史上初の女帝となった推古天皇は、厩戸皇太子が621年に亡くなったため、新たな皇太子を定めずに628年に亡くなり、蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す舒明(じょめい)天皇が即位しました。
舒明天皇は、敏達天皇の子である
押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ)が父親です。異母弟の茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘、宝皇女(たからのひめこ)を皇后に迎えます。二人は、後に天智天皇となる葛城皇子(かつらぎのみこ、中大兄皇子)、孝徳天皇皇后となる間人皇女(はしひとのひめみこ)、天武天皇となる大海皇子(おおしあまのみこ)の3人の子をもうけます。
舒明天皇崩御により、642年に第35代の皇極天皇が即位し、蘇我蝦夷を大臣とします。実に、この人は舒明天皇の皇后、宝皇女でした。こどもはまた10代前半ですが、ほぼ間髪入れずの即位は、他に周囲にいる皇子の排除が狙いのようです。
蘇我蝦夷は、子の蘇我入鹿(そがのいるか)に実権を任せ、自分と入鹿のために、天皇と同格の墓を作らせます。さらに、自分の冠位を入鹿に譲渡し引退します。これらの行為は、本来天皇の特権であり、私益優先の行為はエスカレートしていきました。
そして643年、蘇我入鹿は、厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を攻め殺します。さすがに、この行為には父親蝦夷は、やり過ぎで自らの身を亡ぼすと怒りました。
これらの目に余る入鹿の横暴に憤慨していた中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、皇極天皇の弟、軽皇子(かるのみこ)に近づき信用を得ます。さらに中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と親しくなり、倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)の娘との結婚を仲介し、少しずつ打倒蘇我氏の計画が進行しました。不穏な雰囲気を察知したのか、蘇我親子は要塞のような大邸宅を造り、外出に際にも多くの兵を帯同させるようになります。
645年6月12日、朝廷に三韓からの貢ぎ物を天皇列席のもと納めることになり、入鹿も嫌々剣を持ったまま出席しました。ただし、これは罠で、実際に朝貢があるわけではありません。中臣鎌足は、入鹿の剣を理由をつけて外させます。
石川麻呂が三韓朝貢の儀式の開始を告げると、中大兄皇子と中臣鎌足は宮殿の門を閉じさせ、佐伯連子麻呂(さっせきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し「一気に斬れ」と送り出します。
しかし子麻呂は緊張からは嘔吐してしまい、石川麻呂はなかなか刺客が来ないため、汗がしたたり声がかすれ、手が震えていました。入鹿はその様子を不審がりますが、石川麻呂は「天皇のおそばで緊張します」と説明しました。
二人の刺客がまごまごしているので、中大兄皇子は剣をとり、入鹿の前に進み出て真っ先に斬りつけました。入鹿は「どうして何の罪もない私が襲われるのですか。どうかを助けて下さい」と天皇に願いますが、天皇は中大兄皇子に「何事です」と問います。中大兄皇子の「入鹿は天皇に就こうとしているため成敗しました」という返答を背中に受けて、天皇は宮殿の奥に戻ってしまいました。子麻呂と網田が止めを刺し、入鹿の屍は折からの雨に打たれるままでした。
いやはや、何ともリアルな記述です。映画のシーンを見ているような話し。ここで重要なことは、入鹿が襲撃された直後に天皇に向かって話すというところ。つまり、入鹿はとっさにこれが皇極天皇の命によるものと悟ったのでしょうし、天皇がさっと退出するところも、いかにも知っていましたと云わんばかり。そもそも天皇が承知していないと、偽の朝貢の儀式が開催できるわけがない。
つまり、黒幕は天皇で、息子の中大兄皇子の邪魔になる入鹿を抹殺することが目的であったことは明らかです。ただ、天皇の誤算は、暗殺実行のため飛び込んできたのが息子だったこと。何事かという問いは、後方にいるはずだったのに、どうして危険な場面に飛び込んできたのかということだったのではないでしょうか。
