夏季臨時休診

夏季臨時休診のお知らせ 8月14日(金)~8月19日(水)臨時休診します。

2022年8月31日水曜日

俳句の勉強 30 鰯雲で八苦


季題「鰯雲」で、俳句を作る。いや、難しい。もっとも、何を兼題に出されても、難しいのは一緒ですけどね。

鰯雲・・・秋です。秋と言えば芸術。俳人の中には、西洋絵画に興味を持っている方もいますが、代表的なのが阿波野青畝(あわのせいほ)という人。

ルノアルの女に毛糸編ませたし 阿波野青畝
「ルノアル」はルノワールのこと

モジリアニの女の顔の案山子かな 阿波野青畝

いや、もう、傑作です。 これにならって、自分の好きな印象派の点描が特徴のスーラを題材にしてみました。

鰯雲一色キャンバススーラかな

空と言う広大なキャンバスにスーラが白一色で点描したのが鰯雲・・・という感じなんですが、何か言い足りない雰囲気。着想としては面白いと思いますが、このままだと凡人句はまぬがれない。青地に白絵具一色というところまで流し込むには、17文字では足りそうもありません。思い切って整理してしまいましょう。

鰯雲白一色のスーラかな

そういえば、9月19日が命日の正岡子規を使わせてもらうのもありですね。俳句の世界では、有名な文化人の命日は忌日として季語扱いになっています。子規の場合は、「子規忌」、あるいは「糸瓜忌」、「獺祭忌」が季語になっています。

ただし、それらを使うと「鰯雲」と季重なりになってしまい、季語の強さは忌日が主になってしまう。子規はホトトギスの別名で、ホトトギスは秋になると日本から離れていきます。ホトトギスは他にも、比較的珍しい呼び名として不如帰があります。鳥の名前として使うと、どれをとっても季語になってしまいますが、これなら多少季語としての力は弱められそうです。

不如帰終に望むや鰯雲

正岡子規は、亡くなる間際には鰯雲を見ることがあっただろうか。子規は「鰯雲」を使った句は作っていません。そしててホトトギスも日本を離れる前に見れたかなぁ、という二重の意味が含めることができたと思います。

この句の是非は「不如帰」と「鰯雲」の季重なりです!! あー、何か声が聞こえてきそう。とりあえず最終候補として残しておきたいと思います。

2022年8月30日火曜日

俳句の勉強 29 鰯雲で四苦

投句する際与えられるテーマが「兼題」ですが、兼題に選ばれる言葉はたいてい季語。しかも、特殊な季語はめったに無く、いかにもその季節を象徴するようなものが選ばれることが多いようです。

そうなると、どうしてもその季語から連想される内容はありふれたものばかりになりやすく、当然似たり寄ったりの俳句しか思いつかない。選者の先生方は、そこをどうやって乗り切ってオリジナリティを押し出すのかを見ようということなんでしょうけど・・・


今回、チャレンジする兼題は「鰯雲」です。傍題としては「鱗雲」が使えます。

あー、いかにも秋ですよね。空を見上げると、細かい斑点状の薄い雲がきれいに並んでいる。その様が、鰯の群れや魚の鱗のように見えるので鰯雲と呼ばれるわけですが、正式には巻積雲(けんせきうん)と呼び、5000m以上の大変高い所に発生する秋を象徴する雲。

鰯雲が空に発生すると、鰯が豊漁になると言われたりもしますが、温暖前線や熱帯低気圧の接近によって出現するため、天気は下り坂となります。

鰯雲で連想することというと・・・もう、ほとんど「秋」以外には思いつかない。じゃあ、秋だったら、食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋、芸術の秋等々が出てきます。

鰯を食べるとかだと、食べすぎ、肥るとか。スポーツは山ほどありますが、特に秋に特化したものは思いつかない。読書や芸術も、基本的には年中できるわけで、秋だからという特別な物はありません。せっかくですから、名人の句を探してみましょう。

鰯雲日和いよいよ定まりぬ 高濱虚子

虚子の句は、天気がはっきりしないなぁ、という内容で「明日は雨かな」というだけのもの。歳時記に例句として収載されているので名句なんでしょうけど、先に言った者勝ちみたいな印象です。天気に絡めたら、後の句は全部類想になってしまいます。

いわし雲大いなる瀬をさかのぼる 飯田蛇笏

「瀬」は川の早い流れ、あるいは浅瀬という意味。空の鰯雲が川面に写って、まるで遡っているように見える。あるいは、水面に立つ細かい波が鰯雲のように見えた、など人それぞれの想像力をかきたてる名句です。気を取り直して、あらためて作句。

鰯雲間に挟まるホームラン


ホームランを打ったら、高く上がり過ぎてボールが鰯雲の間に挟まって落ちてこない。まぁ、それほど悪くはないと思いますが、俳句としては直球すぎて、面白みには欠ける感じがします。いっそのこと、雲を突き抜けたらどうでしょぅか。

