2013年3月31日日曜日

区切りの休憩

平成24年度最後、あるいは2013年最初の四半期も今日でおしまい。

早い、早すぎるという感じなんですが、もう年を取ってくるとさらに時の体感速度は速まる一方なのでしょうね。

ちょうど年度区切りというわけでもないのですが、明日からまたがんばるために、ちょいと休憩としたい・・・

その分、明日以降に仕事の積み残すしわ寄せがいくのはわかっていますが、今日はブログは実質的に休みます(って、誰に向かって言ってんだか)。

それでは、また明日。


2013年3月30日土曜日

Zukerman / Mozart Violin Sonatas

どうも、最近クラシック音楽の話題が無いじゃないかと・・・まぁ、確かにそうなんですが、もともと好き勝手に書き綴っているブログですし、クラシック音楽は超マイナーなネタですから、無くて悲しむ方もいないでしょう。

何しろクラシック音楽というのは、限りある資源。現代作曲家が大好きで、今時のものばかりを追っかけていくならともかく、バッハだ、ベートーヴェンだ、シューベルトだと、クラシックの王道 - つまり、バロック ~ 古典 ~ ロマン期を中心に楽しむとなると、おのずと限界があるのです。

そりゃ、モーツァルトの何百曲をすべて網羅してとことんしゃぶりつくす・・・なんてことをすると、それだけで数年間は費やすことができるでしょうが、クラシックで生計を立てている演奏家や評論家じゃあるまいしね。

そもそも、モーツァルトがいかに天才だと言っても、名曲の数と同じくらいくだらん曲も残していたりしますし、名曲の中でも個人的な好き嫌いで的を絞っていくと、残った曲の数は簡単に数えることができる程度です。

そういうのを、今度は演奏家を変えて楽しむという・・・このあたりから、いわゆるマニア道がスタートするんですが、誰もが褒め称える名盤から始まり、歴史的音源とか、モダン楽器か古楽器か、あるいは驚異の新人登場などなど、楽しむ理由はいくつかあるもんです。

確かに、演奏者の数が少ないものほど同じ楽譜を使っているとは思えないくらい、聴いたときの印象が違ってきたりするのは、クラシック音楽の楽しみの最も大事なところかもしれません。グレン・グールドから始まった「ゴールドベルグ変奏曲」は20種類以上はそろえました。

この手の収集では、最大のボリュームになったのは、ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲。どんなに少ないCDセットでも8枚組、その他のピアノ独奏曲やピアノ協奏曲なども含めた全集ともなると、その倍くらいの枚数になったりします。演奏家によっては、何度も録音していたりして、いやはや一体どんだけあるんだか。

ただし、ベートーヴェンの後にシューベルトのソナタにはまったもんで、今でもよく聴くのはどっちかというとシューベルト。いずれにしても、いくつか聴いていくと自分にとっての定番、というか基本になる演奏が見つかるものです。それと比較して、好きとか嫌いとかが決まっていくもの。

演奏家も新しい人がでてきたり、すでに有名になった人が満を持して「ついに登場」みたいな新しい録音もあったりするのですが、手に入るのは大多数はすでに演奏家も亡くなっているので、だんだん収集のペースはおちてくる。

となると、いよいよ、本来の楽器以外で演奏するとか、別の作曲家が改変したりとかの編曲物に手を出すのですが、これは脇道みたいなもので、入ってみるとすぐに行き止まりだったりするものです。結局は、また大通りに出てきて、次の脇道を探す・・・

そんなわけで、いよいよあちこち旧譜の中から探して楽しむことについては行き詰まった感があり、通販サイトの端から端まで見て回るというようなことがなくなりました。新譜の中でチェックしていると、これは聴きたいと思う物はそんなに多くはなく、数ヶ月に1枚(1セット)という感じ。

そんな中で、久しぶりにちょっと気になる新譜が出てきました。とは言っても、旧録音のセットなんですけど、ズッカーマンのモーツァルト - ヴァイオリン・ソナタ集です。1990年の録音で、これまでCD4枚組のセットで選集としてたびたび発売されてきたもの。

今回は、未発表だったものを加え全集としての新登場というところがミソ。ズッカーマンの演奏は、名だたる演奏家の中ではやや印象が薄い、つまり個性があまり出ない感じなのですが、逆に曲そのものをしっかりと聴きたいときにはちょうど良い。

有名曲だけでいいならムター(とはいってもCD4枚)、全部聴くならポッジャー(CD8枚)をすでに持っているのですが、感情入れすぎのムターと地味な古楽器のポッジャーという個性派コレクションですから、ズッカーマンは間をとってちょうどいいような気がします。

こういう曲集を聴いていると、天才モーツァルトの凡才な部分が炸裂していて、芸術家というより職業的作曲家としての真の姿が垣間見える・・・なんて言うと、世のモーツァルト・フリークに袋だたきに遭うかもしれません。

でも、実際のところ長くはない生涯で、さまざまなジャンルにわたって700曲以上の作曲を遺すということは、大多数は譜面を書き飛ばしていたはずで、ひとつひとつはそれほどたいした曲ではないはずです。天才の天才たる所以は、その中に1小節でも、はっと思うメロディをすべりこませたところなんでしょうかね。

2013年3月29日金曜日

プロ野球開幕

今日からプロ野球が開幕して、半年間のペナントレースの開始です。

こどもの時は、普段から野球帽をかぶって、冬でも半ズボン、袖口は鼻水でカピカピという・・・まぁ、行ってみれば典型的な昭和っ子でした。野球帽には、当然のようにGYマークがついている。

言ってみれば、まさに巨人・大鵬・玉子焼きにどっぷり浸かっていたわけですが、それというのも他に情報がないからで、読売ジャイアンツのファンとそのアンチしか存在しなかった。

なにしろ、強かったですからね、巨人は。川上哲治監督の下V9を達成していた頃で、プロ野球史上最強軍団を誇っていたわけです。

1番センター柴田、2番セカンド土井、3番サード長嶋、4番ファースト王、5番ライト末次、6番レフト高田、7番ショート黒江、8番キャッチャー森、9番ピッチャー堀内・・・みたいな感じでしょうか。

テレビでもラジオでも、巨人がらみの放送しかやらないし、たまに球場に足を運んでも後楽園球場か神宮球場ですから、巨人以外の選手は覚えることができませんよ。巨人のファンににならないなら、アンチ巨人になるしかない時代です。

テレビで見れるスポーツの娯楽というと、あとはプロレス。ジャイアント馬場、吉村、アントニオ猪木が活躍して、外国人の大男をバッタバッタとなぎ倒す・・・当然、サッカーもありましたけど、地味なスポーツで、自分でやっていてもただ走るだけで全然面白くない。

時代は一気に現在に戻って、もはやまじめな巨人ファンではなく、巨人-広島の開幕戦を見ていても、数人を除いて「これって誰?」という感じで、アマチュア野球にプロ野球選手が数人混ざっている試合という感覚でした。

一応、巨人が勝って、嬉しいと言う事もないのですが気分が悪くならなかったので、多少巨人ファンの血が小指の先ほどは残っていたのかもしれませんね。それよりも、昔は見向きもされなかったパリーグの新人の打席ごとの速報が入ってくるあたりは、時代の違いの思いを深くしました。

高校から直接大リーグへと熱望していた大谷クン。結局日本ハムで、投手と野手の両方で活躍できる事を目指してキャンプを打ち上げ、開幕戦はバッターで結果を出しました。世の中そんなに甘くはないということを、これからいろいろ経験していくんでしょうけど、とりあえずがんばってもらいたいものです。

診療をしていて感じるのは、最近のこどもケガ。野球少年もいますけど、やはりスポーツとしてはマイナーという感は否めません。ケガのしやすさということもあるんでしょうけど、あいかわらずサッカー人口の方が圧倒的のようです。

野球の人気も、今のままだとおじさんの楽しみで、おじさんも新しい選手を知らないと離れていくだけということもあります。WBCのように日本中を巻き込めるイベントは、いろいろ問題があるかもしれませんが、積極的に参加してもらいたいと思うのでした。

2013年3月28日木曜日

春の高校野球

WBC (World BAseball Classic) が、残念な結果に終わって、何となく野球に対する興味がしぼんでしまった感がありますが、春の高校野球が始まっています。

自分が物心ついたときには、今のような形で春と夏の高校野球が行われていたので、両方とも季節の風物詩として当たり前のような感覚でいます。特に春の場合は、どこかで誰かが勝手に選んだチームが出で来る感じがして、やや興味が少なめ。

実際は、秋からの各地の大会でがんばった結果が反映されているわけで、雰囲気で出場校が決まっているわけではないのですが、さすがに実際に足を運んで見るほどのファンでないと、そのあたりの結果についてはわかりませんね。

高校野球の場合には、強豪と呼ばれる学校がしばしば登場し、春夏連覇とかプロ野球にはない話題を提供してくれます。一人のスターで勝てるスポーツなら、最大で3年間しか続かないわけですが、強豪チームというのはそれ以上に長い期間君臨している事が多い。

いかに野球がチーム・スポーツであるかということだと思いますが、監督の采配や練習に対する姿勢、そして選手たちがそういう雰囲気のプライドを受け継いでいくことが、強豪チームの継続につながっているんでしょうね。

今回は、すでに番狂わせ的な結果が出て、なかなか面白い展開になりつつあります。当然、強豪校がだんだん入れ替わっていかないと、見ている側は面白くないです。

特に高校野球の場合、県単位、あるいは地方単位での応援をしたくなるわけですから、できるだけ日本中の各地から均等に勝ち残ってくれるのが理想的。自分の場合、神奈川のチームが敗退すると関東、関東が消えると東日本という具合。

まぁ、見ている側の勝手な思い入れとは関係なく、高校生の皆さんにはケガすることなく精一杯がんばってもらいたいものですけどね。

2013年3月27日水曜日

受診するといくら?

