1708年に、バッハはワイマールに転出します。宮廷オルガン奏者になったバッハは、まずはオルガン曲をせっせと作曲し、地固めを行いました。
と、同時にイタリア音楽を研究し、自身の作曲にも反映し始めます。そして、1713年になると、カンタータの創作がはじまります。時期が確実にわかっている初期のものとしては、通称「狩のカンタータ」として有名なBWV208 「わが楽しみは元気な狩だけ」があります。
そしてこの頃に、バッハはハレの教会オルガン奏者に応募しています。本気で就活していたのかはわかりませんが、その結果バッハをよそにとられたくないワイマール公によって、楽師長への昇進と待遇の改善かはかられました。
そして、バッハには、毎月新しいカンタータを作曲して演奏するという機会が与えられることになります。1716年の末までに演奏された新曲のカンタータとしては、20曲程度が残されています。
この時期、イタリア音楽の影響で、最も顕著なことはレチタティーボの導入です。レチタティーボは、もともとオペラの中で、主として状況説明をたんたんとするための独唱です。
教会音楽にレチタティーボを導入することは、聖書が言わんとする教えを、よりわかりやすく伝えるという効果が期待できるということでしょうか。
合唱の様式も、複雑化し様々なパターンが使われるようになり、後の円熟した作曲技巧がワイマール時代に完成していったことは間違いないところです。
ところがワイマール公とその甥っ子の確執があり、甥と仲が良かったバッハは微妙な立場に立たされることになります。さらに上役の楽長が亡くなり、自分が昇進することを期待していたのでしょうが、よそから新しい楽長が赴任することでバッハはだいぶやる気をなくしたようです。
そこで、バッハのファンだったケーテン公レオポルトの招聘により、1718年はじめにケーテンの地に宮廷楽長として移ることになりました。
ただ残念なことに、バッハはルター派のプロテスタントだったのに対して、レオポルト侯はカルヴァン改革派であり、バッハは積極的な教会カンタータの作曲を行っていません。
その代わりといっては何ですが、ブランデンブルグ協奏曲や主要クラーヴィア曲の作曲がこの時期に行われました。