鰯雲抜けて飛び去るホームラン

大同小異で、内容が薄い事には変わりない。雲に届くくらい大きなホームランを打ったという以上の話にならない。選手の嬉しさとか球場の大歓声は聞こえてきそうですけど。

鰯雲は高い所に発生し、その高さは富士山よりもはるか上です。登山をしている(自分はしてませんけど)時に、もうじき頂上と思うとあとひと踏ん張りと気合が入るものです。一言で登山中で頂上が近いとわかる言葉は何だろう? というところからスタートです。「あと少し」とかを使うと、登山中は伝わらないし、上句を全部使い尽くしてしまいます。

稜登り峰より高き鰯雲

頂上に向かう切り立った最後の難関を稜線と呼びますので、「稜を上る」とすればゴールが近いという情景が浮かんできます。ゴールの頂上を見上げたら、それよりももっと高い所に鰯雲がある。まだまだ気を抜けないという感じが出ましたでしょうか。最終候補にキープしておきます。

2022年8月29日月曜日

俳句の鑑賞 12 子規と漱石 (2)


明治28年10月、夏目漱石の下宿を辞して東京に戻る途中、子規は奈良に立ち寄ります。もしかしたら、たぶん、いやきっと子規は1か月ほど前に新聞で見た、漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句を思い出したに違いない。「漱石くん、頑張ったけど、俺ならもっとうまく作れるぜ」と思ったのかどうか・・・

柹食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規

そして詠まれたのがこれ。おそらく、芭蕉の「古池や・・・」の次くらいに有名な子規の俳句です。この句をあらためて、鑑賞したいと思います。

句の構成は、典型的な有季定型の五七五です。季語は「柹(柿)」。実在する地名、奈良の法隆寺が含まれます。俳句では、このような地名や特定の建築物などを「俳枕」と呼び、季語と同じように特徴的な情景を作り出す効果を利用します。

解釈は、一般には「法隆寺で柿を食べたら、鐘の音がしてきた」というもの。子規は柿は大好物で、柿を詠んだ句はたくさんあります。おそらく法隆寺の境内の茶店かなにかで、柿を食べていたら、どこからともなく「ゴーン」と鐘の音がしてきて、とても風流だなぁと感じたという鑑賞で良いことになっています。

明治33年9月、漱石は英国留学に出発します。その直前、すでに病床に臥せり身動きもままならなくなっていた子規を訪ねます。子規は再び会うことはなかろうと伝え、次の句を漱石に送ります。実際これが最後の面会となりました。

萩すすき来年あはむさりながら 正岡子規

その後、子規は何度かイギリスにいる漱石に手紙を出したようですが、異国の地で精神的に余裕がなくなっていた漱石は返事を出すことは無く、子規は残念に思っていたようです。ただ、明治34年4月に子規・高濱虚子宛という「倫敦消息」と題する、ロンドンでの暮らしぶりを紹介する「手紙」が、子規のホームである「ホトトギス」誌に掲載されています。

この手紙を喜んだ子規でしたが、それに対して漱石に送った11月の手紙は、「僕はもーだめになってしまった、毎日訳もなく号泣して居る・・・(中略)・・・僕はとても君に再会することは出来ぬと思ふ。万一出来たとしても其時は話も出来なくなってるだろ」とあり、いかに気丈な子規でも親友に対しては弱音を吐くしかないところまで追いつめられていたのです。

明治35年9月19日、正岡子規は34歳の生涯を閉じました。11月にロンドンの漱石のもとに、高濱虚子からの訃報がやっと届きます。漱石は12月に荷物をまとめると、帰国の途に就くのです。

筒袖や秋の柩にしたがわず 夏目漱石

漱石は、訃報に対する返事の中でこの句を詠みました。筒袖は洋服の事で、2年前にいわゆる「袂を分かつ」ことになり、二度と会うことは無いと覚悟はしていましたが、「(ロンドンにいるため)葬儀に参列できなかった」ことは大変に残念であったという内容です。

夏目漱石の小説家としての処女作、「吾輩は猫である」が「ホトトギス」誌に連載を開始したのは明治38年1月のことです。最終話では子規が実名で登場し、おそらく漱石自身と重なる人物が「僕の俳句における造詣と云ったら、故子規子も舌を捲まいて驚ろいたくらいのものさ・・・(中略)・・・(子規とは)始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と語らせています。

最後に明治28年12月30日、年の瀬も押し迫った根岸の子規庵の様子を紹介します。子規は来客の準備をし、友人たちが集まって来るのを今か今かと待ちわびていました。本当にその時の光景が目に浮かぶようです。

梅活けて君待つ庵や大三十日 正岡子規

漱石が來て虚子が來て大三十日 正岡子規


2022年8月28日日曜日

俳句の鑑賞 11 子規と漱石 (1)

正岡子規は、いろいろな俳号やペンネームを使っていたことはよく知られています。しかし、明治22年5月に初めて喀血し、肺結核と診断され、初めて「子規」の俳号を用いました。

卯の花をめがけてきたか時鳥 正岡子規

卯の花の散るまで鳴くか子規 正岡子規

「子規」は「時鳥(ほととぎす)」の別名で、口の中が真っ赤に見えるため「鳴いて血を吐く時鳥」と形容される鳥に、自分をなぞらえたのでした。「卯の花」は空木(ウツギ)の花のことで、旧暦の4月の別称である卯月に花を咲かせます。この頃に日本に渡来する時鳥との組み合わせは、万葉集の時代から多くの歌になっています。