せっかく桜満開となったものの、天気は連日すっきりせず、花散らしの雨と花冷えで、花見の好機が来ないうちに終わってしまうのでしょうか。

国が決めている保健医療の「定価」となる診療報酬点数は、2年に一度年度末に改定されるのですが、今年はありません。これがないと、3月は大きな波風はなく、いつもの年のいつもの月のひとつという感じ。

誰だって、普通はまったく値段がわからずにお店に入ったりはしません。レストランでも、メニューの横に値段が書いてあったほうが安心するものです。ところが病院に行って、診療を受けようというのに値段が表示されている事はありません。

たびたび、この点数についても触れてきたのですが、本当にある程度の値段表みたいなものが表示できるといいのですが、正直言ってあまりに複雑で、そして厚労省の文書がお役所的で文章が意味不明の部分が多すぎる。

そして、いざ受診して、どんな検査をするとか、どんな処置をするとかは、最初からはわからないので、先に「あなたの本日の支払いは××です」という説明は不可能なわけです。

例えば、関節リウマチを心配して初めて受診した場合、初診料+レントゲン料+検査料が主な項目で、場合によってはレントゲンは撮らないこともあるし、エコーの検査を行う事もあったりします。検査についても、リウマチ以外の病気の可能性を考えて検査する項目の数は大幅に変わることがあります。

リウマチと確定して再診する場合には、再診料+検査料+薬剤料が基本の組み合わせ。検査は状況によって毎月だったり、2ヶ月ごとだったり。また必要に応じて、レントゲンなどの画像検査も追加されるかもしれません。

3割負担の方だと、大雑把に多くて初診でも再診でも5000円くらいまでというのが目安。ただし薬で生物学的製剤という高価な薬を使う事になると、毎月4万円前後が加わってきます。結局、値段を明示したいと思っても、この程度の説明しかなかなかできない。

数字をしっかり書いてみようと思って書き出したのですが、やっぱり簡単にポンっと言うわけにはいかないという結論になってしまうのでした。

2013年3月26日火曜日

関節リウマチ新薬事情

関節リウマチの治療は、2003年に本邦で初めての生物学的製剤が登場してから、急進的な革新を続けてきました。

その後、この10年間の間に次々に製剤が開発され販売に至っています。登場順に、

インフリキシマブ (レミケード)
エタネルセプト (エンブレル)
アダリムマブ (ヒュミラ)
トシリズマブ (アクテムラ)
アバタセプト (オレンシア)
ゴリムマブ (シンポニー)
セントリズマブ (シムジア) 2013年3月発売

トシリズマブのターゲットはサイトカインの一つであるインターロイキン6、アバタセプトのターゲットは免疫細胞ですが、それら以外はすべてTNF-αと呼ばれるサイトカインです。サイトカインは、細胞から細胞へ情報伝達をする物質で、リウマチでの実行犯みたいなもの。

抗TNF-α製剤が多く、後発のものほど、いろいろとアレンジはされているものの、実質的な効果も副作用も大差はありません。医者としてもどれを患者さんにお勧めするか、特別の理由は見出せません。

使用方法が点滴なのか、皮下注射なのか、場合によっては自分で注射するのか、また週に2回、2週間に1回、月に1回、2ヶ月に1回というようなところで、患者さんのニーズに合わせて薬の選択を考えることが多くなります。

ターゲットがTNF-α以外のものは、最初から使用してもいいし、抗TNF-α製剤の効果がでない患者さんの場合の次の選択肢としても重要な意義があります。

つい先頃発売されたシムジアも含めて、薬の値段は通常の使用ではほぼ似たり寄ったり。どれを使用しても、3割負担の方で毎月4万円程度という高額な薬剤費が必要になります。

ただし、その対費用効果は大きく、通常の生活を送り、積極的な経済活動を送ることができる可能性を考えると、値段だけで治療をあきらめるのはもったいないかもしれません。

そして、つい先頃8種類目の新しい薬が製造販売承認されました。これは、JAK阻害薬のトファシチニブ (ゼルヤンツ) と呼ばれるもので、これまでにないものです。

これまでの生物学的製剤が、細胞外での作用であったのに対して、トファシチマブは細胞内での情報伝達(ヤヌスキナーゼ経路)をブロックするという機序を持っています。

作用機序の新しさは注目すべき点ですが、患者さんにとって最も気になるのは使い方でしょう。これまでのものがすべて注射でしたが、トファシチマブは経口製剤、つまり内服薬なのです。注射に比べて、使うときのハードルがさがります。価格については多少は下がるでしょぅが、内服薬としてはかなり高額になる事は避けられないでしょう。

副作用については、注射製剤よりも多いとの話がよく聞かれています。いずれにしても、5月には発売されると思われますが、内服だからといってすぐに飛びつく事は危険で、いろいろなデータが見えてくるまでは慎重な選択が必要です。

リウマチ患者さんにとっては、治療の選択肢が増える事は歓迎できる事で、ますます寛解(≒治癒)を目指して、病気を克服する方法が広がっていきます。それにつれてリウマチ診療をする医者の側も、より専門性が高まり、さらに勉強しないといけないわけですが・・・

2013年3月25日月曜日

桜満開

都内よりも数日遅れて、自分のエリアでも桜が満開となったようです。一番のお花見の時期は今週前半でしよう。

この写真は、近くの老人施設の「あすなろ」の敷地の桜。うちのクリニックの名前と一緒なので、しばしば関係があると思われがちなのですが、実際のところはまったく別々のものです。

ただし、偶然とはいえ不思議な縁というものがあるもので、まず開業時期がほぼ一緒。うちは平成17年12月、あちらは同じ年の4月だったでしょぅか。

クリニックの名前は、前年に計画を始めた早い時点で決定していたので、真似をしたわけではないのです。

さらに驚いた事に、老人施設の母体は日吉にあるクリニックで、なんと大学の同級生の実家。そんなこともあって、できることは協力させてもらっていたりするのです。

開所した当初は、まだまだ桜は苗木の段階で、まだまだ満開になってもまばらでまだまだという感じでした。しかし、去年くらいからは上野公園なみとはいかないまでも、かなり立派な見ごたえになりました。

このあたりで、もっとも花見をしたくなるスポットになったかもしれませが、そのまま施設やうちのクリニックもエリアで定着してきたなら嬉しい事です。

2013年3月24日日曜日

Life of Pi (2012)

間違いなく、「ライフ・オブ・パイ - トラと漂流した227日」は良い映画だと思う。先頃発表された、アカデミー賞では監督賞などを獲得しています。

邦題だけ見ると、パイが絶望的な漂流生活から無事に生還するアドベンチャー・ストーリーと思いやすいけれど、そんな簡単な内容ではない。実に奥深い話であり、一つ一つのセリフにこめられた意味は、強いメッセージとなって観る人に伝わるのです。

創作活動に行き詰まっているカナダ人の作家が、ママジというインド人からパイに会えば「神の存在を信じる」話を聞けると教えてもらいます。そして彼が、パイののもとを尋ねてきて、その生い立ちからの話を聞くところから映画は始まります。

パイはこどものときに、名前からいじめを受けます。正確にはピシン(piscine)というのですが、これがおしっこ(pissing)に似ているためでした。そこで、彼は自らパイと名乗り、果てしなく続く数学のπを覚えて、いじめを克服するのです。

そして、もともと家はヒンズー教でしたが、父親は愚か者は嘘をつき、無知だから宗教が必要だとこどもに言うのです。無知だったパイは、あるときキリスト教に興味を持ち神と自分たちの存在を意識します。さらにイスラム教も受け入れるようになるのです。

父親の言葉は含蓄があり、3つとも信仰する事はどれも信じない事だとパイに説明します。このあたりの宗教観は日本人には、理解しにくいところですが、自分たちもパイと一緒に無知な状態から出発すると思えたら、この物語のすごいところの一端がわかるような気がします。

動物園を営んでいた一家は、政治的情勢の悪化により動物をカナダで売るために貨物船に乗船します。その途中で 嵐に会い貨物船は沈没しもパイは家族を失います。そして救命艇で脱出できたのは、パイとハイエナとシマウマとオラウータン、そしてリチャード・パーカー。

リチャード・パーカーはベンガル虎で、最終的にパイとリチャード・パーカーが漂流を続ける事になるのです。ここで、リチャード・パーカーという名前について、知っておくべき予備知識があります。

