2023年8月28日月曜日

楽園 (2019)

映画化されている「悪人(2010)」、「怒り(2014)」などの、犯罪をベースに重厚な人間ドラマを展開させる小説家、吉田修一の短編集「犯罪小説集」から、「青田十字路」と「万屋善次郎」の二編を組み合わせた映画。監督・脚本は「64(ロクヨン)」の瀬々敬久。

この映画は「限界集落」がキーワード。限界集落は、人口の半分以上が65歳以上で、集落の共同生活の維持が困難になっている地域の事で、いずれ消滅する可能性が高いとされています。一般には、街からは離れ過疎化した高齢者ばかりの集落であることが多いとされます。

これらの地域は、地図上も他の地域との交流が困難で、古くからの生活習慣を守り続ける保守的・閉鎖的な暮らしが続いていることが多く、時には新規入植者や地域の暗黙のルールを侵す者を排斥する(いわゆる村八分)問題も起こりうる。

夏祭りでにぎわう山間部の村で、母(もとは外国人?)と息子の中村豪士(綾野剛)は細々とリサイクル品販売によって生活していました。村の重鎮である藤木五郎(柄本明)の孫、小学生の愛華が、ランドセルだけを残して行方不明になってしまいます。

愛華の消息が判明しないまま12年が経ち、愛華が行方不明になる直前まで一緒だった湯川紡(杉咲花)は、ずっと自責の念を抱えていました。偶然、豪士の運転する車に驚いて転倒した紡は、夏祭りの出囃子で使う笛を折ってしまいました。内気で言葉も少ない豪士は、街で新しい笛を弁償します。

夏祭り当日、またもこどもが行方不明になる。村の人々は、「そういえば12年前も豪士が怪しかった」などと言い、家に押し掛けドアを蹴破って侵入するのです。たまたまそこへ戻ってきた豪士は、こどもの頃のいじめを思い出し逃げ出す。人々は彼を蕎麦屋に追い詰めたため、豪士はついに灯油をかぶって火をつけ自死するのです。

妻を亡くし、養蜂を始めるため村に戻ってきた田中善次郎(佐藤浩市)は、村の家屋の修理や雑木の伐採など率先して手伝い、村に溶け込もうと努力していました。しかし、養蜂が村興しに役立つと考え提案しますが、人々は村で勝手なことをされるのを好まず、少しずつ善次郎は疎外されていくのです。

飼い犬が村人を咬んでしまったことが決定打となり、善次郎は人々から完全に村八分にされてしまう。そして森を再現するため善次郎が少しずつ行っていた植樹を、許可なしに行ったとして取り除かれてしまったことで、ついに善次郎は狂気と化し6人の村人を殺害し、自らも自死するのでした。

この映画は、賛否が完全に分かれます。限界集落の排他的な閉塞感のリアルを描き出した傑作という意見の一方で、何が言いたいのかまったくわからない駄作との意見も多い。自分の意見としては、何を言いたいのかは朧げにわかりますが、あまりにも説明すべきところが省略され、登場人物の誰にも共感できない「難解」なだけの映画という印象。

映画は台詞だけでなく映像があるので、すべてを語る必要はありません。また、提示された謎がすべて明瞭な解決に至らなくてもかまわないと思いますが、ある程度それらを見る者が自分で納得できる答えを見つけられる手掛かりは残しておいて欲しい。いや、手掛かりはあるけど、それを気がつけないだけと言われればそれまでですが、この映画はあまりにも不親切です。

過去の話と12年後の話、さらにその1年後の話が混在していて、その時点での話と回想されて出てくるシーンなどの区別が付きにくい。紡に近づく同級生だった広呂(村上虹郎)との関係も曖昧で、郷里でのシーンと彼らが東京に出てのものもほとんど境界が無い。広呂が突然病魔に侵されるのも唐突。

疎外される善次郎を心配する久子(片岡礼子)が、善次郎を温泉に誘うところも突然すぎて展開が理解しにくい。善次郎が亡き妻との思い出で大事にしてきたことについては、かなり時間がとられてわかりやすいのですが、ついに狂気に走って行動するシーンは一切描かれない。

12年前の事件では、母親は豪士が何か関係があると思っているようですが、紡は東京で愛華を目撃したらしいシーンがあり、紡の中では別の答えが用意されている。少なくとも豪士と善次郎が求めた「楽園」は手に入れることができず、紡だけは心の傷の癒し方を見つけるという結末になっているようです。

いずれにしても、2つのストーリーのどちらか一方だけに絞っても、十分に描きたいことは語れたと思います。主要な3人の演技力だけは高く評価できますが、彼らがまったく交わることのないバラバラ感が映画全体のテンションを低調にしていて、過程が断片的に語られ、結末はほとんど描かれない映画という印象です。