2018年1月28日日曜日
日本古代史と文字
古事記にしろ、日本書紀にしても文字で書かれたものですが、編纂されたのは7~8世紀のこと。舞台となる紀元前から、ずっと文字が存在していたわけではありません。
斎部広成の「古語拾遺」の冒頭には、「上代には文字がなかった」と記されていて、少なくとも神話世界(神代)、または、もしかしたらヤマト王権が成立する頃までは、日本には文字は無かったと考えられています。
ただし、例えば亀の甲羅を使った占いなどでは、一定の模様などが特定の意味を持つものとされていたわけで、記号としての文字様のものは存在したはずです。しかし、文字として成立するためには、その記号と話言葉とのリンクがあり、誰もが読んで書ける必要があります。
世界に目を向けてみると、紀元前3000年より前のシュメールが最古とされています。エジプトでも、同じ頃にピラミッド内に文字が発見されています。その頃は、日本でも何らかの文字があったことは否定はできませんが、学術的には4世紀以後、大陸側からの漢字の伝来がスタートとされています。
日本の古代文字として、いくつもの神代文字と呼ばれているものが存在はしていますが、信憑性という点からは疑問があり、取り上げ始めたら古代史の迷宮はよりいっそう混迷の度合いを深めてしまいます。歴史素人の立場からは深入りせず、現状で定説、通説となっている範囲を逸脱することはできるだけ避けた方が無難と思います。
当時のヤマト言葉に、中国の漢字の読みの音と似たものを当てはめていったわけで、天皇家の「偉大な」歴史を民に周知させることを目的とした日本最古の文字資料である古事記では、基本的に話し言葉を漢字だけで記載したものとして成立しています。
一方、日本書紀は、対外的に日本の威厳を示すため、漢文でかかれています。どちらも書かれているのは漢字だけですが、古事記は当時の唐の人が読んでも理解できなかったことでしよう。日本最古の和歌集として有名な万葉集も、実はヤマト言葉による漢字だけで書かれています。
いくつもの漢字が、漢字本来の意味を無視して、あくまでも読んだ時の音だけをその時々に応じて採用するという原始日本独特の使用法は「万葉仮名」と呼ばれます。
逆に中国側では、日本で聞いた言葉に漢字の音を適当に当てはめることもされていて、「邪馬台国」や「卑弥呼」が代表的。もしかしたら魏の人は「ヤマト」、「ヒメコ」と耳で聞いたのかもしれませんし、当時の日本で文字が使われていたら「倭」、「姫」を使うことを教えたはずで、わざわざ卑下したような邪や卑の文字は使われなかったはずです。
その後、奈良時代になると、「多」を「タ」のように使用する漢字の一部だけを省略して使用することが始まります。ヤマト言葉を表すのに使用する漢字が統一されていく過程で、平安時代には仮名文字が出来上がっていきました。
紀貫之の土佐日記(935年)では平仮名が使用されています。12世紀の今昔物語あたりからは漢字と仮名が混在するスタイルが出来上がってきました。平仮名と、片仮名(主として外来語向け)を使い分けるのは第2次世界大戦後で、歴史上は最近のことです。
日本古代史を知るうえで、文字史料の存在は多くの確定的な事実を伝える可能性がありますが、逆に嘘もあることに注意が必要です。現実には、7世紀以前のものは極めて少なく、千葉県稲荷台古墳から見つかった「賜王」の文字がある鉄剣は、5世紀頃の倭国最古のものとされ貴重な史料とされています。
奈良時代以後は、急速に文字の使用は拡大します。木の平たい面に文字が書かれたものを、木簡(もっかん)と呼び、平城京跡から20世紀後半に大量に出土したことで、当時の実態の解明が飛躍的に進みました。
歴史の時代区分で、古代の次は中世です。この境界は、支配体制や社会経済体制を基にされているわけですが、日本では11世紀の荘園制度形成を区切りとしています。文字を中心に考えると、独自の文字を持たなかったのが古墳時代までで、実用的な文字の使用が始まるのが飛鳥時代、日本独自の文字が考案されだすのが奈良時代、完成し普及するのが平安時代前半ですから、そこまでが不確定要素が多い「古代」だという考え方もあっていいのかもしれません。
2018年1月27日土曜日
寒いっ!!
これはなかなか見たことが無い表示で、先日の雪が溶けきれないアスファルトの道路は、毎朝、はっきりと凍結した状態が続きます。
この付近は、住宅地として出来上がってから数十年以上たった区域なので、住民は高齢者と呼べる年代が多くを占めています。
当然、雪が降ったからといって、せっせと雪かきができない家もたくさんあって、道路に残って氷塊になった残雪も少なくありません。
そういえば、雪が降ると転倒事故が増えるのですが、今年はクリニックに来る滑って怪我した人が多いように思います。
今までにあまり経験した記憶が無いことの一つに、自動車の室内側が凍っています。外側が凍りつくのは、この時期普通のことですが、内側もというのは・・・
外はがりがり削って、比較的早くに何とかできますが、中はデフォーカーで溶けるのを待つしかありません。朝の始動時間がかなり必要です。
足元の残雪を車内に持ち込んでしまうせいで、湿気が多くなっているせいだと思いますが、車内にいると冷たい風か来るので寒くてしょうがないので、むしろ外に出て待っている方がましだったりします。
節分まであと1週間。立春が待ち遠しいです。
2018年1月26日金曜日
続日本紀 (7) 平城京から長岡へ
770年に称徳天皇が亡くなり、皇太子になった白壁王は、道鏡一派の処分が終了して、その年のうちに第49代の光仁天皇として即位しました。ここに、奈良時代に継続した天武系から、天智系の天皇への復帰が実現しました。ただ、光仁天皇は、この時すでに60才を超えていましたが、吹き荒れた粛清の嵐の中で、酒に溺れて皇位など興味がない振りをして、何とか逃れてきたらしいです。
もちろん天武系を推す勢力もあったようですが、白壁王の妃は聖武天皇皇女である井上内親王であり、天武系と天智系の鍔迫り合いの妥協点が光仁天皇を誕生させたようです。その調整役として頑張った右大臣吉備真備は、ほとほとお疲れだったようで、天皇即位を見届けて現役引退してしまいました。天皇は、翌年には息子の他戸親王を皇太子に立てています。そして、政権の両輪だったもう一方の左大臣藤原永手が亡くなり、舵取りを失った朝廷は再び不安定な状況に陥ります。
