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2013年3月23日土曜日

ヒポクラテスたち (1980)

良い映画の条件というのは、簡単に語ることは難しいものです。それは、人によって価値判断するための基準が異なるからです。

映画を作る人、それを配給する人、そして大多数の観るだけの人など、それぞれの立場は少しずつ違っています。映画が「動画を用いた表現芸術」であるとするなら・・・芸術である以上、作り手の自己満足だけではなく、それを第三者が受け入れることが必須です。

映画を直接作る人の感性が最も大事なように思いますが、観客が何らかの感情・・・喜びや楽しみだけではなく、時には怒りや悲しみを呼び起こされるべきです。しかし、実際には中間で映画で経済的な成果を期待する人々によって、観客は自由に映画を選択する権利を限定されたものにされていることは事実です。

もっとも、そうだとしても作られる映画の数は膨大で、職業的に映画に関わっているのでなければ、限定された中のものだけでも観きれるわけではありません。また、そうそう人生が変わるほどの大きな精神的な変革が起こることもないでしょう。

日本ではATG - 日本アートシアターギルドという組織が、1961年から1992年まで積極的に非商業的な芸術性の高い映画を製作していました。

芸術性の高さは作り手の自己主張に傾きすぎると、ただ難解なだけになり、結局はその映画から伝わるものが無くなってしまいます。わかりやすく、観客が単に楽しめる内容だと娯楽映画という枠に入ってしまい、芸術性は低下することは必然です。

初期のATGの映画は、そのあたりのバランスが比較的うまく調和していて、低予算で作り手の伝えたい事はうまく観客の見たいものに重なっていたのです。 60年代には、主として外国の映画の配給が活動の中心でしたが、70年代からはしだいに独自に映画を製作する路線が定着していきます。

もっとも、自分がATGというものの存在を知るのは、高校生以後のことで、 特に東陽一の「サード」や「もう頬づえはつかない」などは印象に残る作品でした。しかし、大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」は、最もインパクトのあった映画として記憶に残りました。

 今から考えると、そうそうたる俳優が出演していて、古尾谷雅人、伊藤蘭、柄本明、小倉一郎、内藤剛史、斉藤洋介、阿藤海、牟田悌三、草薙幸二郎、森本レオ・・・さらに、ゲスト的な出演として、手塚治虫、北山修、鈴木清順、原田芳雄、渡辺文雄などなと゜。

当時は、「普通の女の子に戻りたい」として、キャンディーズを解散し引退したはずの伊藤蘭の2年ぶりの芸能界復帰となることが話題になりました。だからといって、そのことを積極的に広告的に利用するわけでもなく、医学部最終学年の臨床実習をするグループを中心に淡々と青春群像を描き出しました。

ちょうど医学部に進学した自分にとっては、まさにジャストな映画だったわけです。もちろんこの映画で語られることに比べれば、実際の自分の医学生としての体験はまったく平々凡々で、基本的には映画はあくまでも映画。大森一樹が医学部卒業で医師免許を持っていても、医学生という設定は、物語を作るための小道具の一つにすぎません。

しかし、医学を目指すものの喜びや不安、恐れなどの葛藤を純粋化して見せてくれたわけで、医学とは無縁の世界の若者たちにも十分に伝わる何かが2時間の物語の中に詰まっていました。ですから、興行的にもそれなりの成功を残すことになり、良い映画としての条件を立場を超えて満たしたのではないでしょぅか。

しかしATGは80年代に入ってから、急速に製作本数が減少し、活動を停止してしまいました。日本が、高度経済成長期からしだいにバブル期に移行していく中で、芸術性よりも娯楽性の追求に日本人の興味が移っていったことは否定できないのかもしれません。