エドガー・アラン・ポーの小説の中で、4人で漂流中に食べ物がなくなり生贄になる人物の名前がリチャード・パーカーなのです。その後、同様の事件が実際に起こり、他の遭難者に生贄にされた17歳の少年の名前もリチャード・パーカーだったという事実があるのです。

このことは、映画のオフィシャル・サイトに書かれている事なので、ネタバレではなく映画を見る前に知っておいたほうが良い知識なのでしょう。実際、トラと一緒にすごした驚異の物語の後に、もう一つの別の解釈による話が用意されていて、ここで生き抜くための究極の話がパイの口から語られるのです。

パイは漂流の過程で、宗教を超えた本当の「神」の存在を確信し、トラのリチャード・パーカーと一心同体となって、生き延びるための様々な知識を体得します。 宗教には疑問が付き物で、疑いが信仰を維持させる。

無知でなくなったパイは、もはや既存の宗教は必要なく、その上に立つ「神」を直接に信仰するような気持ちになったのでしょぅか。誰かのために死ぬことと、自分のために誰かを死に追いやることを対比比させて、信仰とは何かを問いているのかもしれません。

映画の技術的な部分で、リチャード・パーカーのほぼすべてがCGで作られているという点は驚異的です。確かに本物のトラでは、このような映像は不可能でしょう。ありあまるCGは、映画の嘘を際立てるので、あまり好きではありませんが、この映画はCGを効果的に使う手法の手本となるでしょう。

少なくともアカデミー作品賞を受賞した「アルゴ」よりも、視覚的体験を通して、多くのことを考えさせられる映画だと思います。そして、素晴らしく美しい映像よりも、何度か見直してセリフの一つ一つを吟味すべき良質の映画であろうと断言できると思いました。

★★★★☆

2013年3月23日土曜日

ヒポクラテスたち (1980)

良い映画の条件というのは、簡単に語ることは難しいものです。それは、人によって価値判断するための基準が異なるからです。

映画を作る人、それを配給する人、そして大多数の観るだけの人など、それぞれの立場は少しずつ違っています。映画が「動画を用いた表現芸術」であるとするなら・・・芸術である以上、作り手の自己満足だけではなく、それを第三者が受け入れることが必須です。

映画を直接作る人の感性が最も大事なように思いますが、観客が何らかの感情・・・喜びや楽しみだけではなく、時には怒りや悲しみを呼び起こされるべきです。しかし、実際には中間で映画で経済的な成果を期待する人々によって、観客は自由に映画を選択する権利を限定されたものにされていることは事実です。

もっとも、そうだとしても作られる映画の数は膨大で、職業的に映画に関わっているのでなければ、限定された中のものだけでも観きれるわけではありません。また、そうそう人生が変わるほどの大きな精神的な変革が起こることもないでしょう。

日本ではATG - 日本アートシアターギルドという組織が、1961年から1992年まで積極的に非商業的な芸術性の高い映画を製作していました。

芸術性の高さは作り手の自己主張に傾きすぎると、ただ難解なだけになり、結局はその映画から伝わるものが無くなってしまいます。わかりやすく、観客が単に楽しめる内容だと娯楽映画という枠に入ってしまい、芸術性は低下することは必然です。

初期のATGの映画は、そのあたりのバランスが比較的うまく調和していて、低予算で作り手の伝えたい事はうまく観客の見たいものに重なっていたのです。 60年代には、主として外国の映画の配給が活動の中心でしたが、70年代からはしだいに独自に映画を製作する路線が定着していきます。

もっとも、自分がATGというものの存在を知るのは、高校生以後のことで、 特に東陽一の「サード」や「もう頬づえはつかない」などは印象に残る作品でした。しかし、大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」は、最もインパクトのあった映画として記憶に残りました。

 今から考えると、そうそうたる俳優が出演していて、古尾谷雅人、伊藤蘭、柄本明、小倉一郎、内藤剛史、斉藤洋介、阿藤海、牟田悌三、草薙幸二郎、森本レオ・・・さらに、ゲスト的な出演として、手塚治虫、北山修、鈴木清順、原田芳雄、渡辺文雄などなと゜。

当時は、「普通の女の子に戻りたい」として、キャンディーズを解散し引退したはずの伊藤蘭の2年ぶりの芸能界復帰となることが話題になりました。だからといって、そのことを積極的に広告的に利用するわけでもなく、医学部最終学年の臨床実習をするグループを中心に淡々と青春群像を描き出しました。

ちょうど医学部に進学した自分にとっては、まさにジャストな映画だったわけです。もちろんこの映画で語られることに比べれば、実際の自分の医学生としての体験はまったく平々凡々で、基本的には映画はあくまでも映画。大森一樹が医学部卒業で医師免許を持っていても、医学生という設定は、物語を作るための小道具の一つにすぎません。

しかし、医学を目指すものの喜びや不安、恐れなどの葛藤を純粋化して見せてくれたわけで、医学とは無縁の世界の若者たちにも十分に伝わる何かが2時間の物語の中に詰まっていました。ですから、興行的にもそれなりの成功を残すことになり、良い映画としての条件を立場を超えて満たしたのではないでしょぅか。

しかしATGは80年代に入ってから、急速に製作本数が減少し、活動を停止してしまいました。日本が、高度経済成長期からしだいにバブル期に移行していく中で、芸術性よりも娯楽性の追求に日本人の興味が移っていったことは否定できないのかもしれません。

2013年3月22日金曜日

アマリリスの種

毎年秋が深まった頃に、患者さんからアマリリスの球根をいただきます。大変ありがたいことで、早いとクリスマス、遅いと正月に開花して、楽しませてくれます。

花は枯れてしまうと、見た目がありますから根元から切り落としてしまいます。ただ、球根ですからそのまま枯れて捨ててしまうのももったいなく、もう一度翌年に花が咲くことを期待してとっておくのですが、残念ながら葉しかでてこない。

簡単なようで、なかなか難しいもので、うまく花が咲くように相当に人工的技術が自然をコントロールしているんだろうと思います。こういうのも。科学の進歩のひとつということでしょぅか。

そこで、今回は考えた。球根で復活が無理ならば、種から育てられないか。正月に開花して時に、おしべの先についている花粉を中央のめしべに受粉してみました。なんか、小学生の理科の実験みたいな感じ。

枯れてからも切り落とさず、じっと我慢。そしたら、花の根元がだんだん膨らんできて、ついに割れてなかから種が出てきました。 こげ茶色ですが、けっこう薄っぺらな感じで、一つの花に数十粒(枚?)の種が詰まっているようで、これが全部花を咲かせたら・・・

まぁ、そんなうまくいくわけはないでしょうが、ちょっと試してみたいと思うので、もしかしたら今年の秋から冬の楽しみの一つになるかもしれません・・・って、種から花が咲くようになるまで何年もかかるらしいんですけどね。

2013年3月21日木曜日

閑・閑・時々忙

休み明けはクリニックは・・・混みました。

もともと、木曜日き休みのクリニックが多く、午前中だけうちは診療をしていて、さぞかし患者さんが来るかと思ったら、実際はそうでもない。木曜日はクリニックは休みと言う考えが浸透しているのか、他の日の半分くらいが多い。

もっとも、午後は大学や一般病院の仕事をするので、少なめであまり疲れない程度かありがたい。ですから、たまに木曜日がハードだと、けっこう他の曜日よりもしんどい感じがします。

クリニックにかかってくる電話で一番多いのは、「今日診療してますか」という問い合わせの電話。診療時間を伝えておしまいのこともあるんですが、けっこう続けて「混んでますか」という質問が続く事が多い。

完全予約制とかでやっていると、そういう質問以前に空いている枠を案内するわけでしょぅから関係ないのですが、うちは予約制ではありません。整形外科は処置が多いので患者さん一人当たりの診察時間がなかなか読みにくい。

予約制を導入しても、その通りにうまく診察をこなすためには、医師が二人以上いないとなかなか難しい。関節リウマチのみとか、専門外来化すれば可能かもしれませんが、現実的には患者さんを来院した順番にたんたんとこなしていくしかありません。

天気が悪かったり、寒かったりすると患者さんは少ないとか、午前や午後一番は混みやすいとか、あるいは暗くなって診療終了間際も患者さんが多いとか、何となく傾向はあるのですが、なかなかその通りとも言いがたくも予想を裏切る事も少なくありません。

初診が4~5人くらい続いてしまうと、そこで1時間くらいは簡単にかかってしまうので、どうがんばってもどうにもできないので、かえって開き直りの気持ちでとっしりかまえて診察を行う気持ちになります。

初診-再診-再診-初診-再診・・・みたいにばらけていると、この患者さんまではテンションを保とうと思ってがんばるんですが、そこに到達したときにはまた患者さんがたまっていて、さらにテンションを保たないといけない。

長い待ち時間からくる患者さんのストレスと、診療の途切れがない自分のストレスは反比例しているようです。そこらへんのバランスがうまくいった日は、十分な充実感があって、有意義に仕事をしたと感じられるんですけどね。

とにかく、いつ混んでいるかはわかりません。外が大雪だったり、嵐だったりすれば、間違いなく空いていると思いますけど・・・そんな時には、誰も外には出たくありませんよね。