天智対天武の縮図は、天皇と皇后の間にも存在していたようで、二人の仲は一気に冷え込みました。772年に、突然皇后が「以前に、呪術を使って謀反を企んだ」という、よくわからない理由で皇后の地位を廃されました。さらに皇太子も連帯責任で廃されてしまいます。
翌年に山部親王を新たな皇太子とします。ただ、山部親王の母親は、百済から渡来した氏族の出身で、身分が低く力が無いので不安が残ります。そこで、井上内親王と他戸皇子を幽閉してしまうのですが、3年後に「二人揃って亡くなる」という記述があり、どう考えても自殺か暗殺と思わ、ここに天武系排除は完了しました。
光仁天皇はピンチヒッター的な即位で、年も取っていたので、天武系皇位継承者と道教の影響を整理整頓したくらいで、あまり目立った仕事は残せていませんが、気苦労はいろいろあったのかもしれません。781年に体調を崩したため山部皇太子に譲位しますが、年の瀬に亡くなりました。
皇太子は即位して第50代桓武天皇となり、弟の早良親王が光仁天皇の勧めにより新たに皇太子となりましたが、翌年には、まだまだ続く皇統のいざこざです。称徳天皇と道鏡にって土佐に流刑となっていた塩焼王の妻子、不破内親王と氷上川継は光仁天皇により復権したのですが、川継のクーデター計画が発覚したため、二人は再度流刑に処されました。
天武系天皇の時代はバブル景気で、どんどんお金を使ってたので、財政は厳しい状況に陥っていました。桓武天皇は「冗官整理の詔」を宣じ、その中で「官民共々、バブルはじけて疲れちゃった。とりあえず、生活はできるんだから、宮殿造りはやめ、役人も整理して倹約しよう」とのこと。ところが、口で言うことと、実際することはだいぶ差があった。
まったく理由はわからないのですが、ここで長岡への遷都の計画が浮上してくるわけです。また光仁時代から東北では蝦夷が度々反乱を起こしており、これの制圧にも多大な人費を要しました。
784年、工事開始から半年ほどで長岡京に遷都を敢行しますが、当然まだ実質的な都としての完成にはほど遠い。翌年、天皇が留守にしている間に、長岡京の造営監督をしていた藤原種継が、反遷都派の大伴継人により暗殺されます。大伴継人とともに捕まったのは、何と皇太子の早良親王だったのです。主犯連中は即処刑され、早良親王は流刑になります。ところが、早良親王はハンガーストライキの末絶命し、桓武天皇にとってはいつまでも恐れる「呪い」を残したのです。実は、息子の安殿親王を皇太子にするための桓武天皇の作戦だったらしい。
こうして、相変わらず血で血を洗うどろどろの皇位継承争いが延々の続き、道鏡のようなババ札も登場し、天平文化の華が咲く奈良時代はいよいよ終焉を迎えようとしています。
このあとのことは、日本後紀、さらに続日本後紀に記述されていくのですが、さらに一般向けの解説書は少ななく、続きはまさに歴史授業のように勉強するしかなさそうです。
とりあえず、「古代」と呼ばれ時代は、概ね知ることはできたかもしれません。もちろん、国史中心ですから庶民の生活とかには触れいませんので、まだまだ知りたいことはたくさんありますので、いろいろなテーマをさらに模索することは続きます。
翌年に山部親王を新たな皇太子とします。ただ、山部親王の母親は、百済から渡来した氏族の出身で、身分が低く力が無いので不安が残ります。そこで、井上内親王と他戸皇子を幽閉してしまうのですが、3年後に「二人揃って亡くなる」という記述があり、どう考えても自殺か暗殺と思わ、ここに天武系排除は完了しました。
光仁天皇はピンチヒッター的な即位で、年も取っていたので、天武系皇位継承者と道教の影響を整理整頓したくらいで、あまり目立った仕事は残せていませんが、気苦労はいろいろあったのかもしれません。781年に体調を崩したため山部皇太子に譲位しますが、年の瀬に亡くなりました。
皇太子は即位して第50代桓武天皇となり、弟の早良親王が光仁天皇の勧めにより新たに皇太子となりましたが、翌年には、まだまだ続く皇統のいざこざです。称徳天皇と道鏡にって土佐に流刑となっていた塩焼王の妻子、不破内親王と氷上川継は光仁天皇により復権したのですが、川継のクーデター計画が発覚したため、二人は再度流刑に処されました。
天武系天皇の時代はバブル景気で、どんどんお金を使ってたので、財政は厳しい状況に陥っていました。桓武天皇は「冗官整理の詔」を宣じ、その中で「官民共々、バブルはじけて疲れちゃった。とりあえず、生活はできるんだから、宮殿造りはやめ、役人も整理して倹約しよう」とのこと。ところが、口で言うことと、実際することはだいぶ差があった。
まったく理由はわからないのですが、ここで長岡への遷都の計画が浮上してくるわけです。また光仁時代から東北では蝦夷が度々反乱を起こしており、これの制圧にも多大な人費を要しました。
784年、工事開始から半年ほどで長岡京に遷都を敢行しますが、当然まだ実質的な都としての完成にはほど遠い。翌年、天皇が留守にしている間に、長岡京の造営監督をしていた藤原種継が、反遷都派の大伴継人により暗殺されます。大伴継人とともに捕まったのは、何と皇太子の早良親王だったのです。主犯連中は即処刑され、早良親王は流刑になります。ところが、早良親王はハンガーストライキの末絶命し、桓武天皇にとってはいつまでも恐れる「呪い」を残したのです。実は、息子の安殿親王を皇太子にするための桓武天皇の作戦だったらしい。
こうして、相変わらず血で血を洗うどろどろの皇位継承争いが延々の続き、道鏡のようなババ札も登場し、天平文化の華が咲く奈良時代はいよいよ終焉を迎えようとしています。
このあとのことは、日本後紀、さらに続日本後紀に記述されていくのですが、さらに一般向けの解説書は少ななく、続きはまさに歴史授業のように勉強するしかなさそうです。
とりあえず、「古代」と呼ばれ時代は、概ね知ることはできたかもしれません。もちろん、国史中心ですから庶民の生活とかには触れいませんので、まだまだ知りたいことはたくさんありますので、いろいろなテーマをさらに模索することは続きます。
2018年1月25日木曜日
続日本紀 (6) 平城京の野心の顛末
誰かの地位をあらわす言葉を「官位」と呼び、その中で仕事の種類によって上下をつけたものが「官職」、貴賤の差をつけたものが「位階」です。天皇はもちろん王として別格で、その下に、政策を造り実行する今の内閣にあたるのが太政官、神事を司る神祀官の二つが奈良時代の政権実務の両輪と言えます。