どちらの句も、「時鳥」も「子規」も喀血(肺結核)を連想させる「ほととぎす」と詠みあげます。実は、子規は卯年の生まれ。卯の花は自分のことであり、ついに当時は死の病とされていた結核になってしまったこと、そしてそのために死ぬのであろうということを詠んだのでした。

当時、子規は東大予備門の学生で、知り合ったばかりの友人の一人に夏目金之助がいました。夏目は、大学を辞めて松山に帰ろうかと言う子規を見舞って、次の一句を詠みました。

歸ろふと泣かずに笑へ時鳥 夏目漱石

時鳥は、子規以外にも不如帰という漢字も充てられています。不如帰は「帰るに如かず(帰るしかない、帰りたい)」と読めることにかけて、「学問をあきらめると泣いていないで笑おうよ」と励まし、もともと子規の俳号の一つだった「漱石」を譲り受けたのです。これは、まさに世に夏目漱石が誕生した瞬間です。

しかし、余命少ないと悟った子規は大学を中退し、新聞「日本」に就職。退学したという手紙を受け取った漱石は、子規に宛てて句を詠みました。

鳴くならば満月になけほととぎす 夏目漱石

漱石は、社会に出るならちゃんと単位を取って卒業してからにしろと、叱咤しているわけで、漱石の子規に対する思いがよくわかる一句です。明治28年4月に子規は、新聞記者として日清戦争に従軍しますが、戦地に到着した時はすでに終戦。そのまま帰路のついた子規は、戦中で大喀血をし神戸で入院。生死を彷徨い8月に何とか退院し、療養のため郷里松山に戻ります。


そこで仮の住まいとしたのが、松山の中学校に英語教師として赴任していた漱石の下宿、愚陀仏庵(ぐだぶつあん)でした。周りの人は病が伝染するからと漱石を止めましたが、漱石は意に介さず、率先して子規を招き入れます。子規のもとには、同好の者が集まりしばしば句会が開催され、しだいに漱石も加わり俳人として成長します。漱石が9月に詠んだ句が新聞に載っています。

鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石

そして、10月なかばになって、子規は東京に戻ることを決意して、漱石にお別れの句を詠みました。

行く我にとどまる汝に秋二つ 正岡子規

今まで同じ季節を分かち合っていたけれど、東京に旅立つ自分と、松山にとどまる漱石には、それぞれの秋が巡ってきたのだよ。ある意味、子規の決意表明です。出発した子規は、途中で奈良に立ち寄るのでした。

2022年8月27日土曜日

俳句の鑑賞 10 若き日の子規

愛媛県松山市に生まれた正岡子規は、父親が5才の時に亡くなったため、儒教学者であった祖父の私塾に通い漢文の素養を身につけます。旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学するも、漢文や英文を学ぶため共立学校(現・開成高等学校)に再入学しています。

司馬遼太郎の代表作の一つ、「坂の上の雲(1969-72)」の三人の主人公の一人が子規でした。維新によって一気に世界が開けたことによる若者たちの高揚感がみずみずしく描写され、小説とはいえ松山時代の子規を知る足掛かりとなっています。

松山市立子規記念博物館の俳句データベースを検索してみると、おそらく最も古い作句と考えられているのは、12~16歳のもので、

山路の草間に眠るきりぎりす 正岡子規

秋の季語である「きりぎりす」を用いた有季定型句です。きりぎりすは、昔は漢字だと蟋蟀(こおろぎ)と書いていたので、あえて区別するために平仮名にしているのかもしれません。ただ、「山道の草の間にきりぎりすがじっと動かずにいたので眠っているのだろうか」という、そのまんまの内容以上のものではなく、僭越ながら凡人句と言ってよさそう。

東京に出て東大予備門に進学した子規は、夏目漱石らと知り合い、俄然俳句創作に意欲が出ます。18歳の子規が詠んだ句は、滑稽味のあるものが多く、昔ながらの俳諧の趣を残しているように思います。俳諧の「諧」は、もともと滑稽という意味でした。

ねころんで書よむ人や春の草 正岡子規

ぬす人のふりかへりたる案山子哉 正岡子規

初雪やかくれおほせぬ馬の糞 正岡子規

白猫の行衞わからず雪の朝 正岡子規


興味深いののは次の4つの句です。

窓あけて顔つきあたる夏のやま 正岡子規

窓あけて鼻の先なり夏のやま 正岡子規

窓あけて顏つきあたる前のやま 正岡子規

窓あけて鼻の先なり前のやま 正岡子規

上五は共通ですが、窓を開けると山並みがすぐそこにあるという感慨を詠んだものですが、より間近ということを中七で「顔つきあたる」とするか「鼻の先なり」とするか、そして眼前の山々を「夏のやま」とするのか「前のやま」とするかで自ら推敲しています。

「顔つきあたる」と「鼻の先なり」では、鼻の方がよりすぐ前にあるような印象を受けます。とはいえ、「前のやま」を続けると「先」と「前」で似たような表現が重なるのはいただけない。