2013年3月20日水曜日

春分の日

今日は春分の日で休日。週の真ん中あたりで休みがあるというのは、大変助かる。とは言え、そのせいか月曜日と火曜日はフルスロットルで爆走の外来だったので、だいぶ疲れました。

やっぱり、こっちも年を取ってきてますからね。昨日も、開院以来の患者さんとの会話がそんな話題になりました。

「もう私も80歳近くなって、だいぶ体がいうこときかないわ。死ぬまで、ちゃんとめんどう見てよね」
「順当にいけば、大丈夫。自分より早く寿命が来るでしょぅから。でも、自分よりも若い人は最後までは無理ですね」

なんていう、なんとものん気なやり取りです。外来が混んでいて、そんな無駄話をしてと怒られるかもしれませんが、わずか数十秒のことですからお許しを。ちょっとした患者さんとのコミュニケーションは、お互いの信頼のためには重要で、けっして無駄ではありません。

今朝は、朝から寒すぎず、ほどほどの晴天でした。家内と長女と8時前に家を出て、墓参りをしてきました。近いので車で10分程度しかかからないのですが、なかなか足を運ぶ機会がなく、彼岸のときくらいはという気持ちです。

大々的に植え込みなどの手入れをして、だいぶきれいにした後は用意してきた花を添え・・・あ、お線香がない。まぁ、今回は線香抜きで勘弁していただいてと思ったら、長女に「そういうもんじゃないでしょ」と叱られました。

墓地の入り口で売っている線香を買ってきて、やっと墓参らしくなりました。いやいや、こどもに「ちゃんとしなさい」と言われるのも、年を取ったからでしょうかね。

2013年3月19日火曜日

Jesus Christ Superster (1973)

1971年にブロードウェイで初演されたミュージカルの映画版。キリストの苦悩を描き、より人間として描いた事で評判になり、賛美両論を巻き起こしました。

また、全編を音楽、しかもロックで構成し台詞的なところがまったくないというのも斬新で、今ではミュージカルの神様的な存在の作曲家のアンドリュー・ロイド・ウェーバーを一躍有名にした作品です。

面白いのは、舞台よりも先にレコードセットが発売され、自分たち中学生もイアン・ギラン(Deep Purple)がキリスト役ということで注目させられました。

映画化にあたっても、舞台を強く意識した作りになっています。砂漠のようなところに、役者がやってきて舞台を作り出すところから始まります。衣装を着たりして、だんだんそれらしくなるにつけ、いつのまにか物語が始まるのです。

ユダは黒人のカール・アンダーソン、キリストはテッド・ニーリー、そしてマグダラノマリアは映画の後からクラプトンのバンドに参加し日本でも馴染みのあるイヴォンヌ・エリマン。

最後まで緻密に構成され、普通の台詞がなくても歌だけで緊張感を保っています。映画でないと観れない物なのに、舞台を観たような錯覚があり、不思議な感覚を残しています。

最近は、舞台をニューヨークにして、現代的な感性を取り込んだ形でのリバイバルのステージが話題になりました。これは「ジーザス・クライスト・スーパースター アリーナ・ツアー2012」として映像化されています。

以前のバージョンを知るものとしては、かなりシャープになり、動きも今時のダンスが取り入れられて、ずいぶんと違うものの印象です。モダンな箱の中に、楽曲は昔通りで、正直古臭さを感じてしまいました。曲そのものがメインの話ですから、あまり変えようがなかったのでしょぅか。全体には舞台映像なのですが、映画を見るような印象で、映画版とは反対の印象でした。

実は、映画版を観るよりも先に、自分の場合は舞台をみてしまったんです。これは、劇団四季が完全に日本語化したもので、キリストは売り出し中の若手だった鹿賀丈史、マリアは久野秀子、ユダは滝田栄でした。

ですから、日本語の歌詞が妙に耳にこびりついて、逆に映画の英語の歌には最初は違和感をおぼえたものです。

例えば始めのほうで、不安を感じる民衆がキリストに対して、''What's the buzz? Tell me what's happening''と繰り返すところは、日本語だと「何が起きるのですか、どうぞ教えてください」となります。

まぁ、名作ミュージカルですからいろいろなバージョンが生まれ続けるのは当然のことでしょう。これからも、違った形で続いていく作品なのだろうと思います。

2013年3月18日月曜日

桜は、まだかいな

東京は、桜の開花宣言。例年よりも早く、今度の週末はまさに花見日和となりそうです。でも、こちら横浜北部では、まだまだ開花というほどではありません。蕾が膨らんで、数日中にはいけそうですけどね。

桜は卒業式にあう、あるいは入学式にあう、そういうことを考える人は、いくらでもいるもので、最近のメディアでも同じ質問をしていました。

これに対し、寄せられた回答は「卒業式=27%」「入学式=73%」(投票数3630)でした。まぁ、どっちでもいいんですけど、別れより出会いに期待する気持ちのほうが強いということなのかもしれません。

もうひとつ、今日はWorld Baseball Classicの準決勝。勝ち上がってきた侍ジャパンでしたが、プエルトリコに敗北しチャレンジは終了しました。

3連覇を目指してきたチームでしたが、狂い咲きのようにホームランが飛び出た試合の一つだけを除いて、全体的には貧打が目立ち、それを象徴するよな試合でした。8回の痛恨の走塁ミスがありましたが、それがあってもなくても結果は同じだったような気がします。

ですが、この2週間は、彼らの戦いが多くの夢や期待を与えてくれた事には変わりなく、十分に楽しませてくれました。ペナントレース直前の難しい時期に、日の丸を背負ってくれた選手たちには拍手をもってねぎらいたいと思います。

3月も後半に入りました。さぁ、皆さん春を迎える準備は整いましたか?

2013年3月17日日曜日

野獣死すべし (1980)

最近ではメディアでやたらと使われて、だいぶ権威が無くなった言葉にカリスマというのがあります。本来、charismaは、他人を引きつけ感銘を与える強力な資質のこととされています。最近のカリスマは、いろいろな分野で単なる有名になった人のことでしょうか。

松田優作は、間違いなくカリスマ性をそなえていた俳優でした。1973年に「太陽にほえろ」に出演し一躍名を知られるようになり、最後の殉職シーンはいまだに取り上げられることが多く、多大なインパクトを残しました。

そこからは、アクション俳優としてテレビ・映画にいろいろ登場し、自分たち同世代の若者は皆彼に憧れたのです。もちろん演じる役柄がハードボイルドそのもので、軽い言葉ですけど、一言で言うと「かっこいい」のでした。

誰もが松田優作のようになりたい気持ちをどこかに持って、なにかしらちょっとした仕草を真似たりした物です。そういうことを他人に感じさせる力が、本当のカリスマです。その頂点に存在するのが、1979年のテレビドラマ「探偵物語」でしょう。

それから亡くなるまでの10年間は、ハードボイルド俳優から、個性派俳優として演技に磨きをかけていく方向性に転換していきました。鈴木清順監督の「陽炎座」、森田芳光監督の「家族ゲーム」などによって、まったく違う松田優作に出会って、ファンははじめは戸惑ったものです。

しかし、しだいに演技に対してストイックでのめりこんでいく松田優作は、それまでと変わっていないことがだんだんわかってきたのです。演技派としての成功はハリウッド進出をはたしたリドリー・スコット監督「プラック・レイン」によって決定的となりました。

自らのカリスマ性の仕上げは、40歳という若さでの突然の病死という形で完成しました。「ブラック・レイン」の撮影の頃から、すでに末期癌で死が迫っていたにもかかわらず、治療を拒否して映画にのめり込んでいった姿は壮絶としか例えようがなく、常人を遙かに超えた強い意志がありました。

松田優作のアクションスターとしての最初の10年間、村上透監督との共作の数々が代表的な仕事としてあげられるでしょう。東映での「遊戯シリーズ」でもずいぶんと興奮させられたものですが、1980年の「野獣死すべし」は、演技派への変換点にたつ作品として一定の評価を与えるべき物だと思っています。

まず、大薮春彦の原作ではまさに「遊戯シリーズ」のようなクールなタフガイであった主人公は、体制に迎合せず、社会に対して冷めた感情を持った若者に変わり、松田優作はその役作りのために10キロ以上の減量、さらに頬がこけて見えるために奥歯まで抜いてしまいます。

映画でこの病的な青白い顔の松田優作を初めて見たときは、その異様な印象にしばらくたじろいでしまうほどでした。 しかし、独自の価値観の中で平然と犯罪を重ねていく主人公の姿は、この松田の役作り故の青白い炎を発して非日常のなかのリアリティを作り出しています。

日本の映画史の中では、とるにたらない一本かもしれませんが、松田優作という俳優を語る場合には、絶対に外してはいけない作品の一つ・・・と、自分は勝手に思い込んでいるのです。

2013年3月16日土曜日

Deep Purple / Live in Japan

70年頃から、日本でも外国からのロックのコンサートが頻繁に開催されるようになり、その牽引役だったのがウドー音楽事務所。まぁ、今でも外人タレント招聘元として、業界のドンになっています。

ウドーの事務所は当時は南青山5丁目にあって、青山通りのT字交差点からすぐの雑居ビルのなか。当時はネットなんて無いですし、コンサートのチケットは直接事務所に行って購入できました。