太政官のトップが太政大臣で、その下に就くのが左大臣、右大臣。さらにその下が大納言、少納言です。位階では太政大臣は正一位、従一位、左右大臣は正二位、従二位、大納言は正三位でした。道鏡は、これらの位階を一気に飛び越し、765年に太政大臣と同格とする太政大臣禅師の地位を得るというのは、孝謙太上天皇から重祚した称徳天皇の寵愛があるとはいえ、相当な軋轢を生じたことは疑いようがありません。
766年には、隅寺の毘沙門天像の中から仏舎利(仏陀の遺骨の一部)が出てきたということで、だいたい的な式典をした上で、天皇は道鏡を法王とすると言い出し、天皇と同格扱いにまでしてしまいます。道鏡の一族もたくさん官位を得るのですが、特に768年、道鏡の弟、弓削御浄清人は大納言に取り立てられました。
像から仏舎利を発見したのは基真という僧で、その功績により道鏡と共に出世したのですが、威張りまくって好き勝手を始めます。もちろん、仏舎利発見というのはありえない話なので、基真が最初から像にそれらしいものを埋め込んでおいたものだったようです。当然、そもそもは道鏡の指図だった可能性が高い話なんですが、仏舎利の偽りがばれたらしく、すべては悪行の多くなった基真の責任にして流刑にしてしまいます。
769年、本来天皇が使う場所で、新年の祝辞を宣じたのは道鏡でした。この年、皇位継承に関わりそうな、恵美押勝と共に殺された塩焼王の妻と子を土佐に流刑します。そうこうしていると、大宰府の神官からは、「道鏡を天皇にすれば天下泰平」と宇佐八幡神のお告げがあったという知らせが来ました。天皇は和気清麻呂を使いに出し、真偽を確かめることにしました。
出発の間際に道鏡は「わかってるよね。君も出世したいよね」と言って、ぽんぼんと肩を叩いたらしい。ところが、真っすぐな清麻呂は、帰ってくると「臣下を君主にすることはかつて無い。天皇の位は皇室が守るべきもので、無道の者は排除すべし」と、神託を報告したのです。
天皇は怒った。清麻呂の姓をとりあげ、名を穢麻呂(きたなまろ)と変えさせ流刑に処しました。当然、道鏡も怒った。そもそも神託を出させたのも、道鏡が裏で手配していたもの。流刑される清麻呂に刺客を送りますが、悪天候のため失敗したらしい。
それでもめげない二人は、今度は道鏡の故郷である河内国弓削郷(大阪市八尾市)にあった行宮を平城宮と同格にすることにしました。しかし、天皇は体調を崩し770年に亡くなってしまいます。左大臣藤原永手と右大臣吉備真備が協議して白壁王(天智天皇の志貴皇子のこども)を、空位になっていた皇太子に立てます。天皇は天武から聖武に引き継がれる皇統を重視していましたが、ここに天智系が回復することになりました。
後ろ盾を失った道鏡は、天から地に一気に足元が崩れ去るわけで、天皇崩御より3週間もたたないうちに、皇太子により「長きにわたって悪だくみを重ねてきた。本来は極刑にすべきところであるが、亡き天皇が手厚くしてきた経緯があるので、下野国薬師寺に左遷とする」ということになります。朝廷内の道鏡一族もことごとく流刑とし、和気清麻呂は名誉回復で都に呼び戻されました。数年後に、銅鏡は下野国で、いっかいの僧として亡くなりました。
2018年1月24日水曜日
続日本紀 (5) 平城京の貴僧と怪僧
急速に仏教を推進・拡大したため、何と困ったことに僧が不足することになりました。何しろ大仏開眼供養では、発見された名簿から1万人の僧が出席したというのですから大変です。そこで、唐から戒律をちゃんと教え広める先生を招聘しようということになり、754年に井上靖の小説「天平の甍」で有名な鑑真(がんじん)が来日することになりました。
揚州にいた鑑真は、請われて10年間に5回も日本に向けて出発するが、ことごとく阻止され失敗していたのです。しかし、6回目にしてやっと成功し、平城京で僧を管轄する役所のトップとして戒律の普及、伝来した経典の校訂作業などに努めました。政変とは関係ありませんが、日本の仏教にとっては最重要人物の一人として記憶に留めておきたいと思います。
この辺りの話からは、この当時の皇室の系図がわからないと、もう何が何だかわからないことになります。かなり複雑ですが、無理して列挙しておきます。
まずは、天武天皇(40)の主なこどもたち。
持統天皇との間に生まれたのが、草壁皇子のみ。その子が、元正天皇(44)、文武天皇(42)、吉備内親王。
その他の妃との間に生まれる皇子は、
高市皇子。その子は長屋王、鈴鹿王。長屋王と吉備内親王との間にできた子が、色膳夫王、桑田王、葛木王で、異母兄弟が黄文王、安宿王、山背王。
舎人親王。その子が、船王、池田王、三原王、大炊王(淳仁天皇)。三原王の息子が和気王。
長親王。その子が、来栖王、智奴王、川内王。
穂積親王。その子が境部王。
新田部親王。その子が、塩焼王、道祖王。
さらに、大津皇子、忍壁皇子、磯城皇子、弓削皇子がいます。
次は天智天皇(40)の主なこどもたち。皇后との間には子はいません。
天武天皇の妃になった皇女が、大田皇女、持統天皇(41)、新田部皇女、大江皇女の4人。もう一人大事な皇女が元明天皇(43)。
皇子は、建皇子、志貴皇子(光仁天皇の父)、大友皇子(弘文天皇39)、川島皇子。
天武系と天智系は、天武と持統の結婚、草壁と元明の結婚で直結します。他にも多くの皇子と皇女が結婚しています。ちなみに藤原不比等の娘、宮子と文武は結婚し、その息子の聖武天皇(45)はもう一人の不比等の娘、光明子と結婚し、生まれるこどもが基王と孝謙天皇(46)です。
文字で見ていてもわかりにくいのですが、系図にしてみても近親婚の嵐で、ぐしゃぐしゃです。Wikipediaは最小限の系譜が収載されていますが、たぶん一番詳しい系図は「皇室・公家・武家・社家の系図 http://www.geocities.jp/keizujp2011/」が参考になると思います。
さて、756年、聖武太上天皇は、道祖王(ふなどおう)を孝謙天皇の皇太子にするよう遺言しました。しかし孝謙天皇は、翌年、太上天皇の喪に服すべきところ、道祖王は行いが淫らで注意しても正さないという理由で皇太子から降ろしてしまいます。代わりは、塩焼王、池田王を推す声があったが、結局、藤原仲麻呂が自宅で養育していた大炊王に決定します。
藤原仲麻呂は、さらに力を持ち軍も掌握できる地位に就きます。反藤原のトップは橘諸兄が亡くなり、息子の橘奈良麻呂になっていました。奈良麻呂は大伴古麻呂、塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王と共謀して、田村邸を強襲するクーデター計画を立てますが、密告され仲麻呂に知られてしまいます。仲麻呂も奈良麻呂も皇太后からすると甥なので、穏便に叱って終わりにしようとしますが、仲麻呂は厳しい拷問を行い、塩焼王と安宿王は流刑、他は獄死させました。