入鹿討たれるの報はすぐさま蝦夷に伝えられ、一派は臨戦態勢に入りました。ほとんど者は中大兄皇子に従い、法興寺(飛鳥寺)に立てこもります。そこで、蝦夷に使者を送り、「天地開闢以来、君と臣は別のものであり、無益に命を粗末することはよくない」と伝えます。蝦夷一派は自ら武装解除して解散し、蝦夷は宮殿に火を放ち自害しました。
この時、厩戸皇子と蝦夷によって編纂された天皇記、国記は蝦夷邸の中に保管されていたため焼失、国記の一部だけが中大兄皇子の手元に残りました。蝦夷・入鹿親子の遺体はすぐさま埋葬されました。
これが世に言う「乙巳の変」であり、権勢を欲しいままにしてきた奢る蘇我氏滅亡の顛末です。昭和の時代の歴史教育では、ここから「大化の改新」が始まるのですが、現在は一種のクーデターである、この事件はきっかけとして独立しています。「大化の改新」は、この後に続く政治改革についてのみに使うことになっています。
天皇は事の責任を取り退位しますが、異母兄の古人大兄皇子は仏門から天皇を助けると言い出家してしまいます。そこで、軽皇子が第36代の孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(非公式の参謀)に就いたのです。最近は、今上天皇の生前譲位が何かと話題になりますが、ここにすでに事情は違いますが前例があるんですね。
2017年12月26日火曜日
2017年12月25日月曜日
日本書紀 (4) 聖徳太子の実像
日本史の教科書の中でも、有名人ランキングの上位に間違いなく含まれるのが聖徳太子。
聖徳太子という呼び名は、後世につけられたもの。××天皇と呼ぶのと同じで、生前の本来の名前は、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)で、厩戸皇子、厩戸王と呼ぶ場合もあります。
父親は、第31代の用明天皇です。母親は欽明天皇の皇女である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)て、用明天皇は異母兄で、蘇我氏との強い血縁にあります。
名前の由来は、厩の前で生まれたという説(この逸話から、キリスト教との関連を指摘する人もいます)、蘇我馬子の「うまこ」との関連を指摘する説などもあったりします。また豊聡耳は、10人の話を聞き分けたという逸話からきています。
日本書紀での厩戸皇子の記述は、生まれてすぐ話すことができたという超人的な話から始まります。最初の活躍は、587年に用明天皇が亡くなり、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を推す親仏派の蘇我馬子が、排仏派の物部守屋が推す穴穂部皇子を抹殺し、さらに守屋を攻め立てた時の馬子軍への参加です。厩戸皇子は、苦戦する中四天王像を造り戦勝を祈願し、士気が上がった馬子軍の勝利に貢献したというもの。
そして、実権を握る馬子は、不満を持つ崇峻天皇を暗殺し、豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立した際、厩戸皇子は皇太子となり摂政に就任しました。
翌年、天皇は三法興隆(仏・法・僧を大切にせよ)を詔し、厩戸皇太子は寺の建立を行い、高麗の帰化僧の教えを受けます。また、斑鳩(いかるが)の地に宮を造り住むようになりました。
推古天皇12年に、厩戸皇太子は冠位十二階を定めます。これは中国に対する「ちゃんとした組織です」というデモンストレーションの意味もあるようですが、朝廷内の地位は氏族だけでなく実力も評価するということを示したものとも言われています。
さらに、皇太子は十七条憲法を定めます。これも朝廷内での臣下の儀礼を説くもので、天皇の権威を高めることが目的と考えられます。いずれも増長する蘇我馬子に対する牽制であり、厩戸皇太子と天皇は蘇我馬子との関係を絶妙なバランスで調整していたということらしい。
ある時、道端に飢えた者が倒れていたので、厩戸皇太子は食事を与え、来ていた服をかけてあげます。しかし、結局相手は死んでしまい埋葬しました。数日後、遺体は消え、衣服は墓に綺麗に畳んで残されていました。そこで、倒れていたのは仙人で、民は「聖は聖を知るとはこのことだ」と話し合いました。
推古天皇29年、厩戸皇太子は49歳で亡くなります。人民は大いに嘆いたといいます。亡くなる原因や経過については、記載はありません。母親と妻との合同墓に埋葬とされています。
