播磨薫子(篠原涼子)は、ロボット工学の会社の社長で仕事人間で家庭を顧みない夫の和昌(西島秀俊)とは別居。瑞穂(稲垣来泉)と生人(斎藤汰鷹)の二人のこどもの成長だけが生きがい。ある日、薫子と和昌が小学校受験の面接予行演習をしている際中に、祖母(松坂慶子)らとプールに遊びに行った瑞穂が溺れ脳死に陥ってしまう。
医師から臓器移植の意思を尋ねられ、二人は脳死と心臓死の究極の選択を迫られるのです。そして脳死を受け入れ臓器移植を了承しますが、薫子はわずかに指が動いたところを見たことで一転して拒否するのです。和昌は会社の研究員である星野(坂口健太郎)の意見から、瑞穂に横隔膜ペースメーカーを埋め込みます。「呼吸」するようになった瑞穂は人工呼吸器がはずれ、薫子は在宅看護を決意します。
横隔膜が動くことで代謝が改善されたと聞いた和昌は、星野の脊髄への電気刺激による筋肉運動のコントロールの研究を利用する。もともと研究熱心な星野は、瑞穂の体を動かすことにどんどん深入りしていき、恋人の川嶋真緒(川栄李奈)とも気まずくなっていくのです。
和昌もはじめはどんどん動きがよくなっていくこと喜んでいましたが、薫子が機械を操作して笑い顔を作るところを見て衝撃を受けるのです。和昌は星野に、自分の意思と関係なく笑い顔を作るような研究を終わらせるように進言しますが、星野は自分が動かして成長させていることに嫉妬していると拒否するのです。
薫子は瑞穂が生きていることを信じ続け、周囲にもそれを認めさせようと精神的に追い詰められていく。しかし、小学生になった生人は「死んでいる」姉を理解しはじめる。和昌は、街頭で心臓移植のための募金に寄付をしたことで、薫子から「あなたも死んでいると思っている。臓器移植を承諾しなかった罪悪感で募金した」となじられるのです。
そして、生人の誕生会。家族全員が揃い、生人の友人の到着を待ちますが、誰も来ない。生人は死んでいる姉に会わせたくないといい、薫子は生人に手を挙げたため和昌はついに薫子を平手打ちしてしまいます。逆上した薫子は、包丁を持ち出し瑞穂に向けるのでした。
脳死とは、大脳・小脳・脳幹部がすべて組織として機能せず、自分の意思を表明したり体を動かすことは一切無くなった状態の事。植物状態と似ていますが、植物状態は少なくとも脳幹部が生きていて自発的な呼吸が可能です。心臓そのものは、心臓自体に拍動するための信号の発火点があり、条件が揃えば脳死でも動き続けるのです。
法律上は、死は明確な定義はされていませんが、心停止、自発呼吸の停止、そして瞳孔反射の消失を医師が行う「死亡確認」をもって人の死とされています。自発呼吸の停止は脳幹部の死、瞳孔反射消失は脳の死を意味しています。医学の進歩により、心肺機能を維持する機器・薬品が充実し「延命」が可能となったことで「脳死」という概念が登場しました。
自分も医者のはしくれですから、死亡確認は何度も行いました。理屈としては脳死が人としての死であるということは理解していますが、心拍の消失も死亡確認に含まれますから、どうしても「心臓死」を捨てきるというのは難しさを感じます。
ましてや、一般の方が脳死を人としての死と受け入れることはさらに難しい。そこに臓器移植の問題が絡むと、話はさらに複雑になります。移植臓器は心停止後、できるだけ早くに摘出する必要があります。つまり、積極的な心臓死を人為的に起こすことになります。ですから、脳死判定は大変厳密に行われ、その基準も従来の死亡確認よりも複雑です。
日本では2009年に臓器移植法が成立したことで、「脳死は人の死」であると法律的にも認められていますが、6歳未満については脳死判定の難しさ、家族の心情などによりなかなか臓器提供が行われていないのが現実です。
包丁を振り上げた薫子は、「瑞穂がすでに死んでいるなら、刺しても罪に問われない。殺人罪になるなら、瑞穂が生きていることを証明出来きる」と叫ぶのです。まさに法律的な解釈が明確化されていないことを、映像を通して明確に突きつけるのです。世の中には、このような境遇にいる家族は必ずいるでしょうから、映画の話としてはフィクションだとしても、現実に究極の選択を迫られる可能性は誰にでもありうることです。
第三者として見れば、脳死を受け入れ臓器提供した方がより多くの命に役に立つのですから、薫子の心情はこどもへの執着でしかない。和昌がしだいに疑問を感じていくことの方が共感しやすい。しかし、映画では、出来るだけ薫子の視点から話を展開することで、映画を見る者にそれが自分のこどもだったらということを忘れないように釘をさしているように思います。
映画として大変重たいテーマですので、ずっと暗さが目立ちます。しかし、少なくとも最後の最後にどのような選択をしたとしても、登場人物それぞれの選択に誤りは無かったと思わせるある種の救いを残したことは正しいエンディングなのかなと思いました。「人魚」は瑞穂を象徴していることは明らかで、水の事故から始まり生きているのか死んでいるのかわからない存在としてタイトルに使われたのだろうと思います。