758年、孝謙天皇は大炊皇太子へ皇位を譲位し、第47代淳仁天皇として即位しました。当然仲麻呂は朝廷の事実上のトップである右大臣、さらに太政大臣に昇進し、恵美押勝の名を与えられました。760年光明皇太后が亡くなり、歯止めが無くなった仲麻呂と孝謙太上天皇との関係は崩れ始めます。
翌759年、淳仁天皇は仲麻呂と縁がある近江保良宮に行幸し。どんちゃん騒ぎのあげく「ここを都にする」と言い出します。しかし、皮肉なことに、この行幸の時に体調を崩した孝謙太上天皇の治療のためということで、怪僧道鏡が朝廷へ出入りし始めるのでした。
翌年、平城京に戻り、太上天皇は男子が入れない尼寺の法華寺に住むようになり、ここから天皇に断りなく様々な勅を出し始めました。そして、ついに762年「天皇は仲麻呂にそそのかされ、私を軽んじた。自分の不徳の責任をとって私は出家したので、天皇には事実上皇位を降りてもらう」と宣言し、政権を奪還するのでした。763年には道鏡が少僧都に任じられ、太上天皇の寵愛を深めていきました。
年々、立場が悪化していた仲麻呂は、764年に太上天皇の命により畿内の軍隊の訓練を任されますが、それを反乱の準備とされ、朝廷側と戦闘に入らざるをえない状況に追い込まれました。かつて流刑にした塩焼王を天皇にしてやると言って仲間に引き入れますが、形勢不利な仲麻呂は近江に逃げ、琵琶湖のほとりで妻子、塩焼王ともども斬り殺されました。
直後に、道鏡は太政大臣禅師の位につき実質的な政務を任され、淳仁天皇は共謀の罪により廃帝され淡路へ、淳仁廃帝の兄弟の船王、池田王もそれぞれ隠岐、土佐に事実上流刑になります。そして孝謙太上天皇は重祚し第48代称徳天皇として再び即位しました。しかし、天武系の皇子をほぼすべて粛清したので、皇太子にできる人材がいなくなってしまい、ますます道鏡に頼るようになりました。淳仁廃帝を復位させようという勢力もあったようで、廃帝は翌年に淡路を脱出しますが、捕らえられ・・・翌日に亡くなりました。
2018年1月23日火曜日
2018年1月22日月曜日
続日本紀 (4) 平城京の盧舎那仏
奈良と言えば、現代人が真っ先に思いつくのは大仏です。釈迦の身長が一丈六尺(略して丈六、4.85m)という伝説により、立像でも坐像でも、それ以上の高さがあるものを大仏と呼びます。
各地に大仏と呼ばれる大きな仏像がありますが、ほとんどが高さが丈六に満たないか、20世紀に作られ歴史的な意義は希薄なものばかりです。江戸時代までに作られたもので、現存する大仏というと、大きいものとしてはやはり奈良と鎌倉で、より大きいものもありましたが倒壊、焼失しています。
奈良の大仏と呼んでいるのは、東大寺金堂(大仏殿)に鎮座する銅で鋳造され、高さが16mある盧舎那仏坐像のことです。中世に二度火災により再建されていますが、創建当時の部分も一部に残しています。これを作ろうと言い出したのが、何かとお騒がせの聖武天皇でした。
740年、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺(11世紀に消滅)で、聖武天皇は盧舎那仏像に感激したのがきっかけとされています。翌年、恭仁宮で政府直轄の国分寺・国分尼寺建立の詔を出しています。
その中身は、「自分の不徳により、天下泰平ではなくてゴメンね。去年は、諸国に丈六仏像を造り、大般若経を書き写すように指令したら今年は順調だよ。だから、幸せのために、もっと仏教を広めよう。国の華となる、四天王に国を守護してもらう国分寺、仏により罪を許し守ってもらえる国分尼寺を各地に作りなさい」というものでした。
いろいろと小心者で優柔不断、人民に苦労をかける悪者扱いの聖武天皇ですが、この中で「虚らかな場所に建立しなければならないが、人々が行きにくい場所はだめ」と、ちよっと優しい所が見え隠れしています。
そして743年、紫香楽宮にて大仏造立の詔を出しました。今度は、「徳が少ないけど頑張ってるよ。でもまだ足りないので、盧舎那仏金銅像を作ろう。天下の富は全部自分のものだから、国中の銅を使い尽くしても作るぞ。でも、作っただけじゃだめで、難しいけど心をこめること」と言っています。
ここでも、「自発的に仏像製作に参加したいものは誰でも歓迎。役人は、このことで人民を苦しめちゃだめ。増税とかもってのほか」とし、天皇自身としては、けっこう人民を気遣う気持ちはあったようです。
翌年、紫香楽宮近くの甲賀寺で作業が始まりましたが、745年に平城京に還都したため、平城東山の山金里で改めて作ることになりました。この場所が、都の東側の外縁だったため東の大寺で東大寺と呼ばれることになりましたが、実はこのあたりは藤原氏勢力圏なんですよね。しかし、この頃から聖武天皇は体調を崩してしまいます。
さて、大仏作りは大事業ですから、作業は遅々として進まない。地方からの寄付は集まってきてはいましたが、特に金メッキに使用したい金の調達のめどがつかないのも困りものでした。ところが、749年に陸奥国で黄金が初めて産出され献上され、何とかなりそうになってきたのですが、前年に元正太上天皇が亡くなり、聖武天皇はしだいに体力・気力を無くしていき自分と光明皇后の娘で初の女性皇太子であった未婚の阿倍内親王に譲位し、第46代の孝謙天皇が即位しました。
そして752年、ついに大仏の完成、開眼供養の法会が行われることになりました。これは欽明紀の552年に、百済より仏教が初めて伝来して200年目の記念すべき年であり、釈迦の誕生日である4月8日が当初予定されました・・・が、しかし、実はまだこの時点では、大仏殿は完成していませんし、像そのものもやっと形になった程度で、完成と呼ぶにはほど遠い状態だつたらしい。
東大寺の記録では4月9日に聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇が列席し、印度の僧、菩提僊那が筆を持ち眼に墨を入れたとされています。しかし続日本紀には、この大事な会への皇族の出席にはまったく触れられていないし、大事な4月8日を延期したのも聖武太上天皇の様態がよくないためとも言われ、実際には孝謙天皇だけが出席していた可能性が高いようです。