また、「夏の山」は季語ですが、「前のやま」とすると無季になってしまいます。また「夏」の一言が入るだけで、空気感も伝わってきます。自分としては、「窓開けて鼻の先なり夏のやま」をベストに選びたいと思いましたが、子規自身はどう思っていたのでしょうか。

2022年8月26日金曜日

俳句の鑑賞 9 子規を深読み


いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規

正岡子規の名句をしっかりと鑑賞する勉強をしてみます。まず解釈。これは蒸すが強い言葉は含まれていないので簡単です。「積もり始めて雪の深さを、繰り返し近くの人に尋ねたものだ」ということ。

句の構造は、まさに有季定型で、上五・中七・下五です。季語は中七に含まれ、晩冬の天文となる「雪」です。頭から、一気に読み切る「一物仕立て」であり、最後に詠嘆を表す切れ字の「けり」で過去の思い出を断言しています。

雪が降りだすと、大人になると必ずしも喜んでばかりはいられないのですが、こどもたちは楽しくてしょうがない。たくさん積もったら、雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりと外に出て遊ぶことばかりを楽しみにするのは今も同じ。

窓から時々外をのぞいては、お母さんに「もう何センチ積もったかなぁ? もう遊べるかなぁ?」と待ちきれずに何度も何度も尋ねているような光景が浮かんできます。

しかし、作者の子規の状況を知ると場面は一転します。これは明治29年、30歳の時に詠まれた作品ですが、その頃子規は脊椎カリエス(背骨の結核)と診断され、激しい痛みのため自由がきかなくなり、床に臥せる生活を余儀なくされたのです。

根岸の子規庵で、身を起こして窓の外を自らのぞくことが出来ない子規は、おそらく同居していた母親の八重か妹の律に「どのくらい積もったのか?」と聞くしかできなかったのでしょう。何度も何度も同じことを聞くこどものような子規に対して、二人はどんな気持ちで積雪の実況中継をしたのでしょうか。

紫陽花やきのふの誠けふの嘘 正岡子規

解釈は、「色がしだいに変わっていきさまざまな顔をみせてくれるアジサイの花は美しいが、まるで昨日の誠は今日には嘘に変わっていることに似ている」というところでしょうか。

子規の「紫陽花」を使った句は42句あり、季語としては仲夏・植物の扱いです。花が開いてから、順に色彩が変化するところがしばしば注目されます。構造は有季定型で、上五が季語で切れ字「や」で呼びかけの詠嘆をしています。

季語の「紫陽花」のみは目の前にあって直接観察した(俳句では写生と呼ぶ)かもしれませんが、中七・下五は率直な作者の心情を発露した形で、「取り合わせ」の形式になっています。

この句は明治25年、26歳の作品。すでに結核と診断されていたものの、まだまだ元気な青年で、親友・夏目漱石と過ごした東京大学を中退し、叔父の紹介で新聞「日本」の記者となっていました。

おそらく社会に出た子規は、いろいろな都合でころころと変わっていく事柄に驚いたに違いありません。昨日の嘘が今日は誠になることもあったかもしれませんが、たいがいは純粋な文学青年をがっかりさせることの方が多かったのだろうと想像します。

翌年、日清戦争が勃発。明治28年に子規は従軍記者となった子規は大喀血をし、寿命のカウントダウンが始まります。子規の鑑賞には、単なる作品論的な見方だけではなく、作家論的な視点も含めないといけなさそうです。

俳句を勉強する上で、子規は避けては通れない巨星ですから、しばらく子規の人生も含めていろいろな面から鑑賞を続けたいと思います。

2022年8月25日木曜日

俳句の勉強 28 子規の俳句分類


物事を分類するというのは、ほぼどんな場合にもあるわけで、ちょっと小難しく考えると、その基本はAとBの違いを知ることで、比較論として両者を理解することにつながるということ。比較するときに主観が立つと、好き嫌いに発展して、時には差別と言う状況を作るかもしれません。

正岡子規が近代俳句の「創始者」と認められていることに異論をはさむ者はいないと思いますが、作られた句の素晴らしさだけでの評価ではなく、批評家としての優れた慧眼を持っていたこと重要な要素です。

では、それはどこから育まれたものか。生来の資質も当然あるかもしれませんし、成長過程での人との結びつきも関係するでしょう。しかし、俳句に特化すれば、おそらく「俳句分類」という気が遠くなるような仕事が、最も重要であろうと思います。そのきっかけとなったのは、夏目漱石との若き日の論争が出発点らしいというも面白い。

子規自身も、「この仕事には終わりが無い。終わるとすれば自分が死ぬときだ」と述べていて、生涯の仕事と位置付けていました。明治22年、22歳の時に始まった古句の収集は、その後の10年間で12万句を越えています。現代のようにパソコンで整理するにしてもめまいがしそうな仕事を、すべて手書き・手作業で行っていたことに驚きます。

全66冊に分かれていて、そのうち大部分を占める53冊は歳時記のような季題による分類、残りの13冊は季語以外のいろいろな分類となっています。しかし、あまりにも膨大な量故に、現代の自分たちがそれを目にする機会はめったになく、見たとしてもそれを作句・鑑賞に利用することはかなり困難だろうと予想します。