・・・というのが、日本書紀の主な聖徳太子の活躍の記述。現代でも厩戸皇子という人がいたことはほぼ認められています。しかし、厩戸皇子を聖徳太子と呼び、推古天皇の右腕として聖人化している話は作り話、あるいは別人の業績、そもそも推古天皇も創作などの研究が、特に平成になって盛んになりました。
記紀ではほとんどの登場人物の実在性については疑いをもつ学者が必ずいます。なにしろ物的証拠がほとんどありませんから、グレーとなると白黒のつけようがない。
十七条憲法や遣隋使は、日本史の必須キーワードです。聖徳太子の肖像は、昭和までの紙幣に何度も登場し誰もがあの顔を知っています。いなかったとなると歴史教育上でも、当然混乱は避けられません。
虚構説の主な主張は、次のようなものです。
① 聖徳太子が関与したとされる法隆寺に伝来する複数の史料は、日本書紀にはまったく記載はなく、いずれもその当時にはなかった単語が使われていて、実際には記紀成立よりかなり後のものである。
② 日本書紀の中で、聖徳太子は、事実と認定できそう場面には一切登場しない。
③ 有名な法隆寺で発見された肖像画には、誰と記載があるわけではなく、当時の服装として考えにくく別人であり、髭についても後に書き加えられた可能性が高い。
④ 隋の記録から遣隋使は事実と認められるが、その時の日本の王には「奥さん」がいたとあって、女帝である推古天皇の存在てのものに疑問がある。
平成の歴史教科書からは、聖徳太子が消える傾向があります。従来、「聖徳太子が・・・」とされていた部分は、「厩戸王が・・・」あるいは「厩戸王(聖徳太子)」のように書き換えられました。
ただ、当然結論は出るはずもなく、最近では厩戸皇子に関する記述のいくつかは事実の可能性がありとするのが一般的。聖徳太子と呼称することで、仏教的な理念に基ずく政治家の理想像として編集されたものである(モデルについては、諸説あり)と考えるのが主流のようです。
2017年12月24日日曜日
降誕祭前夜
云わずと知れたクリスマス・イブです。
毎年毎年、信仰心がないのに何故か浮かれた気分にさせられてしまうので、キリスト教徒の方々には申し訳ない感じ。
しかも、本当に祝うべき12月25日のキリストの誕生日は、もう終わったあとのオマケみたいな扱いをしてしまうので、いっそう後ろめたい。
ただ、こどもが皆成人してしまった我が家では、クリスマスというイベントの重要性は激減して、この数年はケーキは用意しなくなりました。
まぁ、ちよっとだけ高級なワインなどを飲むきっかけの一つくらいの扱い。もっとも、酒を飲むのにいちいち理由をつけなくてもいいんですけどね。
実際のキリスト教では、実質的な1年の始まりであり、イブの日没とともに降誕祭が始まります。
そして、この1週間は降誕節として、連日キリストの誕生を祝い祈りを捧げることになります。
2017年12月23日土曜日
日本書紀 (3) 史上初の女性天皇
欽明天皇のこどもたちは、順次即位をしていますが、第二女で美人聡明と言われていた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、18歳で異母兄の敏達天皇の皇后となりました。
敏達・用明・崇峻とばたばたと亡くなったため、39歳の時に群臣に請われて第33代天皇に即位し、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇となり、後に推古(すいこ)天皇と呼ばれるようになります。
過去に女性としては、夫の仲哀天皇亡き後に辣腕を振るった神功皇后や、清寧天皇崩御後に皇位継承者が見つからず飯豊青皇女が短期政権をまかされたという記事がありますが、天皇のカウントには含まれていません。推古天皇は、正式に天皇と呼ばれる日本史上初の女帝です。
もちろん、人がいないから急に天皇になったというわけではなく、敏達皇后として10年ほど天皇の実務に接する機会があり、用明・崇峻天皇の記述の中にもちょこちょこ登場し、ある程度の権力を維持していたことがうかがえます。何しろ叔父が実権を掌握していた蘇我馬子ですし、また「群臣に請われて」ということは、朝廷内での信頼もあったということです。
即位元年に、用明天皇の厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を皇太子とし、摂政に任命しました。この人こそ昭和の一万円札で有名な聖徳太子です。
ですから、推古朝の記述は聖徳太子の実績のように考えがちですが、推古天皇自身の考えが基盤にあることは明らかです。実際、蘇我馬子のわがままに対して、「あなたは叔父ですが、言いなりにしていたら後世の人に笑われる」と牽制したりして、朝廷内の力関係の舵取りをしていました。