この日、式が終わった孝謙天皇は宮ではなく、大納言藤原仲麻呂の邸宅に帰っしまい、以後そこを住まいとしたということです。まぁ、30代半ばの独身ですから・・・いろいろなことがあるんでしょうけど、このことがこの後の騒乱の伏線になってしまいます。756年、多くの加持祈祷の効も無く、聖武太上天皇は亡くなりました。
2018年1月21日日曜日
大寒
二十四節気は馬鹿にできない。
というのも、いよいよ一年の中で寒さのピークとなる大寒を迎えたわけですが、天気予報では「今シーズン最大の寒波がきます」としきりに説明しています。
異常気象という言葉が普通に使われて驚かなくなってきましたが、確かに突発的に起こることや、平均以上に熱かったり寒かったりすることが増えたということ。
平成最後の年でも、生活に必要な知識が詰まった「暦」の通りに、一年の気候の変化が進んでいきそうです。
そういう意味で、昔のものを馬鹿にしちゃいけないということ。
しかし、大寒が最も寒い時期ということは、ここを過ぎれば「三寒四温」で、しだいに春に向かっていくわけですから、もうしばらくの辛抱です。
2018年1月20日土曜日
続日本紀 (3) 平城京に渦巻く謀略
元正天皇の世は、仏教が勢いを増した時代でした。これは、一つには数年間続く水害・干害により、飢饉が広がっていたとも関係あるかもしれません。さらに頭が痛いことに、九州の隼人、東北の蝦夷らが朝廷に抵抗し反乱を起こします。隼人の鎮圧に向かった将軍は大伴旅人で、ちなみにその子が大伴家持です。
長屋王は、藤原不比等死後、実質的な政権運営を担当していましたが、724年に元正天皇が退位し、首皇子が24歳で皇位を継ぐことになると、状況は一変します。ちなみに元正退位のきっかけは、またもや亀。今度は白い亀が見つかったことです。
首皇子は第45代聖武天皇となり、3年後に男子の基王が誕生します。すると生後一カ月であわただしく皇太子としました。皇位継承権を持つ長屋王の一族へ牽制のために、藤原四家からの意向が強く反映されたものと思われます。ところが、1歳を目前に基王が急死してしまいました。
これは、長屋王が呪い殺したという噂が広がります。そして729年、さらに密かに妖術を用いて国家転覆を狙っているという密告があり、自宅を囲まれ詰問された長屋王は、妃の吉備内親王、子の膳夫王らと共に自殺に追い込まれてしまいました。これを「長屋王の変」と呼んでいます。
事件が収束して、またまた亀です。今度は背に「天王貴平知百年(天皇は貴く平和に百年を知ろしめす)」と書かれていたそうで、これをきっかけに元号を奈良時代の代名詞ともいえる「天平」と改めました。
長屋王を排除することに成功し、藤原四家は順調に力を増していきます。しかし、その数年後に九州から始まった天然痘の流行は平城京にも拡大してきました。737年4月から8月にかけて、藤原四家が全員相次いで天然痘により亡くなり、長屋王のたたりと噂されました。南家は藤原仲麻呂、式家は藤原広嗣が継ぎ、さらに藤原の血統が入る阿倍内親王が皇太子となりました。
さて、そこでやりすぎちゃったのが藤原広嗣です。もともと直情径行型の切れやすい性格らしく、父の宇合からもうとまれていたらしい。その性格から、738年に大宰府に飛ばされましたが、740年に「僧の玄昉と吉備真備が天地災難の根源なので排除すべき」という意見を送り付けてきます。
玄昉は聖武天皇の信が厚くちょっと威張り気味の坊さんで、吉備真備は遣唐使として中国から多くの書物を持ち帰り朝廷の知恵袋になっていた人物。右大臣だった皇親派の橘諸兄は、藤原氏に対抗してこの二人の後ろ盾になっていました。
業を煮やした広嗣は、急場拵えの軍を引き連れ挙兵してしまいます。聖武天皇は何を恐れたのか、伊勢へ避難してしまいます。しかし、広嗣軍の組織力は皆無に等しく、官軍に情報がダダ洩れで、簡単に捕らえられ処刑されました。
事件が決着したのに聖武天皇は平城京に戻らず、数か月の間、まるで壬申の乱の時の天武天皇の行程をなぞるように行幸を続けました。年末に平城京に近い恭仁の地(京都府木津川市)に戻ってくると、いきなり恭仁に遷都を行います。藤原氏色の強い平城京を捨て、皇親勢力を強化するために橘諸兄が計画したものと言われています。
聖武天皇は強引な恭仁京遷都からわずか4年で、さらに難波京(大阪府大阪市)に宮を遷します。この年に天皇の残された唯一の皇子だった安積親王が、原因不明の脚の病により17歳で急死し、またもや藤原氏の陰謀が囁かれました。
天皇は、主だった臣下を難波に残し、自分は紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に移動し、またもや事実上の遷都を行います。しかし、紫香楽宮近辺の山火事(放火?)や地震被害を受けて、最終的に翌745年、平城京に還都したのです。
この6年間の相次ぐ遷都は、連れまわされた元正太上天皇はだいぶおかんむりだったらしい。もともとは聖武天皇が藤原広嗣が攻めてくるのを怖がったからかもしれませんが、とにかく世情が安定しないのは自分の不徳として悩んだ末とも言われています。明解な理由は示されていませんが、聖武天皇はけっこう小心者で何かとくよくよするタイプの性格だったのかもしれません。
いずれにしても、朝廷の財政は困窮し、貴族たちは天皇と皇親派と藤原氏との間のパワーバランスを読み右往左往させられ、民衆も相当疲弊し潜在的な不満がかなり高まったことが想像できます。平城京に戻ったことで、本拠にしていた藤原仲麻呂、その妹である光明皇后の力は急速に増大したことは街がありませんでした。
2018年1月19日金曜日
続日本紀 (2) 平城京と女帝たち
ところが、藤原京は、694年に開いてわずか10年で廃棄されることが決定してしまうのです。708年に遷都の詔がだされますが、「急がないけど、皆が遷りたいと言うし、あっちは四禽の配置が良く、占いでも吉だから」というよくわからない理由。四禽とは、古来中国の風水から来ている地相で、土地の4つの方角を四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)が守るという考え方です。
詔ではさらに、「民に苦労掛けちゃだめだよ。しっかり準備して、後でごたごたにならないようにね」ということで、必ずしもテンションは高くないのが不思議なところです。
どっちにしても、天武後に唐の都である長安をつぶさに見てきた遣唐使らの報告から、藤原京がだいぶ劣るようだということがわかっちゃったようです。大国である唐に負けたくない、あるいはその上をいきたいがために、当時の天皇を中心にした朝廷は、ソフトウェアとしての律令国家を成立させ、ハードウェアとしての都を作りたいと心底願っていたということです。
