思います。

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
 ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
 僕はあのときずいぶんくやしかった、
 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 
 
 以下省略 西城八十「僕の帽子」より 

少なくとも、詩人・西城八十という名前を後世に残す要因の一つになったことは間違いないと思います。監督は東映でアクション中心に活躍した佐藤純彌、台本は松山善三という強力な布陣で、出演陣も今から思えば豪華そのもの。

何しろ、共演者は夏八木勲、和田浩二、峰岸徹、地井武男、鈴木端積、大滝秀治、北林谷栄、竹下景子、坂口良子、ジャネット八田、高沢順子、西川峰子、佐藤蛾次郎、室田日出夫、小林稔侍、鈴木ヒロミツ、NY警察署長はアカデミー主演男優賞を取っているプロデリック・クロフォードです。そして極めつけは、八杉恭子の夫に三船敏郎というから凄すぎる。

さすがにお金をかけた話題作りに関しては、さすがの角川春樹というところですが、推理物としてはトリックもアリバイも無く、動機の解明だけに絞られたストーリーが物足りない。この映画の時点で戦後30年、自分も含めい「戦争を知らないこどもたち」が多数派になってきた頃ですから、戦後の混乱期の闇市、進駐軍などの話の基盤が弱くなってきています。

タイトルの意味については、恭子の「罪をどうやって背負って生きていくかが人間としての証」だと言う台詞によって説明されますが、ただその罪は償われて初めて証として意味を持つように思います。恭子にしても、恭平にしても罪から逃げるためにさらに罪を重ねているわけで、証の方向性を誤りあまり説得力があるとは言い難い。