推古天皇・聖徳太子の二人三脚により、神道に配慮しつつ仏教拡大政策がとられ、朝廷内の厳格な順列である冠位を定め、朝廷内の規律を定めた十七条憲法を作っています。
また、小野妹子(おののいもこ)で有名な遣隋使の派遣、朝鮮情勢に応じた派兵を行い、聖徳太子と馬子による史書「天皇記」、「国記」の編纂を行いました。
聖徳太子に先立たれ、推古天皇は75歳で亡くなりますが、凶作により人民が飢えているため新たな墓を作るなという遺言により、敏達天皇との間にもうけた我が子の墓に埋葬されました。
亡くなる前に、敏達天皇の孫、田村皇子(たむらのみこ)には「天皇の位が相手はならないので、準備しておくように。ただし、その時まで口外しないこと」と伝え、聖徳太子の息子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)には「まだあなたは幼いので、周囲の話をよく聞くように」と諭しています。
実際、亡くなった後、皇位継承問題が表面化。朝廷は田村皇子を推す蘇我馬子のこどもである蝦夷(えみし)と、山背大兄皇子を推す境部摩理勢臣(さかいべのまりせのおみ)との間で真っ二つに分かれてしまいます。境部は力づくで山背大兄皇子を立てようとしましたが、山背大兄皇子は無理を通し天下を乱すべきではないと引き下がります。
田村皇子は第34代の舒明(じょめい)天皇に即位しましたが、ほとんどが即位までのごたごたの記述で、実績については遣唐使の派遣くらいで、あとは災害が多かったことくらい。亡くなった後は、皇后が2番目の女帝として即位することになります。
2017年12月22日金曜日
冬至
冬至は、1年で最後に来る二十四節気で、この間に年をまたいで新年を迎えます。
また、今日は一日としても冬至。北半球で、1年の中で最も日の出から日没までの時間が短くなります。
また、天文学的には、地球から見た太陽が最も低い所を通る瞬間を冬至と呼んでいます。これは昨日、21日の午後4時28分でした。
ちなみに、星座占いだと、この日がやぎ座の始まり。
何にしても、とにかく昼が短く夜が長いので、何か損したような気持ちになります。でも、ここから次第に昼が長くなっていくということ。
これから冬の寒さは本番を迎えますが、冬至から春を迎える準備が始まったと思えばいいんじゃないでしょうか。
2017年12月21日木曜日
日本書紀 (2) 影の薄い六世紀
100年間で7人ですから、各天皇の在位期間は長くなく、継体25年、欽明32年、敏達14年で、あとは数年ずつです。そのせいか、日本書紀の記述は少なく、存在感の少ない天皇が多い。
継体天皇の正妻のこどもが欽明天皇ですが、先に生まれていた安閑、宣化の二人の異母兄が先につなぎで即位したとされています。この三人の中では、皇位継承争いがあり一時はどちらも天皇を名乗る二朝並立の内乱もあったのではという説もあったりします。
安閑・宣化の項では、ほとんど外交問題のことばかり。継体以来の朝鮮半島情勢に介入して勢力拡張策が続きます。またそのために国力の強化・整備が必要だったので、屯倉(みくら)と呼ばれる、政府直轄の田畑および収穫を備蓄する倉庫などを含むシステムを増やしています。
ですから、本当に理解するためには、中国・朝鮮の歴史と合わせて多元的な勉強が必要なんですが、さすがにそこまで資料を漁るのはしんどいものがあります。ここでは、ばっさりと捨てて、横に置いておきます。
欽明朝になっても、朝鮮半島の百済、任那、新羅などとのやり取りがひたすら続きます。歴史的には、この頃に仏教が入ってくるというのが大事なポイント。また、実務方には継体天皇以来の大伴、物部にくわえて蘇我を加え、後に大伴失脚により物部・蘇我の二極体制ができます。
実は、豪族というものがどんどん力をつけているところがある。記紀では神の系図、天皇の系図の解説が重要なのですが、登場する氏族の祖先がどこから始まったかもしっかりと書かれています。
つまり天皇の「万世一系」を重視するのと同じように、天皇家以外の氏族にもその出自を重視するところが、少なくとも記紀編纂の7世紀後半にはあったわけです。ここまで、天皇以外の古代氏族に立ち入るのは複雑で避けてきたところがあるのですが、そろそろ有力氏族の動向を無視しては読み解けない感じになってきました。
この後に続く、敏達、用明、崇峻、そして第33代の推古(すいこ)天皇の4人はいずれも欽明天皇のこどもたちです。