子規は、季語による分類以外にも、例えば一つの言葉が様々な意味を持って使われていることを明らかにし、その中には客観的な物から観念的な物、あるいは古来から近代の科学的用語にも及びます。

古句を渉猟していくうちに、おそらく子規は、見つけた句がつまらなく思ったり、楽しくなったりしながら、芭蕉・蕪村の偉大さを確認したわけで、それらが今に続く俳諧師の評価にも受け継がれていることは間違いありません。

また、あらたに発見した表現方法などは明らかに自身の句にも生かされ、作句・推敲によって後世に残る名句としての条件を高めていったことでしょう。

例として、名句とされる「若鮎の二手になりて上りけり」があります。元々は明治25年に、河東碧梧桐に宛てた手紙が初出で、原形は「若鮎の二手になりて流れけり」でした。このままだと、鮎が水にまかせて流れていくだけです。おそらく古句を分類しているうちに「鮎」が「上る」という表現をいくつも見つけて、「あっ、これだ」と膝を叩いたに違いない。

子規の俳句の創作数は、明らかに俳句分類を開始してから増えており、過去の俳諧を整理して一定の評価を与えると共に、自らの作句力を飛躍的に向上させたと言っても良さそうです。

ただし、芭蕉・蕪村以外を切り捨てたことの本当の評価については、多少疑問の余地が残るかもしれません。子規が「これが俳句だ」という形を作り上げたことで、文学としての位置づけがなされた反面、子規から高濱虚子に至る「ホトトギス」系が主流であり、それ以外を亜流とする考え方は、今に至るも見え隠れしていると言う印象を持ちます。

2022年8月24日水曜日

粉抜きお好み焼き


ネットで紹介されていた・・・

小麦粉を使わない、「お好み焼き」、試してみました。

結論。まったくもって、お好み焼きでした。しかも、粉が入っていないので、食べる時の罪悪感が無いというのが、何か嬉しい。

作り方は簡単、大量のキャベツの千切りに溶き卵を混ぜて焼くだけ。

今回は、だいたい1/3玉くらいのキャベツに対して、卵は3個。全体にからむようによく混ぜ合わせておきます。

さすがにそれだけだと味気ないので、少しだけ残っていた薄切り豚バラ肉をいれました。

厚みがあるので、弱火でじっくり焼きます。

後は、お好みで、ソース、マヨネーズ、青海苔、鰹節、紅ショウガなどを散らせば出来上がりです。

小麦粉が入っていないのは、知らなければ「卵が多めだなぁ」くらいにしか思わないんじゃないでしょうか。素晴らしい。

キャベツが余ってた時は、是非またやりたいレシピです。

2022年8月23日火曜日

俳句の勉強 27 季重なり

季重なりとは、一句の中に季語が二つ以上含まれるものを言います。一般には、主題が曖昧になるため、避けることが望ましいと言われています。

目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂
「青葉」は三夏、「時鳥(ほととぎす)」は三夏、「初鰹」は初夏の季語

季語はどこかに公式認定機関があるわけではなく、この言葉は何となく季節を象徴すると考えて使う俳人がいて、それに監修者・編集者・執筆者が同意して歳時記に収載することによって一般にも季語として認知されるようになります。

ですから、歳時記によっては季語として載っていたり載っていなかったりとバラバラの事もあるし、場合によっては季節が異なることも無いわけではありません。確かに近代的な歳時記が整備された昭和の時代以降、特に歳時記による足かせは強くなった感は否めません。

俳諧に特化して歳時記の名称を最初に冠したのは、1803年の曲亭馬琴の「俳諧歳時記」です。曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の作者として有名ですが、俳諧師というより今で言う小説家、脚本家です。「俳諧歳時記」には2600季語が収載されました。

その後旧暦から新暦への変更などにより、様々な混乱を経て近代的なまとまった歳時記は1933年の改造社の「俳諧歳時記」が始まりとされます。編者は山本三生で、俳人ではなくどちらかと言うと短歌中心の文学者です。

改造社版にも携わった高濱虚子が1934年に編纂した「新歳時記」は、作句のための実用的な最初の歳時記で、増改訂され現在も販売されています。1940年には、説明を簡素化し携帯に便利なように小型化した「季寄せ」も刊行されました。正岡子規から「俳句」を継承した虚子のこれらの業績が、ある意味「俳句」を窮屈にした部分と言えなくもない。

最初のすべての季語を網羅しようとして刊行された大歳時記の先鞭をつけたのは、角川書店の1964~65年の「図説俳句大歳時記」で春・夏・秋・冬・新年の5分冊。A4サイズで各巻500ページ前後、鳥の鳴き声を収録したソノシート(薄いビニール製のレコード盤)が付属していました。定価が一巻5000円前後ですから、全巻揃えると当時大卒初任給丸々1か月分かそれ以上の給料が必要という感じ。


