太平洋単独無寄港横断における手記が「太平洋独りぼっち」で、すぐさま石原裕次郎が企画し日活が映画化。石原プロモーションの初めての映画となりました。監督は石原からオファーされた市川崑が勤め、円谷プロダクションが特殊撮影を行い、音楽は芥川也寸志と武満徹という二大巨頭が担当しています。
小型ヨットでの領海外での航行は禁止されていて、堀江健一(石原裕次郎)は1962年5月12日、深夜に密出国を覚悟でマーメイド号で西宮港を出発します。しかし、なかなか風が吹かずいつまでたっても日本から出られません。
健一はマーメイド号の造船所の主人(大阪志郎)や父(森雅之)や母(田中絹代)との会話を思い出していました。健一は母にだけはヨットの話をしていました。母はどう説得してもあきらめない健一に、最期には「死ぬときはお母ちゃんと呼んでや」と言うのでした。
台風に遭遇して難破しかけたり、積み込んだ飲料水がダメになったり、ひとりぼっちの孤独に押しつぶされそうになったりします。食事は缶詰中心で、トイレは海に捨てるだけ。41日目に日付変更線を通過。ハワイの日本語放送を聞いて涙するのでした。
途中、アメリカ軍の哨戒機や貨物船と遭遇しますがやり過ごします。水の節約のためビールでご飯を炊く、ケーキの変わりにバターと脱脂粉乳に砂糖を混ぜて食べる。健一は出発前のことを思い出していました。母は少しでも足しにとお金を、妹(浅丘ルリ子)は手製のクッションを渡しました。
健一はマーメイド号の造船所の主人(大阪志郎)や父(森雅之)や母(田中絹代)との会話を思い出していました。健一は母にだけはヨットの話をしていました。母はどう説得してもあきらめない健一に、最期には「死ぬときはお母ちゃんと呼んでや」と言うのでした。
台風に遭遇して難破しかけたり、積み込んだ飲料水がダメになったり、ひとりぼっちの孤独に押しつぶされそうになったりします。食事は缶詰中心で、トイレは海に捨てるだけ。41日目に日付変更線を通過。ハワイの日本語放送を聞いて涙するのでした。
途中、アメリカ軍の哨戒機や貨物船と遭遇しますがやり過ごします。水の節約のためビールでご飯を炊く、ケーキの変わりにバターと脱脂粉乳に砂糖を混ぜて食べる。健一は出発前のことを思い出していました。母は少しでも足しにとお金を、妹(浅丘ルリ子)は手製のクッションを渡しました。
8月12日、ついにゴルーデンゲート・ブリッジを超え、サンフランシスコ湾に入りました。早速沿岸警備隊が近寄って来て、港に曳航されます。パスポート無しなので拘束されると覚悟していましたが、逆に歓迎され、日本領事館に連れていかれると家族からの国際電話にも関わらずひたすら眠り続けるのでした。
基本的に一人でひたすらヨットに乗っているだけの話ですが、石原によるナレーションを中心にヨット内での台詞(独り言)は少な目、映画として成立させるために主人公の様々な回想を織り交ぜています。
ただただこれが実話だという「真実の強さ」が映画を支えています。それにしても、日本では違法出国の犯罪者でしたが、アメリカでは英雄として称えられたという、60年前の日米の懐の深さの違いが印象的。名作とは言えない物の、高度経済成長に向かいつつあった日本の若者の力の一端を知ることができる良作だと感じました。