日本史の時代区分としては、短命だった藤原京までが飛鳥時代で、平城京遷都によって奈良時代が幕開けます。さて、話を元明天皇に戻します。
姉であり、夫・草壁皇子の母親である持統天皇は、草壁の死によって、孫の文武が即位できるまで自分が天皇についたわけです。元明天皇も、息子の文武が亡くなり、その子・首皇子を天皇にすることが、最大の生きがいだったのかもしれません。しかし、藤原宮の建物を解体・運搬するという難作業が進み710年に平城遷都が行われると、関連した様々な激務が元明天皇の心身の疲労はピークに達します。
714年に首皇子が14歳で元服し皇太子となり、ちょうど世にも珍しいめでたい霊亀(左眼が白、右眼が赤、背中に北斗七星などなど)が見つかったというきっかけで天皇をやめると宣言しました。退位の詔で、「気力は衰え、年も取ったし、もう疲れちゃった」と述べています。
平成天皇が生前譲位したいというのは、80歳を超えての話で無理もない。ところが、この時の元明天皇は55歳です。相当、天皇をやっているのが嫌になっちやったんでしょうね。そこで、譲位したのが首皇太子・・・なら話はわかりやすいのですが、何と氷高内親王(ひだかないしんのう)に譲ってしまい、第44代の元正天皇が誕生します。
氷高内親王は、草壁皇子の長女、首皇太子の姉で、35歳、未婚の美女。皇后が天皇に即位することは前例があり、元明天皇の場合の母親が即位するのは異例でしたが、天武天皇の孫でかつ自分の娘とはいえ元正天皇の即位は、その上の上をいく異例中の異例です。この時、元明は理由として「孫である皇太子がまだ若いから」という持統天皇即位と同じ理由を挙げていますが、文武天皇が即位したのは15歳、この時の首皇太子の年齢も15歳ですから納得はできません。
実は文武天皇の后は藤原不比等の長女の宮子で、首皇太子の妃はやはり不比等の三女の光明子ですから、首皇太子はどっぷり藤原一族に浸かった人物です。しかも、父親は皇太子だったとはいえ、天皇にはなっていない人物です。いくら元明が皇位を譲りたいと思っても、相当な抵抗があったものと想像されますし、もしかしたら元明天皇自身による藤原氏に対する抵抗だったかもしれません。
元正天皇、文武天皇の妹である吉備内親王は、天武天皇の高市皇子の子供である長屋王の妃となっていました。元明、元正は長屋王を親王待遇に格上げし、不比等に対抗しうる大納言として政治に参加させました。
720年、藤原不比等が、さらに721年に元明太上天皇が亡くなり、長屋王は政権の中で、天皇に次いで最も力を持つことになりました。一方、藤原氏は4人の子が継ぎ、武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の四家となり、権力の再掌握を虎視眈々と狙っていたのです。
2018年1月18日木曜日
続日本紀 (1) 藤原京の刹那
697年8月17日、即位の宣言が行われます。場所は、天武天皇の構想に始まり、中国の宮を強く意識した藤原京、その中心である持統天皇が完成させた藤原宮の大極殿の前の庭です。
「朝廷」という言葉は、もともとは「朝庭」で、宮の前の庭に臣下が毎朝集められ天皇の詔を承ったり、いろいろな訓辞を受けたことが語源だそうです。
歴代の天皇は、即位すると首都である宮をそれぞれ好きなところに作っていたので、それぞれが大都会として発展はしませんでした。しかし、藤原京は日本で初めて、広大な土地を都市計画の元に恒久的に発展させる目的で作られた都です。一辺5kmくらいの正方形の土地を碁盤の目のように区画整理し、中心にある宮は1km四方の大きさだったと言われています。
701年に国家の基本法典である大宝律令が発効し、聖徳太子に始まる百年間に渡る律令国家への模索が一定の完成を見ました。太上天皇は、夫の夢だった日本国の完成を、その亡き後に引き継ぎ完成させたわけですが、その翌年体調を崩し、いろいろな祈祷も効果なく亡くなりました。
大宝律令では、注目したいのは僧尼令です。すでに仏教は広まり政権も受容していましたが、あくまでも国家を鎮め護るためのものであり、民衆に広がり独自の勢力となることを恐れていたことがわかります。僧尼令では、寺は人を惑わす魔除け、まじないを禁じ、寺の外での布教活動を厳しく制限しました。
また、税制、徴兵制度(防人)についても、細かい規定が設けられていたものの、諸国の元豪族を「地方長官」として国造に任用し、一定の地位を保証したため、権力の二重構造が生じ、完全な中央集権制度にはなりませんでした。
707年、藤原京はまだ全体の完成には至っていませんでしたが、突然遷都の話が出てきます。その年、病に伏していた文武天皇が25歳で亡くなり、母親の阿閇皇女(あえのひめみこ)が元明天皇として即位しました。
またまた、話がややこしいのですが、阿閇皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹です。また、持統天皇の息子、草壁皇子の妃でもあり、その息子の文武天皇の母ということ。
今までの女帝は、皇后が天皇位についたものばかりで、妃がピンチヒッター的な即位とはいえ、天皇になるのは初めてのことで、これには相当な根回しや強権が必要だったと想像します。ここで、力を発揮したのが藤原不比等でした。
不比等(ふひと)は、鎌足の次男で、文武紀に不比等直系のみが藤原姓を名乗り太政官として政権中枢に入り、他は元々の中臣姓とし祭祀のみの担当とされました。不比等は娘を文武天皇に嫁がせ、大宝律令の最終の詰めを行い、さらにこの後に登場する養老律令は不比等が編んだものと考えられています。世の実権は、急速に天皇家から藤原家に移っていくことになります。
2018年1月17日水曜日
記紀より新しい古代
古事記は、神代の話から仁賢天皇まで、つまりオケ・ヲケ兄弟の話までが書かれていて、これは5世紀末までの話でした。日本書紀はもう少し長く、7世紀末の持統天皇まで書かれていました。
記紀の記述は、歴史として全面的に信用するわけにはいかないのですが、最低限日本書紀のみの記述になる6~7世紀については、登場人物の実在性への疑いはだいぶ希薄になったと言えます。歴史的事項についても、それなりに信用できて、現在使われている西暦を当てはめることが可能になりました。