話を季重なりに戻します。ですから、明治期に活躍した正岡子規の時代には、季語について今ほど厳格ではなかったわけで、子規の句には季重なりはけっこうある。それは、子規が季語を気にしていなかったとか、わざと季語を重ねて作ったとかではなく、当時は季語としてあまり認識されていなかった言葉が多かったのではないかと思います。

あたゝかな雨が降るなり枯葎 正岡子規
「あたたか(暖か)」は春、「枯葎(かれむぐら)」は冬の季語

現代で考えると、実生活は新暦、歳時記は旧暦という暦の不一致のせいで、まだ真夏の暑さが続いているのに立秋を過ぎると秋と言われても違和感があります。自然と、季節の異なる季語が混ざってしまう(季違い)ことだって普通にある。

実は、芭蕉は「季重なりはかまわないが無理に作らないこと」、虚子も「主題が明確なら季重なりはかまわない」としています。初心者のうちは、まずは一つの主題に絞る方が、たった17文字しかない中で表現しやすいということでしょう。自分が感じた思いを詠んだら、偶然に季語が複数入っていた場合は、季語の持つ言葉の力の主従がはっきりとしているならば恐れずに「できた!!」と叫びたいものです。

2022年8月22日月曜日

俳句の鑑賞 8 正岡子規

 俳句「夏草やベースボールの人遠」、短歌「打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に」は、同じ人が詠んだもの。

明治30年頃に詠まれたこれらは、当然野球についてのもの。プロ野球が成立したのは昭和9年のことですから、それよりも40年ほど前、まさに日本にアメリカのベースボールが紹介されたごくごく初期のことです。

詠んだのは、正岡子規。俳句の世界では、俳聖芭蕉に次ぐと言ってもよい大人物で、今でも使われる漢字の野球用語の多くは子規考案とされ、野球殿堂博物館入りしています。

1867年、松山市に生まれた子規は、8歳で漢詩を学び、17歳で俳諧を始めます。しかし、22歳で喀血し当時は不治の病と言われた肺結核と診断されます。これを機に、自分の俳号を「子規」としました。

子規は時鳥(ホトトギス)の別名。ホトトギスの口が赤いことから、古い中国の故事にならって「鳴いて血を吐くホトトギス」という表現が一般化していたため、子規は血を吐いた自分になぞらえたものです。

28歳の時に日清戦争に従軍するも、戦わずして終戦となりその帰路に再び喀血し、親友だった夏目漱石(漱石はもともと子規の俳号の一つ)の誘いに応じて松山に戻り静養します。しかし、すぐに上京し母と妹と共に台東区根岸に子規庵をかまえ、文筆活動を続けました。

30歳ごろには脊椎に結核が広がり(脊椎カリエス)、激しい痛みのために歩行もままならない状態になりますが、ほとんど寝たきりの状態の絶望の中で筆を取り続け、34歳で眠るように子規庵にて息を引き取りました。

過去の俳諧を徹底的に調べ上げて、言葉合わせの月並みな俳諧を否定し、心情を深くにじませる芭蕉を高く評価しました。そして、見たことを見たままに詠み込む「写生」を重視し、近代文学として確立し「俳句」と呼ぶようになりました。


誤解を恐れずに言うならば、今の「俳句」は子規から始まります。いろいろな議論がありますが、少なくとも短い生涯で俳句は2万5千句、短歌は2千5百首を残した偉大な文豪であることは間違いありません。


夏井いつき氏の著書で「子規365日」というのがあります。この中で紹介された名句・秀句・珍句を自身のYouTubeチャンネルのシリーズで、季重なり、「や」や「けり」の使い方、「暑さ」や「色彩」の表現などの学びの見本として紹介していました。

松山市立子規記念博物館では、子規の俳句をデータベース化して公開しているので、興味を持たれた方はネットで確認するとよいと思いますが、ここでは夏井氏がYouTubeで紹介した句を列挙するにとどめます。