家が近かったこともあり、何度が足を運んだのですが、ディープ・パープルの1972年の日本公演は知ってはいた物の、行かなかった。お金が無かったのか、当時はまだあまり好きでもなかった・・・というより、もっと他に好きなバンドがあったからでしょうか。

なにしろ、東京12chとか、場合によっては放送開始して間もないFM東京とかで、けっこうコンサートをそのまま中継なんてことがよくあった。EL&Pなんかも、テレビで見た記憶があります。

1972年8月に大阪と東京で行われたコンサートの模様は、12月に''Live in  Japan''として日本でのみ発売され、あまりのできの良さに後に''Made in Japan''とタイトルを変えて世界発売となりました。

このアルバムの大ヒットは、日本でのディープ・パープルの人気を決定づけたと言っても過言ではありません。そしてロック音楽にとっても、多くの歴史を作ることになりました。

まず''Live in  Japan''というタイトル。今でこそ日本公演のライブ盤は山ほどありますが、まさにこれがその元祖。日本がロックバンドにとってセールス拠点になることを内外に示し、さらに外タレ来日ブームの火付け役になったのです。

そして、日本武道館という音楽のイベントをするにはあまりに劣悪な会場を、日本における「ロックの聖地」と呼ぶようになるきっかけにもなりました。今ではアイドルタレントでさえ、武道館公演が夢でしたというのは感慨深いものがあります。 

すでに40年も前の録音にもかかわらず、リマスターされた音はなんの遜色もなく見事なまでに当時のバンドの勢いと観客の熱狂を伝えてくれます。昔も今も、ロック小僧にとってはバイブルの一つ。

あのときレコードに特典で付いていた、ステージ写真のカラーネガを写真屋さんに持って行って焼きつけてもらったときは興奮したのを思い出しました。

2013年3月15日金曜日

スーツ

スーツ・・・いわゆる、背広。サラリーマン、特に営業の人なんかは、当たり前のように着こなしている物です。

自分は、どうも苦手で、上下同じ生地で同じ色というのが好きになれません。これは、社会人になる前からで、大学に入るってんで、初めて親に紺色のスーツを買ってもらったんですが、たぶん入学式と卒業式でしか着用しなかったと思います。

そのまま卒業した大学の病院の研修医に入ったので、いわゆる就活というのもしたことがありません。スーツを着用する機会も、ほとんど無いうちに体型が変わって着れなくなったわけです。

医者になってからは、おしゃれをしようと一度上下揃いを買ったことがあるのですが、何しろ寒い時期に厚手の生地の物を買ってしまい、ほとんど着ることもなく、またもや体型が・・・

以来、冠婚葬祭用の黒スーツ以外は着たことがない。結婚式に呼ばれても、紺ブレというのが自分の定番でした。今でもあらたまった会に出席する場合には、紺ブレにグレーのズボン。ワイシャツは基本は白ですが、ボタンダウン。多少くだけた会ではカラーシャツ。

基本的には、柄物が嫌いなので、ネクタイも無地かストライプだけとか、小さいワンポイントが入っている程度。若い頃から、かなり地味な服装ばかりでした。

まぁ、いわゆるトラディショナル系のファッションばかりということでしょうかね。今時は、だいぶスーツも細身のものになり、ダブルのブレザーなんて流行らない。だいいちそんな服を着ても、腹の出たオッサンには、とても似合わないわけです。


2013年3月14日木曜日

病診連携の推進

昨日に続いて、今夜も会合に出席しました。

勉強会とか講演会ではなく会合と書いたのは、ちょっと理由があります。今夜の会は、聖マリアンナ医科大学のリウマチ内科とリウマチを専門にする診療所の連携の会で、お互いの顔を合わすことと、連携の方法を検討しようという会。

昨日も書いたように、病診連携を推進する動きは、あの小泉改革から始まったわけで、政治が診療報酬を餌に誘導している政策の一つ。

とはいえ、実際に病院側としても、過密になった診療業務を何とかする打開策として、連携をそれぞれの科の特性を生かして行っていこうと考えるのは必然です。

基本的な考え方としては、関節の痛みがある患者さんが一般の診療所、それはたいてい整形外科診療所かもしれませんが、受診します。そこで、リウマチの可能性が考えられた場合、専門の診療所または大学病院に紹介して確定診断を仰ぎます。

確定診断が出た場合には、通常の治療を開始し、うまくコントロールが付けばいいのですが、なかなかコントロールできなかったり合併症を起こしたりした場合には大学病院にまかせます。大学は落ち着いた場合には、もとの診療所に患者さんを戻し、今後も何かあったときのバックアップをしていく。


ところがいろいろと問題はあって、簡単には問屋がおろさない。

自分が感じているのは、医者の側は意思が統一できたとしても、患者さんの意識はどうかということ。一度大学で診療を受けると、主として安心感から患者さんは医者を簡単には変えたくないと思うのが自然でしょう。逆紹介と言うのは、意外と難しいものです。

また。大学病院というのは、先端の医療技術を実践できる場所であり、単なる診療だけでなく研究という大事な使命があります。ですから、継続的に患者さんを治療して、その成績をまとめて学会などで報告していくことも必要なこと。患者さんを返してばかりでは、なかなかそのあたりの仕事が成果を示せない。

診療所のほうにも、いろいろ問題はあります。診療所によって、何をどこまでできるかはいろいろ。

関節リウマチについていうと・・・

早期に確定診断ができる。診断に使うツールは・・・血液検査、単純レントゲン、MRI検査、CT検査、超音波検査などなどで、そのうち診療所内でできるものと、外注でできるものがあります。

治療を開始するにしても、従来の内服薬だけ、メソトレキサートを使いこなせる、生物学的製剤を使用できる、それは皮下注射のものに限る、あるいは点滴のもの可能。

合併症や副作用のチェックが可能で、それに対しての初期対処が可能かどうか。 場合によっては、より高度の検査や入院加療についての連携先があるかないかなども考慮しないといけません。

過激なことを言うと、整形外科医として恥ずかしい話ですが、これらのリウマチ診療に必要な技術が一つもないような状況で「リウマチ科」を同時に標榜している診療所は山ほどあるんです。それを直接的に批判する事はできません。自分も、整形外科の守備範囲のすべてに精通して、自信を持って診療が行えるわけではありません。

ですから、田園都市リウマチフォーラムの活動は重要なんです。本当にリウマチを専門的に診療ができる診療所のネットワークを作って、知識・技術の均等化をはかり、大学病院との連携を効率的に行えるための下地として根付く必要があるんです。そして、今後は患者さんに対しても、リウマチ専門の診療所をしっかりとアナウンスしていくことが大切。

とにかく、簡単なことではないのですが、今夜の会も少しでも前進して行くための大事な会合です。専門医資格を維持していくための単位がとれる講演会でなくても、しっかりと出席したくなる意味があるものでした。

2013年3月13日水曜日

開業医向け講演会

今日はリウマチの勉強会で、新横浜。自分が関節リウマチに力を入れている関係で、この手の勉強会の案内はリウマチ関連ばかりで、いかに共催の製薬会社がリウマチ薬に力を入れているかわかります。

整形外科全体で考えると、他に講演会のテーマはほぼ骨粗しょう症のみと言っても過言ではありません。もともと、整形外科は薬をあまり使う科ではないので、スポンサーになる製薬会社も協力する部分が限られるのでしょう。

医者のための講演会は、学会などで集中的に行われるものがありますが、開業医はなかなか参加する時間が取りにくい。クリニックを休診して学会に参加するというのは、おいそれとはできません。

そこで、日々診療終了後の時間に小さな講演会がいろいろ行われています。この手の勉強会は、医者が主体になって自分たちが知りたいことを中心に企画し、製薬会社に協力してもらうものと、製薬会社が売りたい薬の広告的な目的で行うものにわかれるようです。

前者の例としては、自分を含めて近隣のリウマチ専門の先生方と一緒にやっているのが「田園都市リウマチフォーラム」です。リウマチ薬を出している製薬会社が共催として手伝ってくれるのですが、勉強したい内容と講師を考えるのは自分たち世話人。

一方、製薬会社主体の会では、その薬そのものについての病気や薬の効果などについての話に限定され、より全国的に有名な先生が講師になる事が多い。高名な先生の話を直接聞く機会は多くはないので、それなりに意義があるものです。

ただ、テーマが偏ってしまうので、案内されるものすべてに出席しようとは思えません。自分の日程に無理がなく、少しでも聞きたいような内容ならば行ってみようというところ。実際は行きたくなる事は多くはなく、「この薬はこれだけ効きます」的な話はちょっとうんざりというのが本音。

医者が主体の会では、最近やたらと増えてきたのが病診連携を目的とするもの。開業医と病院の医師の顔つなぎのために行われるわけで、開業医は自分の施設では扱いにくい重病や合併症がある患者さんを病院に紹介しやすくします。

一方、病院側は紹介率を増やし、軽症患者さんを減って勤務医の外来負担の軽減と病院機能の効率化が目的です。そのために、連携パスというものを作ってどういう形で患者さんをやり取りするかのルールを作ったり、開業医と病院の間で一定の治療法を検証していくような企画が多くなってきました。

