2014年9月3日水曜日

OVPP

以前はオーケストラは個性が出にくいとか、声楽はどうしても苦手とか、古楽にこだわるのがわからないとか、まぁ好き勝手なことを散々書いてきたんですが、何故かそれなりに開眼してしまいました。

手の平返したようなところですが、さらにごく最近にOVPPについても、あまり面白くないみたいなことを書いてしまいました。これについても、いくらか認識を新たにしないといけないと思い始めています。

OVPPとは、One Voice per Partの略で、各声部について一人が歌うというもので、さらに突き詰めると楽器もそれぞれの楽器が一人ずつというようなもの。

1980年代末に、アメリカの音楽学者リフキンが発表した学説で、当時はバカバカしい話として相手にされませんでした。何しろ、当時はリヒターの重厚なモダン楽器によるバッハがスタンダードとして認知されていたわけで、ピリオド奏法についてはまだ黎明期でした。

そんな少ない人数で、ぺらぺらの演奏ではバッハの荘厳さや偉大さは伝わらないと考えられていたんでしょうね。しかし、古楽器の研究が進み、バッハの時代の音がしだいに明らかになってくるにつれて、リヒターの演奏は、バッハが実際に耳にしていた音より遥かに厳粛すぎると考えられるようになったのです。

学説の真偽はともかく、リフキンが凄かったのは、すぐにその学説にもとずいた演奏を行いCDをだしたことでした。それがロ短調ミサ曲のCDで、人数が少ないために各声部がはっきりして、風通しのよいことはすぐにわかります。

リフキンは、カンタータも何枚かCDにしています。いずれも、OVPP方式を採用した、かなり軽いバッハです。古楽器は楽器の特性上、共鳴が弱く音の減衰が早いといわれているので、どうしてもモダン楽器に比べて早めの演奏になります。

リヒターの演奏は、カンタータ一つでも合唱と楽団だけで50人以上はいるかという、まるでカラヤンとベルリンフィルのような重戦車みたいなバッハ。ビブラートをきかせて、どうだ、これで心に響かないはずがないだろうみたいなところがあることは否めない。

もっとも、それはピリオド奏法によるバッハに慣れた耳から感じることですが、現代に音楽を聴く上では一つの表現方法としては圧倒的な存在感であることは疑いようもありません。

ただし、リフキンのロ短調、あるいはカンタータの演奏は、残念ながらとにかくOVPPでやってみたという程度。OVPPが実際に可能であることを証明するための音楽であり、軽さばかりが目立つ。それぞれの歌手がばらばらという印象で、音楽全体としてのまとまりが感じられません。

早くからOVPP説を実践していたのがパロットですが、パロットの方が音楽としての完成度は高い。やや地味な存在で、あまり話題にならないのですが、同じロ短調でもパロット盤は各声部や楽器が聞きとりやすく、かつバランスがいい。

OVPPはそれなりに認知され、確かにバッハがそんなにたくさんの人数を用意できたわけがないという考え方が浸透してくるにつけ、実践する演奏も増えてきています。

最近、特にOVPPに力をいれているのがクイケン。カンタータのシリーズも順調にリリースされています。ただ、そこまで裾野を広げるのは大変なので、自分は未聴ですので、コメントできません。

そして、もう一人OVPPを採用しているのがジョン・バット。この人は、かなりマニアックな録音をすることで有名です。初演版とか、復元版とか、通常使われているスコアとは違う楽譜を採用することが多い。

バットのヨハネ受難曲は、なんと実際の礼拝の進行に乗っ取って、入場のオルガン前奏からはじまり、会衆が歌うコラールのあとに本編が始まる。第一部が終わると、説教になるのですが、これはさすがにCDに入れるのはどうかと思ったんでしょう。聴きたい人は、無料でダウンロードするようになっています。

バットのロ短調は、元祖リフキンがOVPPのために校訂した譜面を用いています。これはほかの古楽系の録音と比べても、けしてひけを取らないなかなかのもの。少ない人数が嘘のように、各声部が有機的に融合して、迫力もあり細かいところも描き切るところが気持ちいい。

これは、さすがにOVPPというのを認めざるをえないかと思いました。ただ、音楽として歴史の中に埋もれさすだけならいいのですが、「音を楽しむ」ための一つの方法論であって、必ずしもそこにこだわるだけではだめかなとも考えます。