春や昔十五万石の城下哉

松山や秋より高き天守閣

うれしさにはつ夢いふてしまひけり

おお寒い寒いといへば鳴く千鳥

蒲公英(たんぽぽ)やローンテニスの線の外

蝶飛ブヤアダムモイブモ裸也

君を待つ蛤鍋や春の雪

馬ほくほく椿をくぐり桃をぬけ

摘草や三寸程の天王寺

春雨やお堂の中は鳩だらけ

春の夜や寄席の崩れの人通り

春菊や今豆腐屋の声す也

菜の花やはっとあかるき町はづれ

故郷やどちらを見ても山笑う

昼過ぎや隣の雛を見に行かん

若鮎の二手になりて上りけり

飛び込んで泥にかくるる蛙哉

蜂の巣に蜂の居らざる日和哉

板の間にひちひちはねるさくらだい

夕桜何がさはって散りはじめ

花御堂の花しほれたる夕日哉

梅雨晴れやところどころに蟻の道

花一つ一つ虻もつ葵哉

川セミノ来ル柳ヲ愛スカナ

枇杷の実に蟻のたかりや盆の上

火串消えて鹿の嗅ぎよるあした哉

田から田へうれしさうなる水の音

茗荷よりかしこさうなり茗荷の子

瓜くれて瓜盗まれし話かな

花守と同じ男よ氷室守

家のなき人二万人夏の月

痰吐けば血のまじりたる暑哉

猶熱し骨と皮になりてさえ

ぐるりからいとしがらるる熱さ哉

生きてをらんならんといふもあつい事

腹中にのこる暑さや二万巻

大仏に二百十日もなかりけり

秋の蝶動物園をたどりけり

淋しさの三羽減りけり鴫の秋

松に身をすって鳴けり雨の鹿

色里や十歩はなれて秋の風

鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな

しぐるるやいつまで赤き烏瓜

黒キマデニ紫深キ葡萄カナ

冬ざれの厨に赤き蕪かな

穴多きケットー疵多き火鉢かな

冬の日の筆の林に暮れて行く

画室なる蕪を贈って祝ひけり

何はなくと巨燵一つを参らせん

正岡子規

2022年8月21日日曜日

俳句の鑑賞 7 小林一茶

現代で「いっさ」と言えば、Da PumpのISSAですが、お父さんが小林一茶が好きでつけた名前で本名は一茶らしい。

それはともかく、江戸時代の俳諧師で芭蕉、蕪村に次いで有名なのが小林一茶で、1763年、長野県信濃町の比較的裕福な農家の長男として生まれました。3歳で母と死別し、8歳の時に父親が再婚。ところが、一茶は継母に馴染めず弟が生まれたことで関係は破綻してしまいます。

父親は一茶が15歳の時に江戸に奉公に出してしまいますが、一茶はしだいに俳諧に興味を持ち徐々に知られるようになります。39歳の時に父親が亡くなり、継母・弟との間で泥沼の相続問題が生じました。

何とか和解にこぎつけたのは13年後で、一茶は故郷に定住し初めて結婚します。しかし、生まれた4人のこどもを次々に幼くして亡くし、妻にも先立たれ、再婚するもその相手も亡くなります。再々婚したものの一茶自身も65歳で、辞世の句を残すことなく急死しました。

比較的、都会的な精錬されたものと言うより滑稽な風味のある田舎調の句が多く、現在に至るも独自の世界が根強いに人気を博しているポイントのようです。また残した句の数は2万を超えるのも驚きですが、一瞬の閃きで作句するスタイルから駄作も多いと言われています。


名月を取ってくれろと泣く子かな
 小林一茶

これは誰もがきいたことがある有名な句。

我と来て遊べや親のない雀 小林一茶

これも有名です。実母に死なれて淋しかった少年時代を詠んでいます。

椋鳥と人に呼ばるる寒さかな 小林一茶

梅が香やどなたが来ても欠茶碗 小林一茶

めでたさも中位なりおらが春 小林一茶

やせ蛙まけるな一茶これにあり 小林一茶

これらは、貧乏生活していた若い頃の状況。椋鳥は田舎者という意味。カエルの喧嘩を見て弱そうな方を応援するのは、自分の境遇に重ねている。

これがまあつひの栖か雪五尺 小林一茶

やっと相続問題が解決して、信州に永住を決意した時の句。

陽炎や目につきまとふわらひ顔 小林一茶

こどもを次々と失った悲しみを詠んでいます。

ネットに全句を掲載しているサイトもあったりしますので、根性があるならじっくり眺め倒すことが可能ですから、一茶ワールドに浸りきってみるのもありですね。

2022年8月20日土曜日

俳句の勉強 26 視点移動

俳句は映像詩。たった17文字の中で、感じたものを映像としていかに凝縮させるかということ。圧縮した映像を、読み手がその人なりに解凍して何らかの感慨を得るのが醍醐味です。

約束事となる季語が、最低限の共通の映像を提供してくれるので、季語からスタートして目的となる映像に着地するのか、あるいは逆に最終的に季語の映像に収束させるのか、それは俳句を作る人の自由であり技術というところ。

この中で、切れ字の役割は大きくて、切れを入れることで視点を変えることができて、1シーンの中が1カットから2カットに増えて中身が膨らんできます。ただし、17文字を2シーンにしたり、3カット以上にすると、ブツ切れになり過ぎてまとまりが無くなってしまうので注意が必要です。

桐一葉日当たりながら落ちにけり 高濱虚子

上を見上げると桐の葉がある。陽の光を浴びている葉が枝から離れ、ゆらゆらと落ちてきて地面に着地したということ。視点の移動は高い所から低い所へ、上から下へと縦方向に動いていくようにできています。

流れ行く大根の葉の早さかな 高濱虚子

目の前の小川に上手から大根の葉が流れてきたが、速い流れに乗って下手に去っていった。今度は視点の移動は横方向、上手から下手です。

もちろん静的な映像をじっくりと呼んだ秀句は当然あるんですが、初心者は視点を動かした方が、俳句にダイナミックな雰囲気が加わり面白くなるようにに思います。静的な句を一句。