その理由は、この何年か勤務医の負担が多いと言われるようになって、厚労省が決めている医療の定価(診療報酬)が何度か変更され、少しずつ診療所と病院の役割分担をはっきりさせる方向に誘導しているからです。もっとも、開業医の立場というものももう少し考慮してもらいたいところもありますけれど・・・

いずれにしても、全科的にはものすごい数の勉強会が毎日行われているわけで、その中から自分が必要とするものをうまく選択して、日々の診療に生かしていくことが大切。 医者は一生勉強と言いますが、本当に知識のアップデートを怠ると大変な事になるので、サボるわけにはいきませんね。


2013年3月12日火曜日

テレビ放送

昨日は、東日本大震災について書き始めたら、途中で話の焦点が多少ずれたような気がしていました。自分でも書いていて、実はなるほどと思っていたんですが、それは自分がテレビというものに大変影響を受けてきたということなんです。

日本でテレビ放送が始まったのは昭和28年のこと。テレビ放送が、市民の生活を大きく変えたと言えるのは、それまでニュース映画で動画を見ることができたとは言え、ニュースを知るための手段は音声だけのラジオか、活字媒体の新聞でした。

テレビの登場は、お茶の間(これも死語に近いですが)に直接ニュースを届ける事ができるようになったことを意味します。世界の出来事がほぼリアルタイムで動画として観る事ができたり、わざわざ出かけていかなくても憧れのスターに会えたりするのです。

何しろアメリカの初めて衛星放送が始まったのが昭和38年11月で、最初に飛び込んできたのはケネディ大統領暗殺のニュースだったことは象徴的です。

昨日、いまだに自分が記憶に残る大きな出来事としてあげたものは、どれもテレビを通じて知った事でしたし、テレビによってその場にいないにもかかわらず、まるで直接見ていたかのような鮮明な記憶になっていたということなんです。

東京オリンピックだけは住んでいたところの近くに会場が集中していて、実体験できたものでしたが、さすがに幼稚園児だったので記憶は曖昧な部分が多く、後からニュースなどで補足して出来上がったメモリーでしょう。

唯一、本当に体験したのは日本万国博覧会。春休みと夏休みに、それぞれ1日ずつ2回も連れて行ってもらえました。でも、父親が並んで待つのが嫌いな性格だったので、人気のアメリカ館、日本館、ソビエト館、三菱重工館などはまったく見ていない。

浅間山荘事件は、小学校から帰ってくると、父親が「テレビで戦争を生中継している」と興奮していたのを覚えています。たぶん午後2時くらいから、 犯人が捕まるすでに暗くなってきた午後6時すぎまでずっとテレビを見続けました。

日航機墜落も事件発生直後のニュース速報から、テレビはつけっぱなし。翌日の奇跡的な生存者の救出シーンも、目が離せませんでした。ダッチロールとか圧力隔壁といった、耳慣れない言葉は魔法のように自分をテレビに釘つげにしたものです。

阪神大震災では倒れた高速道路に自分の目を疑い、アメリカ同時多発テロはビルに飛び込んでいく飛行機は何かの映画を見ているような気がしました。 これらは、あまりに衝撃的すぎて、かえって「今放送されているものは嘘ではないか」と思えたのです。

テレビがあまりにも簡単に真実を映し出すことが、逆に想像力を超えてしまったということなのでしょう。理解の限界を超えてしまうと、それはかえって作り話のような印象を与えてしまうものなんです。

しかし、東日本大震災は違います。その一端を自分でも体験し、自分でも何が起こったのかを理解したいし、自分がどうすればいいかも知りたい。テレビで映し出された、津波の映像はまさに現実として脳裏に刻まれました。

これからも、テレビはたくさんの世界中のニュースを簡単に家庭に届け続けるのだろうと思います。しかし、その内容を直接体験したのかしないのか、また事件の大きさなどによっても、観ているものにはいろいろな違った印象を与えるものなんですね。

映し出されているものは、真実だとしてもいろいろな価値観が与えられていくわけで、テレビの善悪のようなものは一定の評価の中にはありません。自分がしっかりと判断する力を持たないと、どんどん流されてしまうのかもしれませんね。


2013年3月11日月曜日

震災から2年

東日本大震災と呼ばれるようになった、戦後最大の災害から今日で丸2年です。自分のふだんの生活エリアでは、直接的な被害はほとんどなかったものの、過去に経験した事が無い地震の揺れと、停電による混乱は忘れられません。

自分が経験してきた大きな出来事というと、東京オリンピック(昭和39年)、日本万国博覧会(昭和45年)、連合赤軍の浅間山荘事件(昭和47年)、日航ジャンボ機墜落(昭和60年)などがすぐに思いつきます。

これらはすべて昭和の出来事。戦後の高度経済成長の時代、日本はいいことだらけで、どんどん大きくなることだけを考えていたわけで、最近のどこかの国のように空はいつでもスモッグで煙っていました。

しかし、しだいに成長の裏側で、いろいろな社会の歪が噴出し始め、暗い事件ばかりが記憶に残るようになりました。平成に入ってからは、バブル崩壊(平成3年)、阪神淡路大震災(平成7年)、アメリカ同時多発テロ(平成13年)と続き、そして東日本大震災(平成23年)。

今の日本で、主な「大人」の代表が戦後昭和人ととするならば、「若者」というのは平成生まれの方々。両者の間には、高度経済成長・バブル経済という時代の経験の違い・・・だけではないでしょうが、同じ日本人としてジェネレーション・ギャップが存在するとよく言われます。

若者は、日本の景気のよかった時代を知らず、頭をたれて萎縮した社会の中で育ってきた事は間違いありません。大人との間で、考え方の根本的な格差が生じるのはやむを得ないかもしれません。

しかし、東日本大震災は違います。そういう大人と若者が、日本人として共有できる大きな事件なのです。もちろん、事件としては悲しみしかない悲惨なものてすが、それをバネにして新しい何かを生み出していくきっかけにできるのです。

しだいに、少しずつ記憶は風化して記録になっていくことは避けられません。東日本大震災も、いつの日か歴史の一つになるのでしょぅが、まだまだ実際に体験した日本人は、世代に関係なく同じ方向に向かっていけるのかなと思います。

2013年3月10日日曜日

黄砂・花粉とPM2.5

今日は日曜日。めっきり春めいて、さわやかな晴天の朝。ですが、天気予報では、黄砂と花粉が飛びまくり、さらに何かと話題の中国から(?)来ているPM2.5のトリプル・パンチとのこと。

午前中は、南風がけっこう強くて、気温もどんどん上昇し昼には24度という、初夏並みの暖かさ。と思っていたら、風が少しおさまってきたと思ったとたん、急に空の色が変わってきました。

全体に黄色調で、薄ぼんやりとした空で、そうそう去年の日食のときのような感じ。晴れているんですが、太陽は輪郭がまったくわからない。2kmと離れていないあたりが黄色く煙っていて、よく見えません。

いやはや、こりゃすごいもんです。黄砂の飛来は自然現象ですから、まぁしょぅがないとあきらめます。自分は今までのところ花粉症ではないので我慢できますが、目や鼻が大変になっている人にとっては、この中にどんだけの花粉が混ざっていると考えると恐ろしいことでしょう。

さこへもってきて、PM2.5とやらが混入してきたから、さらに話は複雑です。ニュースで報道されているようなことが真実ならば、内政干渉と言われようと政府には厳重な抗議と、また解消するための援助をしてもらいたいものです。

・・・と、ここまで書いてみたら、夕方のニュースで、この黄色の空の正体は「煙霧(えんむ)」 というらしく、地表の埃が巻き上げられたものだと。

黄砂は観測されないと気象庁は言っているらしいのですが、じゃあ、車につもった茶色の細かい粉状の砂は何ですか。地表の誇り? うーん、ほんまかいな。

2013年3月9日土曜日

テルマエ・ロマエ (2012)

去年の邦画では、一番人気。いろいろな賞を受賞し、どうやら続編も作られることになった話題作です。

最近の映画・テレビは、たいてい原作がマンガということで、この作品も例にもれずです。それが悪いとは言いませんが、映像を作る側がマンガしか見ない世代が中心なのか、あるいはオリジナルのストーリーをくみ上げる力がないのか・・・

それはさておき、映画そのものは確かによくできている。評判になったように、「濃い」顔の俳優を選び抜いて、古代ローマ人として登場させても違和感がない。

ただ、ひねくれ者の自分としては、ちょっとだけ意義を唱えておきたい事があります。

主人公は、古代ローマの風呂作りの技師。ですから、彼が現代日本に何故かタイム・スリップして、そこから得たアイデアを持ち帰り古代ローマでヒットさせるというのが、ストーリーの主軸です。

ですから、映画そのものには、なんの問題もなく文句のつけようがない・・・のですが、宣伝でやたらと目立っていたのが、現代日本でのあわてぶりでした。

つまり、この映画を宣伝する映画会社の方針は、現代日本に何故かタイム・スリップしてきた古代ローマの風呂作りの技師が、そのカルチャー・ギャップであわてふためくところを楽しむコメディだというものだったわけです。

映画を作った人たち、監督とか俳優さんとかと、映画を売ろうとしている人たちの間には明らかな、作品に対する考え方の違いが存在していて、観ている側からすると何がしかの物足りなさが生じる部分がある。