そもそも日本の古代史を勉強しなおしてみようと思ったのは、神社で祀っている「神様」とは何ぞや? という疑問から始まったことで、そのテキストとして始まった記紀読破でした。ところが、読めば読むほど謎が深まる世界でした。それが新しい興味を呼び起こして、過去の限定された話のはずなのに底がまったく見えない事態に陥っています。
日本史の中で古代と呼んでいる時代は、政治的には天皇支配の平安時代までで、武家政治による鎌倉幕府成立(1192年)からは中世となります。ただし、支配者が誰かという実情を考慮して、1100年頃の荘園公領制度の確立をもってして実質的な古代の終焉とするのが、現在の一般的な考え方のようです。
となると、古代史を知るためには、まだ8~11世紀の400年間分、おおよそ奈良時代と平安時代までを勉強しなおさないといけないことになるんですが、奈良・平安になると、今度は仏教史も勉強しなくちゃいけないので、到底きりがない。だけど、持統天皇の後の日本はどうなったんだろうという疑問も湧いてくる。
もう少し新しい時代まで首を突っ込んでみようかと思うのですが、そうなると新しいテキストが必要です。当然、選択されるのは「続日本紀」という書物ということになります。
政府公認「日本の成り立ち昔話」として作られたのが古事記で、公式国史として編纂されたのが日本書紀です。いずれも、だいたい過去のことについていろいろな資料をまとめ上げたレトロスペクティブなもの。ここからは、今からすれば歴史書ですが、当時はリアルタイムに記述された「日記」みたいなもので、記紀に比べると内容の信憑性は格段と高まります。
続日本紀は、だいたい8世紀の百年間のことが書かれています。そして、それに続くのが日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録と続き9世紀までのことを記述した、全部で6つの書物を六国史(りっこくし)と呼びます。
古事記に関する一般書物の量を10とすると、日本書紀に関するものはだぶ少なくなって5くらい。それでも記紀は諸説紛糾する歴史書であると同時に、謎が謎を呼ぶロマンの香り高い文学書としての価値も見いだされています。ところが、それ以後になると、とても読むにはハードルが高すぎる専門歴史書を除くと、一般向け解説本は極端に少なくなります。続日本紀で1くらい、それ以後の物については皆無に近い。
ですから、少なくとも続日本紀を、原典に沿って読み進むみたいな形は到底無理ですけど、ちょうど奈良時代がすっぽり収まるあらすじだけでも追いかけてみようと思います。そこで、探して選んだのが「平城京全史解読 - 正史・続日本紀が語る意外な史実(大角修・著、学研新書、2009年)」というもの。続日本紀の記述の順に沿って、大小の事件を解説していく「あらすじ本」で、新書で量も少ないので読みやすそうです。
日本書紀は通常の読みは「にほんしょき」ですが、続日本紀は当時の読み方に倣って「しょくにほんぎ」と読みます。編年体で全40巻あり、記紀に比べて一つ一つが詳細であることが想像できます。最終的に完成したのは平安時代の797年(延暦16年)で、公卿の菅野真道らによって編纂され、第42代の文武天皇から第50代の桓武天皇までの95年間が記載されました。
もちろん、記紀に比べて詳しくなったとはいえ、続日本紀の時代には知られていなかったこと、意図的に書かれなかったこと、間違って記載されたことなどは多々指摘されています。少なくとも、記紀のように創作して書き加えることはほとんど無いらしいので、そのつもりで多少の資料を加えながら探りを入れてみたいと思っています。
2018年1月16日火曜日
古代豪族考 (4) 有力氏族 其之二
引き続き、力のあった豪族と呼ばれる古代氏族をピックアップしていきます。
6. 三輪氏
奈良県桜井市、奈良盆地の東南にある三輪山は、大国主神の分身である大物主神が鎮座する大神神社のご神体そのものの神聖な山である。五穀豊穣の農業神と病気を鎮める祟り神の性格を併せ持ち、三輪氏はその神宮家として栄えた。一部に、邪馬台国の卑弥呼の鬼道に起源を求める説がある。祟神紀に、疫病が流行り、大物主神は意富多泥古(おほたたねこ)を探し自分を祀るように天皇に伝えた。探し出された意富多泥古を始祖とし大神神社の祭祀権を獲得し、一定の力を保持し続けた。持統天皇の度重なる吉野行に対して、中納言であった三輪朝臣高市麻呂は、収穫を妨げ農民を疲弊させるとして思いとどまるよう進言し対立した。
7. 巨勢氏
奈良県高市郡を本拠とし、6~7世紀に大臣を多数輩出し外交外征で活躍した氏族で、武内宿禰の後裔氏族の一つだが、系図的には不明な点が多い。農業的な不利な地域だが、大和・紀伊・吉野を結ぶ交通要所であったことが力を持った要因とされる。律令制のもとでは武人から文人に転換したが平安時代になると次第に衰退していった。
8. 和珥氏(和邇氏)
孝昭天皇を始祖とする皇別氏族で、春日氏とも言い、奈良盆地東部の天理市和爾町付近を本拠とする。もともとは海人族系とされ、埴輪などの祭祀土器製作、墓の管理などを行っていた。天皇家に妃を出した人数は多いが、それらから天皇は輩出していない。武人として江戸時代まで続いていたようで、詳しいことはわからないが、ある程度の力を維持していた氏族。派生氏族は多く、柿本人麿の柿本氏、小野妹子や小野小町の小野氏、山上憶良の山上氏などは有名。
9. 秦氏
中国の秦国の始皇帝の後裔とされる功満君が仲哀紀に渡来したのが始まりとされ、その子である弓月君が応神紀に数千人(?)を率いて渡来し帰化した。記紀の中では、あまり目立った活躍は無い。しかし、奈良時代以降は経済的には力を持っていたようで、平安京を作る際にはかなり関わったといわれ、太秦(うずまさ)を本拠地としていた。
10. 紀氏
武内宿禰の子である紀角を始祖とし、奈良県生駒郡平群町を本拠とした。姓は初め臣であったが、天武紀に朝臣へ改められた。主として武人として、朝鮮半島での軍事・外交において活躍したが、政権内での位にはもともとは比較的無縁。奈良時代にしだいに朝廷内に地位が上がり、姻戚関係の光仁天皇が即位してから繁栄したが応天門の変以後衰退する。歌人としては貫之が有名。
他にも豪族と呼ばれる氏族はたくさんありますので、挙げていたらきりがない。最低限として、このくらいの有名処はおさえておきたい、というほどのものですが、最後にもう一つ、記紀における最大の謎をはらんだ豪族を忘れてはいけません。それが、物部氏です。
11. 物部氏