敏達天皇は仏教には慎重な姿勢を示し、反対派の物部・中臣氏と推進派の蘇我氏との間での争いがしだいに激化していきます。蘇我が寺を作ったから疫病が流行ったとして仏教禁止令を出しています。
続く用明天皇は、蘇我氏の血筋でもあったため親仏教派でした。用明天皇で、記憶に留めておかないといけない一番重要なことは聖徳太子(厩戸皇子)のお父さんということくらいでしょうか。
崇峻天皇も蘇我系で、物部が推す穴穂部皇子を蘇我馬子が抹殺したことで即位します。物部氏は没落し、仏教が一気に広がることになりました。しかし、実権を掌握していた蘇我馬子の警戒心から、なんと日本の歴史上、唯一の部下による天皇暗殺事件に発展します。
重大事件が発生した割には、国内のみならず、国外でも特段の動揺が見られず、また蘇我馬子の力もそのまま続くところから、最初から入念に計画された一種のクーデターと考えられ、また蘇我氏の力が天皇をも上回っていたことがわかります。
2017年12月20日水曜日
年賀状締め切り迫ってきた
最後に残った年末準備、年賀はがきの準備をしているんですけど、なかなかうまい具合の物が思い浮かばない。
昔は、こどもの写真。よくあるやつですが、貰ってみると、別にこどもと顔見知りじゃないので、正直面白くない。
面白くないと自分が思うものを送っていた・・・というのも、結局自分の顔を出すのも恥ずかしい感じということなんですよね。
どっちにしても、こどもたちはみんな成人してしまい、今更使うわけにもいかないでしょう。
だからと言って、完全印刷ものは気持ちが伝わらないし、全部手書きは大変すぎるし・・・
それと住所録の整理。これがなかなか面倒。年賀状を貰ったら、すぐにやればいいんですけど、毎年毎年出す時期になって慌てるんですよね。
いつの間にか住所がわからなくなって、出してもそのまま戻ってきてしまう年賀状が、毎年数枚はある。
今はFacebookとかに登録している人もいるので、そこから懐かしい顔を見つける場合もあるので、何とか手繰り寄せた糸をつなぎたい。
そんなわけで、自分が撮影した「ちょっと自信がある風景写真」を利用して、多少はセンスの良さを出せればとは思うのですが。
その人に見せられる正月らしい写真というのが・・・・なかなか、ないんですよね。
・・・と思っているうちに、元旦配達の締め切りが迫っています。
2017年12月19日火曜日
ペコちゃん
虫歯の治療して、かぶせていたのが取れちゃう・・・
これが、ミルキーを食べなくなった一番の原因です。
えっ? いや、大人になったからかもしれませんが。
物心ついた時にはありましたね。ミルキーは、不二家が1950年に発売したということ。
その売り出しの最初からキャラクターとして登場したのが、ペコちゃんです。すぐに不二家を代表する目印になりました。
昭和の時代では、店の前にあるものといえば、サトーの象さん、コルゴンコーワのケロちゃん、そして不二家のペコちゃんが御三家という感じでしょうか。
少しずつ変化はしているようですが、ペコちゃんだけが生き残っているので、この先もずっとずっと頑張ってもらいたいものだと思います。
2017年12月18日月曜日
日本書紀 (1) 相反する武烈と継体
日本書紀全30巻のうち半分の15巻までの内容は、基本的には古事記と同じです。伝承文学的な古事記に対して、日本書紀はできるだけ客観的な記述に終始します。すでに古事記を読み進める中で、その内容の主な違いも見てきましたので、ここでは省略します。
第16巻からは日本書紀の一人舞台で、正直にいえば面白さはかなり減退し、けっこう読み進めるのは辛い所がある。しかし、ヤマト王権の天皇制が出来上がり、大化の改新を経て、律令国家として成熟するという「真の日本国史」の出発点に至る話ですから頑張りましょう。
・・・って、いきなり、かなりの重要な問題からスタート。
つまり、欠史と言われる天皇より短い記述にもかかわらず、歴代天皇史上、もっとも極悪とされる武烈天皇の話から始まります。いや、もう、これは怖い話の羅列です。
髪の毛を抜いて、木のてっぺんに登らせておいて、切り倒して殺しちゃう。池に入らせて、流れてきたところを矛で刺し殺しちゃう。また、木に登らせておいて、弓矢で射殺しちゃう。
さらにやばいことに、裸にした女性に馬と××させて、感じちゃったら殺す。感じない場合は、皆の慰み者にしちゃう。
狩りでは自分だけ支度万端で、大雨・大風でみんなが困っても気にしない。豪華な贅沢な食事を好み、天下が飢えていても気にしない。宮殿では、毎夜宴会で大騒ぎ。