香を残す蘭帳蘭のやどり哉 松尾芭蕉

芭蕉が悦堂和尚の隠居を訪ねた時、実に清楚な蘭のような部屋だったと感じたという内容で、静かに身動きせずに嗅覚だけを鋭敏にしている芭蕉の姿が思い描けます。


それでは視点移動を意識して作ってみます。

盆の月櫓(やぐら)遠巻き指銜(くわ)え

「盆の月」は初秋の季語で、仲秋の名月の一つ前の満月。つまり、今の暦でちょうどお盆の頃のことで、各地の町内では広場で盆踊り大会などが盛んに行われます。空に満月があり、広場で櫓の周りを踊っている人たちが楽しそうにしています。それを遠巻きに見物している自分は、踊りが出来ないのか、あるいは恥ずかしいのかその輪に入れずに指をくわえて見ているだけ。

空から視点を下に移動してくると盆踊り。そして、さらに指先のアップにまでカメラを寄せていくという雰囲気です。もちろん実際に自分の指を口に突っ込んでいるわけではありませんが、高から低、遠から近、大から小という三次元的な視点移動ができたように思います。

2022年8月19日金曜日

俳句の勉強 25 二つのパターン

基本として17文字しか使わない俳句の組み立て方には、2つのパターンがあります。それが「一物仕立て」と「取り合わせ」です。

「一物仕立て」は、一つの季語(題材)に対して句を詠むこと。「取り合わせ」は、季語とそれとは別の題材について詠むこと。教科書的に説明するとそんな感じになりますが、ちょっと理解しにくい。

実際の例句で確かめましょう。

白牡丹といふといへども紅ほのか 高濱虚子

季語は白牡丹。白色というけどよく見れば紅色がわずかに混ざっている、という内容です。まさに一物仕立てで、季語の内容だけについて語っています。

春雷や女ばかりの雛の宿 高濱虚子

こちらは、季語は春雷ですが、助詞の「や」で切って場面を屋外から屋内に変え、中七・下五に展開を作っているので取り合わせです。

しかし、なかなかクリアカットにどっちと断定しにくい俳句もみかけます。それは、途中に明確な切れがあるため取り合わせのように見える一物仕立てと、切れが明示されていないために一物仕立てのように見える取り合わせがあるから。このあたりは、たくさんの句を鑑賞して、感覚を身につけていくしかないようです。


例えば、これはどうでしょうか。

遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子

正解は取り合わせ。遠い山に日が当たることと、枯野が広がっているという2つの題材を詠んでいます。ところが、日が当たるのは枯野とも鑑賞できてしまうため混乱します。しかし、冷静に考えると遠い山と季語である枯野はまったく別物とわかります。

一物仕立てだろうと取り合わせだろうと、どっちでも良さそうに思いがちですが、そこを見抜けないと作者の言わんとすることが理解できずに間違った鑑賞をしてしまうので、ちゃんと勉強しておかないといけないということです。

2022年8月18日木曜日

俳句の勉強 24 著作権

俳句も「短文学」と位置付けられるわけですから、当然できた作品については著作権が存在します。文学作品の著作権は2018年までは、作者の死後50年間存続するとされていました。現在は死後70年間と改められています。

ちなみに2018年までに著作権が切れたと判断されているものについては、そのままで延長はされていません。つまり1968年以後に亡くなった方から、70年間ルールが適用されるということになります。

さて、そこで俳句です。一般に、俳句は著作権はあるものの、それを引用することについて権利者の許諾は一般に必要ないものとされています。つまり一部を抜粋・・・とかって、17文字しかないので、抜粋したらもう何が何だかわからないことになるので、基本、全文引用しか使いようが無い。

例えば、俳句歳時記にはたくさんの例句が収録され、それが歳時記を持つ重要な要素ですが、このような場合には作者名があれば出典の省略も許容されています。またエッセイなどの中で使う場合も、主たる文章との関連性がはっきりしていればかまわない。鑑賞文や批評文についても同様の考え方が成立します。

また、投句したものが公開され、それが添削されて改変された場合は、投句自体が添削される可能性を前提に行われる行為として認められており、著作権侵害にあたらないとされています。

このブログでは、有名な俳人の句を引用していますが、必ず作者名は記載しています。また、その目的は、俳句を勉強・鑑賞するための自分なりのノートとして、関連性のあるものについて紹介しているので、基本的には問題は無いと考えていますが、1968年(昭和43年)以後に亡くなられた方や、現在ご活躍中の俳人の作品については、注意をしていきたいと思います。

作者を明記していない句は、当然、自分の作品。誰かが何処かで引用することがあるかもしれませんが、それに対して文句を言うことはありません・・・って、そんな奇特な人はいないでしょうけどね。


若鮎の二手になりて上りけり
 正岡子規

正岡子規が亡くなったのは 1902年(明治35年)9月19日で、この日は「子規忌」として季語にもなっています。すでに120年経っていますので、著作権は消滅しています。

鮎は晩秋に産卵し、生まれた稚魚が一度川を下ります。春になると、若鮎となって再び川を遡って来ると、二つの川の合流地点で鮎もまた二手に分かれるさまを描いています。「若鮎」は晩春、成魚となった「鮎」は三夏の季語です。産卵後は「落鮎」という三秋の季語で呼ばれ、川を下りつつ体力を消耗して死んでいきます。

6月になると禁漁が解禁され、鮎釣を楽しむ人々が繰り出しますが、旬の時期は7~8月なので、食べるなら暑い盛りがお勧めと言うことになります。