日本書紀には、「饒速日命こそが物部氏の祖先である」と明記されています。しかも、この饒速日命は天孫であり、一般的に「天孫降臨」で地上に降り立つ邇邇芸命よりも先に近畿の地を制圧・統治していたことになります。このあたりの事情については、記紀ではまったく触れられておらず、何かの配慮が働いて書かないわけにはいかないが、できることならもみ消したいという意図がくみ取れます。
物部氏末裔は自分の祖先について、記紀の記載には満足できないため、あらため自分たちの出自を主張するために記録したのが「先代旧事本紀」と呼ばれる書で、饒速日命の降臨事情についてはより詳細に書かれています。この書は、学問的には「偽書」の扱いをされていますが、全面的に取り上げている先生もいるし、そうではないとしても部分的には信じられるとする傾向があるようです。
饒速日命については、いずれ整理する必要があると思っていますので、ここではもうしばらく横に置いておき、物部氏についての概略だけノートしておきたいと思います。
物部氏は、天皇家以外で最も長大な系譜を有し、天孫である饒速日命を祖とし、祭祀関係氏族として大王家の伝承を伝える、いろいろな宝物の管理などに携わっていたと考えられ、天理市を本拠として石神神社を管理していた。5世紀末くらいから力を増し、初期ヤマト王権の重責を担うようになった。仏教に対しては排仏派の立場をとり、用明紀の大連となった物部守屋が、蘇我馬子と皇位継承問題で対立し滅ぼされたため以後衰退した。
2018年1月15日月曜日
古代豪族考 (3) 有力氏族 其之一
豪族の中で神別とされる種々の神を祖とするグループについては、「天孫降臨」の話で、天照大御神の孫にあたる邇邇芸命と一緒に天下ったたくさんの天つ神がいたことを思い出します。それぞれの名と同時に、地上に降り立った後何の祖先であったかが明記されています。
天児屋命(あまこやねのみこと) 中臣連らの祖
布刀玉命(ふとだまのみこと) 忌部首らの祖
天宇受売命(あめのうずめのみこと) 猿女君らの祖
伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと) 鏡作連らの祖
玉祖命(たまのおやのみこと) 玉祖連らの祖
常世思金神(とこよのおもいかねのかみ) 神の祭事・政事
手力男神(たぢからおのかみ) 佐那々県に鎮座
天石門別神(あめのいわとわけのかみ) 御門の神
天忍日命(あめのおしひのみこと) 大伴連らの祖
天津無久米無命(あまつくめのみこと) 久米直らの祖
このあたりが、ほとんどファンタジー色の濃い神代の話と世俗との最初の接点になっています。天下った神以外からもたくさんの氏族が派生してくるのですが、これらの系譜は混乱し過ぎてわけがわかりません。
当然、少しでも自分の立場を有利にしたいわけですら、それぞれの氏族は系図を作るときに、自分の出自を高貴なものとしたいという潜在的な希望が働くのは当然です。また記紀編集時のヤマト朝廷内の力関係も配慮されるはずです。
平安時代に作られた「新撰姓氏録」に掲載された氏族一覧は、 群馬県立女子大学北川研究室HP(http://kitagawa.la.coocan.jp/data/shoji.html)にて閲覧できます。この労作データの中を子細に見て行けば、どんな氏族がいてその始祖が何かは朧気に見えてくる・・・はずなんですが、なかなか簡単ではありません。
有名無名を問わず、多くが似たような所に出自があるようで、もう頭が痛くなるだけで、自分専用ノートのようなこのブログで、簡単にまとめるということは到底できない相談という感じです。そこで、記紀で頻出する氏族についてのみ、概略だけ列挙してみたいと思います。
1. 葛城氏
実在が確認されている氏族としては最も古いものの一つ。武内宿禰のこどもの一人に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)という人物がいて、神功皇后、応神天皇の治世に朝鮮半島に度々出兵して活躍した。朝鮮側の記録にもそれらしい人物が登場している。娘の磐之媛は仁徳天皇皇后となり、その後も多くの大王家との姻戚関係を結び、かなりの力を持つようになった。安康天皇が眉輪王により暗殺された時に、眉輪王が逃げ込んだのが葛城氏系の円大臣の宅であったため、雄略天皇により焼き殺され葛城氏は滅亡した。
2. 中臣氏
天児屋命の後裔で姓は連(むらじ)だったが、天武紀に朝臣(あそみ)に格上げ。東大阪付近から本拠としていたようで、垂仁・仲哀紀から登場する。ヤマト王権が拡大していく中で取り込まれ、神と人の間をとりもつ祭祀を担当した。そのため仏教に対しては否定的で、親仏派の蘇我氏と対立し一時衰退するも、皇極紀に登場した中臣鎌足が、後の天智天皇と組んで蘇我氏を滅亡させ、その後の大化の改新の重要ブレーンとして活躍する。鎌足は無くなる直前に「藤原」の氏と大臣の位を賜り、以後藤原氏と呼ばれたが、律令制の下では次第に影を薄くしていった。
3. 忌部氏(斎部氏)
布刀玉命を祖とし、神事を司る氏族。主として各社祭祀に必要な物品を各地から収集・献上していた。天智紀以後、中臣氏が力を増してきたため祭祀権を中臣に独占されるようになり衰退する。平城紀に、末裔である斎部広成が、「古語拾遺」の中で天皇に中臣優遇を見直すように訴えたのが有名。
4. 蘇我氏
蘇我氏は、古代史上、最大の悪役スター一家かもしれません。天皇の名前は知らなくても蘇我入鹿を知らない人はいない。欽明紀の蘇我稲目から頭角を現し、馬子、蝦夷、入鹿までの四代が有名。それ以前は不明な点が多いが、葛城氏との関係があるらしい。本家とは別の傍流も多い。律令制が導入される前に、天皇も凌駕する勢いを持った最後の豪族と言える。早くから親仏の姿勢を見せ、馬子は厩戸皇子と共同で朝廷を牛耳っていた。有名な石舞台古墳は馬子の墓と言わりている。入鹿の目に余る横暴振りは反感を買い、ついに乙巳の変を引き起こし、蝦夷共々蘇我氏は突然消えてしまう。
5. 大伴氏
雄略紀、おそらく5世紀半ばから 大王直属の軍の指揮官として登場する。特に目立つ活躍は、天皇家の血統が途切れる危機の時に、各地を探し回って継体天皇を即位させた立役者が大伴金村連。蘇我氏全盛期には格下げにあったが、その後再び力をつけ、奈良時代には名門貴族に復権し、中には万葉集編纂に大きく関わる大伴家持のような文人も輩出した。平安時代になって、応天門の変で事件の黒幕として流罪になり、大伴氏は消滅した。
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