いやはや、これだけめちゃくちゃな事を書かれまくっては、人として完全に終わってますが・・・ところが、実はこの辺りは大陸のいろいろな暴君の話を元ネタにしているらしい。つまり、かなり作り話の要素が濃い。
実際、武烈天皇は億計天皇の息子となっているのですが、冒頭には朝から晩まで、法を重んじ犯罪を取り締まり裁いた・・・と褒めまくったかと思うと次の文章では、様々な悪事をはたらき、良いことはまったくせず、国中の民は恐怖におののいていたと書かれている。どっちやねん、と突っ込みの一つも入れたくなる。
そんなわけで、実在性についても疑いがもたれることになるわけですが、一番困ったことは、この天皇は世継ぎがいないこと。本人も気にしていたらしいのですが、万世一系を売りにしていた天皇家は、ついに跡取りがいない事態に陥るのです。
それというのも、安康、雄略、清寧の三代で政敵になりうる皇位継承者を粛清しまくったつけが回って来たということです。武烈天皇は即位して8年で亡くなりますが、気がついたら、まさに一系しか残っていなかったため、ついに血が途切れてしまったのです。
周りは、焦ったでしょうね。必死に探したんでしょうが、やっとのこと丹波国で仲哀天皇から五代目にあたる倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)を見つけて、迎えに行きますが、大勢で押し掛けたせいか、相手はびっくりして逃げ出して消息不明。
続いて見つけ出したのが、越前国高向で育った男大迹王(オオドノオウキミ)です。こちらは応神天皇からつながる五代目の彦主王(ヒコウシノオオキミ)が父親で六代目にあたり、母親は垂仁天皇から七代目にあたる振媛(ふりひめ)です。それぞれ天皇からつながってはいますが、具体的な系図は不詳です。
ちょっと待て。通常、親戚って呼んでいるのはどこまででしょうか。おそらく父母の関係、祖父母の関係、もしかしたら曽祖父母くらいまでじないでしょうか。つまり三代上くらいまでで、それより昔のこととなると・・・そりゃ、神代まで遡れば「人類皆兄弟」になりますけど。
倭彦王にしても、男大迹王にしても、途中の系図は明らかになっていませんし、五代目とか六代目とか、もうほぼ他人と言っても文句はでないくらい遠い、遠~い親戚筋です。実質的には万世一系の天皇家という表現はここで途切れているという考え方は根強くあり、最初のヤマト王朝は終わったことは否定できません。
男大迹王は「そんなうまい話があるわけがない」と思ったのか、使者が来てもすぐには承諾せず、数か月の熟考の後に第26代の継体(けいたい)天皇として即位しました。後付けの呼び名ではありますが、継体というのも怪しい。体を継ぐということで、まさに間を埋めた感満載です。
即位後、すぐに百済(くだら)との間で使者をやりとりを始めます。勢力圏だった任那国(みまなのくに)の一部を百済に譲渡。新羅(しらぎ)を荒らす伴跛国の討伐に敗戦などなど・・・天皇の業績として、ほとんどが朝鮮半島との外交に終始しています。
もちろん国内のことにもがんばったということも少しは書かれています。ある時、国勢が強まり「皆、贅沢に慣れたので、気持ちを引き締めなさい」という話をしています。この時期に、朝鮮半島人との間に混血が進んだことも記載されています。25年間の治世の後に、82歳で亡くなり、息子の勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)が継ぐことになります。
遊びまくり、人を殺しまくった、最低の武烈天皇との対比が色濃く描かれた感がある継体天皇紀でしたが、これは明らかに血脈の無理を正当化する目的。事実上途切れた血統を「万世一系」として、万人を納得させるために、武烈天皇をことさら悪く書き、継体天皇が政治をまじめに行ったことを強調しています。
結局、このあたりが作られた話として歴史書としての疑義が生じることにつながり、登場する天皇の実在性にすら疑問が挟まれるわけです。
2017年12月17日日曜日
Bim Bum Ban @ センター南
年末と云えば・・・忘年会。
昨夜は、今年のクリニックの忘年会を、地元のイタリアンの店、Bim Bum Banで開催しました。
例年、どこでするかいろいろと悩むところですが、今年はスタッフに一任。ついでに司会まで任せて、だいぶ呑気に楽しんできました。
部屋は奥の個室を使わせてもらいましたが、うちのグループの人数ではちょうどいい感じの空間で、テーブルも分かれず皆の顔をそれぞれ見える配置もよかったと思います。