初めて観るときの観客の期待は、もしも古代ローマ人が現代日本に登場したらどんなコメディが生まれるだろうかという興味に集中しているのですが、実際そういうシーンは前半の一部であって、いわゆる「つかみ」にすぎないのです。

108分間の映画の多くは、古代ローマにタイム・スリップした現代日本人が、その知識を生かして古代ローマで風呂作りに協力する話に使われています。それは、あまり笑いの要素は入り込みにくい、言ってみれば異世界に入り込んで、そこで精一杯生き抜いていくしかなくという悲壮感すら漂うわけです。

そういう意味で、よくできた映画だと思うわけです。もともとタイム・スリップという荒唐無稽なテーマですから、いろいろとご都合主義的な展開はありますが、時空を超えて風呂作りに一致団結する話としてよくまとまった内容でした。

2013年3月8日金曜日

プラモデル

昭和のこどもの楽しみの一つだったのが、プラモデル。枠からパーツを切り取って、接着剤でくっつけて・・・特に気合が入っているときは、塗料を塗って完成させる。

でもって、作るのは何かと言うと、戦争物だと戦車や零戦や戦艦。スポーツカーや日本のお城シリーズなんていうのもありましたが、一番よく作ったのはテレビのヒーロー物。

日本だと鉄腕アトム、鉄人28号、外国だとサンダーバード。ウルトラマンやウルトラセブンに登場する、飛行機や自動車も大人気でした。

小学生ですから、おこずかいはたかが知れているので、予算は50円からで、誕生日とかだと数千円くらいまでだったかと思います。50円はかなりお気楽なもので、鉄人のボディ表裏、腕や足もそれぞれが表裏程度で、全部のパーツでも10個くらい。あっという間にできあがり、水に浸して浮いてくるシールを貼っておしまい。

よく作る標準的なものだと、だいたい500円くらいのもの。パーツは50~100個程度でしょぅか。こうなると、制作時間延べ数時間となり、時には接着する前に彩色して、より高い完成度を目指したりしたくなるわけです。

中に動力を組み込んで、完成後に動くものは特に楽しい。ただ、500円前後まではたいてい動力はぜんまいで、動き出したらコントロールできません。1000円近くなると、電池と(マブチの)モーターを組み込んで、いっそうマニアック。

いつだったか、サンダーバードの秘密基地のセットを誕生日にもらったのですが、確か5000円くらいで1号の出口のプールが開閉したり、空中に吊り上げた5号がくるくる廻ったりするのをモーターで行うセットがありました。

ところが、実際にもらったのはぜんまい仕掛けのタイプ、3000円です。動きはだいぶ違うし、なんともがっかりした記憶があります。

その後は、プラモデルはどうなったんでしょぅかね。おもちゃの専門店では、時折昔ながらのものを少しは見たことがありますが、大多数はガンプラと呼ばれる、ガンダム・シリーズのものばかり。
しかも、接着剤を使わないようにパチっとはめ込んでおしまい。

塗料はシンナーを使うのでだめらしく、最初から豪華に塗装がしてあったりして、もはや作る喜びみたいなものは期待すべくもありません。

今から考えると、こういう遊びは物を作ったり壊したりしながら、いろいろなものの仕組みとかを覚える事に役立っているわけで、こどものイマジネーションを豊かにする事に貢献していたんだろうと思います。

今のこどもたちは、どうやって心を豊かにしているんでしょぅかね。

2013年3月7日木曜日

卒業シーズン開幕

急に春めいてまいりました。今年の冬は、例年になく寒く感じていただけに、だいぶ暖かさを強く感じますね。

周りを見渡してみると、いつの間にか梅がほぼ満開。寒いと、下ばかり見て歩いていたのか、こういう季節の風物に気が付きにくいものだと思います。

受験生の方は国公立も終了し、後は結果を待つだけ。すでに「桜咲く」の報を受け取った方もいるでしょぅし、残念ながらもう一年という方も・・・

いろいろな卒業というイベントもたくさんあります。当然、そこには人と人との別れのシーンがあって、涙や笑いなどいろいろな感情が交錯するものです。

別れというと寂しい感じになりますが、あくまでも今までの関係が終了するだけで、新しい関係へのステップアップだと考えたらどうでしょう。難しい言い回しをすると、発展的解消というやつ。

それまでの集団の中で自由を感じていたのかもしれませんが、実際はその集団のルールに縛られていたはずです。「別れ」の後は、そういう束縛からは解放されて、より自由な関係を築く事ができるはずです。

そして桜が咲く頃になると、そこに新しい出逢いがあり、人はより成長していくんだろうと。この時期が、より多感な若い人ほど、人間として大きくなっていく上で重要なんだと思います。

2013年3月6日水曜日

何かとがっかり

今更言うまでも無く、うちのクリニックの看板は整形外科。大学病院で勤務していた頃は、「整形外科は全身管理ができない」とよく言われ、事実苦手にしていたことは否定できません。

言い訳をすると、そもそも全身管理を必要とする患者さんが少ないので、なかなかトレーニングされないというところが大きい。自分の頃は、医者になって最初の2年間は関連する科をローテーションして、整形外科では学べないスキルを身につけるシステムでした。

1年目の5月から勤務が始まり、最初の半年は整形外科、11月からは分院の整形外科、2月から放射線科を廻りました。2年目の5月からは外科、8月からまた整形外科に戻って、10月から麻酔科、そして最後に1月から救命センターでしたた。

あらためて見ると、整形外科だけでも半分の1年くらい。今から考えると、これを半分くらいにして、呼吸器とか循環器のような命にかかわる病気が多い内科をローテーションしたかった感じです。

さすがに、長年医者をやっていると、骨だけの事を考えているわけにはいかず、いろいろな内科的な合併症を持った患者さんなどに遭遇するために、最低限の他科の知識も積み上げられていくものです。

まあ、いまだに当直バイトやっていると、主として仕事内容は内科的な部分なので、多少は「一般医」的な部分を維持していくことに役に立っているだろうとは思います。

最近、ちょっと気分的にがっかりすることがありました。開院以来ずっと診させてもらっていた関節リウマチの患者さんで、もともと肺の合併症を持っている方がいます。これまで、しばしば肺の検査もしていたのですが、変な咳が出るという のでCT検査をしたところ、悪性腫瘍らしきものを発見しました。

そこで、大学病院呼吸器科に紹介受診してもらったのですが、待てど暮らせど結果の報告がない。患者さんに直接聞いても、高齢のせいか家族とばかり話をしていて自分には説明がないのでわからないという。

そうこうしているうちに、他の病院からこれまでの経過がわかるような紹介状が欲しいと連絡がありました。大学病院は、悪性腫瘍だけど治療はせず今後は在宅で管理するようにということで、別の病院に患者さんを紹介したということでした。

うちへの連絡も無く、通院は継続しているにもかかわらず、知らないところで話が進んでいたと言うわけで、うがった見方をすれば「整形外科だから呼吸器はどうせ診ないだろう」と考えられたということでしょうか。

もちろん、自分は呼吸器専門ではありませんし(だから大学に紹介するわけで)、在宅医療を行っているわけではないので、現状の患者さんのニーズに沿った医療を提供できないかもしれません。

でも、患者さんと作ってきた関係もありますので、ちょっとは先に話を知っておきたかった・・・という気持ちはどうしてもあります。まあ、所詮ボヤキということになりますけど、何にしても患者さんに不利益がないように、これからも少しでもかかわっていければと思うだけです。

2013年3月5日火曜日

2020年の夢

近未来SF小説ではなく、現実に進行している話として2020年にオリンピックを東京に招致するという話があります。噂レベルではなく、実際にいろいろな招致活動が行われており、何とかそこへ向けて盛り上がろうとしている。

2020年の開催地として立候補しようとしているのが、トルコのイスタンブール、スペインのマドリード、そして日本の東京。それぞれがいろいろと問題はあるようですが、日本の場合よく言われているのが国民的賛同の欠如。まぁ、簡単に言えば一般市民の関心度が低いと言う事。

昨年のロンドンでも、ずいぶんと盛り上がりをみせたものの、熱しやすく冷めやすい(・・・覚めやすい?)のがいい意味でも悪い意味でも日本人の特徴。まして、7年後の話ですから、なかなか先が読めないところもあります。

自分も反対する理由は無いのですが、積極的に賛成する理由も無いという状態です。なにしろ、一番気持ちがなえるのは、招致したがっている政治家諸氏のパフォーマンス。

前都知事の「何があなたをそこまで突き動かす」的な発言の数々、そして引き継いだ現都知事の変わり映えのしないパフォーマンス。そして、さすがにこりゃないわと思ったのが、現職総理大臣が歌いながら「生涯の夢」ですとぶちまけるという。

そんなわきゃないでしょう。あまりにご都合主義的なはしゃぎすぎパフォーマンスで、誰のためにオリンピックを招致したいのかまったくわからないところです。日本の政治が、国民よりも企業などに向いている印象があるだけに、政治家が出てくれば出てくるほど疑問が湧くのは自分だけでしょうか。