縦に長すぎたり、テーブルが分かれると、どうしても宴会の一体感が薄れてしまいます。個室の仕切りもちゃんとあるので、多少うるさくしても安心でした。
毎年、ゲームをしますが、今年はスマホを忘れずもってきてもらい、専用のLINEのグループに参加してもらい、クイズの答えを書き込む方法をやってみました。
一番早く解答したのが誰か、確実にわかります。珍解答もあったりします。ただし、入力の速さの個人差があるので、答えは数字だけに限定しました。
ゲームの結果で、院長独断で用意したプレゼントを差し上げるのですが、今までは中身が何かはわからないようにして、開けてビックリにしていました。
今回は、事前にだいたいの内容を教えておいて、勝った人ができるだけ希望のものを持ち帰ることができるようにしてみました。
それほど多くないグループとして、まぁ、わいわい、楽しく過ごせればよいわけですが、それなりに成功だったと思うんですが・・・
また、来年も頑張ろうということで、よろしくお願いします。
・・・えっ? 食事? ・・・確か・・・パスタは美味しかった。ゲームで盛り上がっていて、食事については印象が・・・お店の方、御免なさい。忘年会ですから、それでいいかっちゅうことで。
2017年12月16日土曜日
年の瀬モード
年末年始の休みのお知らせから始まって、来年のカレンダーを用意したり、常備品の在庫の確認と発注・・・
1年の終わりになると、何となく気ぜわしいのですが、だからと言って、それほど年末の実感は湧かないところ。
ところが、診療をしていて、「じゃあ、次回は2週間後に」とか言うと、そこは年末年始にかかるということになって、昨日あたりから急に少しだけ実感が伴ってきました。
クリニックでは、毎年恒例、サンタクロースの折り紙に小さなお菓子を添えて来院した方に差し上げています。クリスマス前でも、無くなれば終了の早い者勝ちで、これが終わるといよいよカウントダウン体制。
街中の様子も、少しずつ人の動きが減っているような感じがして、ちょっとずつ静かに年末が近くなってきた感じがします。
年の瀬の準備万端・・・あっ、そうそう、年賀状をまだ何にもしていないわ!! この風習も、ずいぶんと形骸化してしまいましたが、若者と違って昭和のおじさんは今更やめるわけにもいきませんからね。
年賀はがきは、何と10円値下げだそうで、郵便局も年賀状減少に歯止めをかけたくて、いろいろ苦労しているんでしょうね。
2017年12月15日金曜日
続・外苑の銀杏並木
都内で銀杏並木の名所と言えば、明治神宮外苑。前回通った11月初旬の様子は、もう少しという感じでした。
さすがに、12月半ばともなると、すでに黄色の葉はほぼ落ち切った感じで、紅葉の見頃は完全に過ぎています。
葉が落ちると、とんがり感が強まり、寒々とした冬の光景。冬本番になったことを実感しますよね。
でも、葉を落とすのは来春の新しい芽吹きのためですから、「終わり」ではなく「始まり」と思えば、春の期待を込めて一つの楽しみにしたいと思います。
2017年12月14日木曜日
2017年 総決算
今年も、あと残すところ2週間ちょっと。あっという間に、時間が過ぎていくのは、年を取れば取るほど強く感じます。
このブログも、気が付くと4000タイトルを超えていて、よくもまぁ、続けているもんだと我ながらあきれてしまいます。始めた当初の無料の宣伝という要素は、いまや微塵もなく、医学的な話題はむしろ避けていると言ってもいい。
完全に日々の日記状態で、ほとんど内容的にもどうでもいいことばかり。もうやめようかと思うこともありますが、何となく新しく興味を持つものが見つかると、その勉強ノートとしての機能として続いています。
今年は、まずヘンデルから始まりましたが、実はちょっと挫折しています。途中から、何度目かのオペラ鑑賞に移行してしまいました。オペラは、有名どころはいくつかDVDで見ることは見たんですが、やはりのめり込んでいくほどになれませんでした。
9月に出雲大社・厳島神社に出かけたわけですが、宗教的、思想的にはほぼ関心が無いので、日本の古代の国の成り立ち、神社に祀られている神の由緒など、もう少し知ってから出かければよかったという後悔から、むしろ、こっちへの興味が俄然沸いてきました。
知的探求心というものなんでしょうか、古事記などの記述がどうして出来上がったのか、謎がたくさんありますので、少しでも自分なりに納得できる答えを探してみたくなります。
ところが、もうこの手の話は、謎が謎を呼び、しかも証明は不可能ですから、底なし沼状態で、知れば知るほどわけがわからない。この辺りについては、もうしばらく勉強のネタは尽きそうもありません。
やっと古事記を読み通しただけですから、日本書紀でいうとやっと半分。ある程度、歴史としての確定的な時代・・・というと平安時代の手前くらいまでは追いかけてみたいところです。
趣味的な話はそのくらいにしておいて、クリニックはどうかというと・・・まぁ、基本的には順調なんですが、経営的には何とか赤字にはならないというところ。会計士の方にも、健全経営と言われているんですが、何しろ10年を超える機器をかかえていますから、毎日そろそろ壊れるんじゃないかとびくびくしています。
電子カルテのシステムだけは、壊れてからどうかするというわけにはいきません。ですから、今年最大の出費は、7月の電子カルテの総入れ替えでした。通常大手のメーカーのものだと、新規で数百万円以上はかかるところですが、うちは元々安さで勝負の電子カルテです。
新しいPC5台に入れ替えて、ソフトウェアの入れ直し、旧機からのデータ引継ぎ操作で何とか100万円(かなり安い!!)でまとめてもらいました。おかげで、OSが、とっくにMicrosoftのサポートが終了していたWindows XPから最新のWindows 10に変更され随分と快適になりました。
サーバーも一新して、使い勝手は向上しましたし、バックアップもより安定。この機にカルテのいろいろなマスター更新も、夜間自動リモートになりましたので、メンテナンスも楽になりました。
春に思いがけずダウンしたのは、レントゲンのサーバーでした。これも開業時に、できるだけ安い物を探して使用していたのですが、さすがにハードがもうダメになり、実はそのメーカーも無くなっていました。しかたがないので、レントゲンの読み取りシステムのコニカ・ミノルタの物を急遽導入。
これも交渉の結果、何とか100万以下で済ませられました。けっこう、それなりの交渉は必要でしたけど、どうも医療機器の値段というのはあってないようなものみたいなところがあって、定価を聞くと目の玉が飛び出ます。
もうひとつ問題がありました。クリニックのレントゲン撮影装置は、通常の撮影とあれば便利な透視ができるものなんですが、例えば透視は見ながら骨折のずれを治したりするのに使います。この透視のための装置が壊れました。
透視は年に数回しか使わないので、壊れたことにはまったく気が付きません。いつ壊れたのかわかりませんが、11月の定期点検で発覚しました。これには驚いた。早速修理の見積もりを出してもらって、さらに驚きました。
撮影装置はだいたい実質600万円くらいでした(これも定価は数千万)が、おまけみたいな透視で修理代が400万円越えでした。いや、もう、これは、悩むことなく却下です。下手すれば通常の撮影装置を買い直せるくらいの値段ですから、めったに使わないもののために400万では投資を回収できません。
いざという時の手段が無くなるわけですが、年に数回なので、何とかがまんします。実際、同じような事例はけっこうあるみたいで、メーカーの人も、たいてい修理しないことが多いといってました。
さて、今年は今までになく診療後の疲労を感じることが増えたように思います。年を取ったということなんですが、体力的な衰えは隠しようもなく、今のペースで仕事を続けるのはしんどいところです。
来年は、休診を増やすか、非常勤医師を依頼するかして、自分の休みを増やしたくなるのかもしれません・・・なんちゃってね。
2017年12月13日水曜日
魁力屋 @ センター南
久しぶりの魁力屋です。
最近は、美味しい担々麺を食べれる店を探して行くことが多かったんですが、今回は、鶏ガラ醤油の原点に戻りたくなりました。
とはいっても、昭和の典型的な醤油ラーメンに比べると、ずいぶんと進化はしているわけです。
魁力屋のスタンダードの醤油ラーメンです。チャーシューとメンマはありますが、ほうれん草、なるとはのっていません。
そして、何より背綿脂が、平成のラーメンの趣を強く感じさせます。健康上は必ずしも歓迎できませんけど、美味しさはまちがいなくアップ。
脂の甘味が旨さを強くして、表面が脂の層でコーティングされることで、スープが冷めにくく、最後まで熱々に食べることができますね。
でも、ベースの鶏ガラ醤油は、懐かしい味を思い出すのに十分で、実際に食べた経験はありませんけど、夜泣きそばのチャルメラの音が聞こえてくるようです。
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