1964年の東京オリンピックは、実体験したものの小さかったのでうろ覚え。まぁ、生きているうちにもう一度くらい、身近で感じてみたいと思いますけど、オリンピックそのものの商業化や、それに伴ういろいろな問題もあり、どこまで夢をみていいものなのかよくわからない感じがします。

2013年3月4日月曜日

クリニック飲み会 @ 市 センター南

土曜日の夜はクリニックの飲み会。昨日で退職したスタッフの一人の送別会をやりました。長く働いてくれた方なので、大変寂しいのですが、ご主人の転勤で頻繁で、今までは何とか通勤してもらっていたのですが、さすがに今回遠くなって辞めることになったのです。

クリニックのスタッフは、大企業と違って人数も少なく、一度入ってもらうと家族よりも長くいる時間が多い。長いスタッフとは、お互いにペースが出来上がって、ヒトが変わるとしばらくはやりにくくなるものです。

クリニックの院長をしていると、毎度のことながら労務管理という業務は畑違いで一番気苦労が多いところ。そんなことはわかって開業したんでしょうと言われればそれまでですが、なんにしても経営者としてはもともと素人。

スタッフから「ちょっと話が・・・」なんて言われると、辞めたいという話かとびくびくしてしまうものです。また新たな求人を出すのかと思うと、気が重い。税理士さんからは「求人も広告の一つ」みたいなことを言われたこともありますが、そんな広告は嬉しくない。

最初の1年は、自分とかみさんと、あとは受付一人という、最低限人数で診療をしていました。今は診療は5人体制で、飲み会をするとなると十数人を集めることになります。とにかくチームワークが大事ですから、スタッフは大事にしないとね。

ちなみに、今回の飲み会の場所はセンター南の居酒屋の一つ、市(いち)。数年前に仲町台の店で忘年会をしたことがありました。ちょうど、全員が一つのテーブルを囲んでワイワイできてよかったです。

2013年3月3日日曜日

SUN CITY

世間が''We Are The World''で盛り上がっていた同じ頃に、もう一つあまりぱっとしなかったエイド物がありました。''We Are The World''が、特定の何かを批判するよりも困っている人を救援することが目的で、誰もが賛同しやすかったのに対して、もう一つは攻撃対照がはっきりしていました。

南アフリカでは、当時アパルトヘイト政策がとられ、白人と黒人は政治的に明確な差別が堂々と行われていたのです。ネルソン・マンデラらの活動家は拘束され、国際社会からも多くの非難が起こっていました。確か、日本人は「名誉有色人種」みたいな扱いでしたよね。

SUN CITYは、当時南アフリカの白人のための娯楽スペースで、音楽家などからは差別の象徴のような存在でした。そこでアパルトヘイトに反対する音楽家が集まって、「SUN CITYなどでは、演奏するもんか」的なエイドを行ったのです。

今でこそ当たり前ですが、ヒップホップ系の当時としてはかなり新しい感覚の音楽です。政治色が強く、攻撃的な内容が不利だったのか、日本ではやや盛り上がらなかったのですが、これも登場するのはそうそうたるメンバー。

 リンゴ・スター、ボノ、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、パット・ベネター、ピーター・ガブリエル、エディ・ケンドリックス、ジミー・クリフ、ホール&オーツ、ボニー・レイット、ルー・リード、ザック・スターキー、ジャクソン・ブラウン、ピーター・ギャレット、ピート・タウンゼントなどなど・・・

政治的な部分はともかく、自分の場合は実はこれにはかなりの注目点がありました。なんと、マイルス・デイビスが参加しているんです。YouTubeでも''Artists United Against Apartheid - Sun City''でプロモが今でも見れますが、イントロにかぶってくるトランペットがマイルス。静止画もちらっと出てきます。

当然マイルスは、参加といってもオバーダビング。それにでも、マイルスは自分の名義以外に顔を出すというのは極めて希なことで、これは当時としても「事件」だったわけです。しかも、この後はマイルスは亡くなるまで何でもあり状態になり、あちこちに顔を出すようになりますけど。

ところが、驚いたことはそれだけではなく、この''SUN CITY''のアルバムでは、さらに2曲に参加している。しかも、そのうちの一つは、鉄壁のクインテットと評されたハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスらとの競演というから、ぶっ飛んだ。

このメンバーが一緒に演奏していたのは1964~1967まで。およそ20年ぶりという、再会セッションですから、ファンとしては狂喜乱舞の大注目。もちろん、昔のことはやらない。今のマイルスがでてくるんですが、それがそれでかっこいい。

主義主張がない話で申し訳ないのですが、そんな点が気に入っているという話。でも、このような運動がマンデラ大統領を作る一つの要素だったということは感慨深いものがあります。

2013年3月2日土曜日

We Are the World

世界的に大ヒットとなった、エイドもののベストと言えばマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズが主導した''We Are The World''(1985)につきます。

グループ名は''USA for Africa''となっており、この企画は当時のアフリカの飢餓と貧困層の解消を目的としたチャリティでした。

何しろ登場するメンバーが凄すぎる。80年代のアメリカの音楽シーンで、活躍する思いつく有名人でいない人のほうが少ないという感じでした。

それまでのエイドものは有名アーティストが集まってコンサートを開くという形態が主でしたが、ここではこのための楽曲を新たに作り、全員で歌うと言う完全な共同作業であったことが画期的だったのです。

この時代、マイケル・ジャクソンは絶頂期であり、そのプロデューサーとして辣腕を振るったクインシー・ジョーンズの二人の力と人脈の凄さが、これだけの人を集められたわけです。また、彼らが作った曲じたいも素晴らしく、自然と盛り上がって感動したものでした。

もうひとつ素晴らしいところは、20人ほどのソロパートを歌う歌手たち。それぞれが数小節ずつにもかかわらず、各人の特徴がよく出た歌いまわしで、 聴いていて次から次へと出てくるアーティストを聞き分けるのが大変に楽しい。

この頃から普通になりだした、プロモーション・ビデオの存在も、そういった楽しみに拍車をかけました。これだけのビッグネームを一度に集められるわけが無いと考えるところで、どうせバラバラに収録したんだろうと思ってしまいがち。ところが、ビデオで全員が集まっているシーンを見て、これはものすごい事だとあらためて実感したものです。

後にマイケル・ジャクソンが一人で歌った、デモ用のバージョンが公開されましたが、彼には申し訳ないのですが、やはり大人数で盛り上がるこっちのほうが数段よいと思います。

一応、ソロをとる歌手をあげてみると、

ライオル・リッチー、スティービー・ワンダー、ポール・サイモン、ケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、マイケル・ジャクソン、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーイック、ウィーリー・ネルソン、アル・ジャロウ、ブルース・スプリングティーン、ケニー・ロギンス、スティーブ・ペリー、ダリル・ホール、ヒューイ・ルイス、シンディ・ローパー、キム・カーンズ、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ。

80年代の洋楽ファンだったものなら、そのまま土下座して謝ってしまうほどのメンバーです。

2013年3月1日金曜日

The Concert for Bangladesh

弥生三月、春爛漫、一番が吹いて季節が変わろうとしているのが感じられます。

自分が学校で歴史・地理などを学んでいた頃と、今ではずいぶんと世界の国の名前が変わっています。その一つが、バングラデシュ。

大きなインドを真ん中に挟むように、現在のパキスタンがその西側にあり西パキスタン。そして、インドの東側にイスラム教の東パキスタンが存在したいました。インドが東パキスタンに加勢して、独立戦争が起こり、バングラデシュとして独立したのが1971年。

その過程で、先住民族と間に内乱も起こり、国内は混乱をきわめ、食糧難などから多くの国民が貧困に苦しみ、大量の餓死者が発生したのです。

ビートルズが事実上解散し、シタール奏者のラヴィ・シャンカール(い先頃亡くなりました)と親交の深かったジョージ・ハリソンは、このバングラデシュの悲惨な状況を知り、支援のためのコンサートを企画。賛同した多くのビッグネームが参加して、ものすごいコンサートが実現したのです。

その記録は厚さ1センチくらいの箱型の2枚組みレコードのセットとして発売され、当時自分も購入して、何度も聴いて楽しみました。茶色中心の箱の中央にやせ細った幼児の写真が使われ、大きなインパクトがありました。

登場するアーティストは、ジョージ・ハリソン、ビリー・プレストン、リンゴ・スター、レオン・ラッセル、ボブ・ディラン、ラヴィ・シャンカールなどなど。そして、全編にわたってメインのギターを弾くのがエリック・クラプトン。

特に''My Guitar Gentry Weeps''における、ジョージ・ハリソンとクラプトンの泣きのギターの共演は、これ以上無いくらいの名演です。また、すでに伝説になりつつあったボブ・ディランは名曲をたくさん披露し、もうここの演奏だけでも究極セレクトなんです。

当時、このコンサートの模様は撮影され映画としても公開されました。これが今ではDVDとしても手に入るので、映像で見ると感動がさらに盛り上がってきますね。

バングラデシュの悲惨な状況については、ジョーン・バエズも歌っていて、当時のアーティストの多くが関心を寄せていたのだと思います。自分は、それほど深く考えたりはしませんでしたが、後に政治的支援コンサートがいろいろ出てくる最初のものかもしれません。