2017年12月12日火曜日
史実の中の天皇記
一般的な日本の歴史年表は、次のように時代を分けています。
政治的・文化的な年代分類
旧石器時代 10万年前~
縄文時代 1万年前~紀元前3世紀 縄文土器
弥生時代 紀元前3世紀~3世紀 稲作始まる 集団の形成
古墳時代 3世紀~6世紀末 ヤマト王権の確立
飛鳥時代 6世紀末~ 聖徳太子、大化の改新
奈良時代 710年~ 平城京 記紀、風土記、万葉集
平安時代 794年~ 平安京 源氏物語、枕草子
鎌倉時代 1185年~ 鎌倉幕府 武家政権
室町時代 1338年~ 前半は南北朝時代、後半は戦国時代
安土桃山時代 1575年~ 織田信長と豊臣秀吉
江戸時代 1603年~ 江戸幕府 1853年黒船来航以後を幕末
明治時代 1868年~
大正時代 1912年~
昭和時代 1926年~
平成時代 1989年~
発展段階による年代分類
原始
古代 3世紀? 5世紀? 7世紀? 国家形成
中世 11世紀後半~ 荘園制度
近世 16世紀後半 太閤検地
近代 幕末または明治維新~終戦
現代 終戦後~ または 高度経済成長終了以後(バブル崩壊後)
これで、日本の歴史全体を・・・なんて大それたことは考えていません。あくまでも日本古代史を知るための俯瞰図みたいなもの。古事記を一通り読んだところで、今度は人代を中心に史実との関連を検討してみましょう。
とにかく、日本列島で、少なくとも人の痕跡として認められる最も古いものは約4万年前の石器です。もう少し古いかもしれないけど、(例の捏造事件発覚により)数十万年前ということはありません。
縄文から弥生の変化は、かなり大きな文化的な変革があり、稲作文化をもたらした朝鮮半島経由の大陸人の大量の渡来が大きく関わっていると考えられています。
縄文人が次第に弥生人になっていくことも否定できませんが、より巨大な先進性のある集団である弥生人により、縄文人は征服され、あるいは当時の辺境であった南九州や近畿へ追いやられたのかもしれません。
ただし、「騎馬民族征服王朝説」という有名な話がありますが、これは現在はほぼ否定されています。それほどの急激な変化ではないと考えられています。
紀元0年頃以降、弥生後半には地方単位の「国」が出来上がってきて、特に朝鮮半島との往来がしやすい九州北部が、より強力な力を持つようになります。教科書にたいてい掲載されている倭奴國金印は、「後漢書」によれば紀元57年に光武帝より与えられたもので、福岡圏志賀島で発見されています。
2世紀ごろに中国の歴史書、後漢書、三国志などの海外の史料から、倭国大乱の時期があったことが知られています。つまり、力をつけてきた地方豪族が互いに権力争いを行い、大陸側から見ると倭国、つまり日本の代表が誰なのか判断できなかったということです。
この時期に、近畿を中心に古墳が形成され始めたことは、しだいに日本の政治・経済的な中心が九州から近畿へ移動していったことを示しています。九州から勢力を拡大してきた弥生人が、縄文人が残る近畿を制圧したという考え方もあるようです。
これを記紀の記述に当てはめると、最初の文化的な人々(それをあえて神と呼ぶなら)が登場するスタートは弥生時代以後と考えるのが自然のように思います。ヤマト王権は、九州に始まり出雲付近までも勢力下に従えた集団の一つが始まり(天孫降臨?)だったのかもしれません。
彼らは、より経済的流通性に長けた東の地域への進出を狙うことになります(神武の東征?)。既存勢力を撃破して、ヤマトに初めての統一国家を作ることに成功します。これが魏志倭人伝でいうところの、(倭武命のようなスーパースターの活躍により)大乱を制して邪馬台国が倭国を統一という話とかぶってくることは避けられそうもありません。
魏志倭人伝から推定される卑弥呼が亡くなった年は、247年または248年です。邪馬台国はどこにあったかの論争はいまだに決着していませんが、スタート地点と思えば九州説ですし、ゴール地点と思えば畿内説ということでしょうか。
日本書紀の編者はおそらく畿内説の立場をとっていて、神功皇后を卑弥呼であると暗に示しています。ただし、日本書紀によれば、仲哀が亡くなるのが200年で、神功が摂政として采配を振るいます。そして、亡くなるのは269年ですから矛盾はしています。
さて、その次に記紀年代を特定するための重要な項目が「倭の五王」と呼ばれています。中国の複数の「史書」に登場する倭国の5人の天皇のことで、5世紀の宋の時代、武帝、文帝が活躍する時代です。宋の建国は420年、滅亡は479年です。412年~478年の間に讃、珍、済、興、武の5人の王との交流が記述されています。
この五王が誰なのかは、いろいろな説があり確定はしていません。それぞれが履中、反正、允恭、安康、雄略とする説、応神、仁徳、允恭、安康、雄略とする説が有力のようです。ただ、すべての天皇の実在が確定しているわけでもありません。
日本書紀の年代記載を信じるならば、各天皇の即位の年は、応神270年、仁徳313年、履中400年、反正406年、允恭412年、安康454年、雄略457年です。ちなみに続く清寧480年、顕宗485年、仁賢488年、武烈499年です。
とにかく、日本史の中では「謎の4世紀」とか「謎の5世紀」という言い方はよく出てくる、最も重要なのによくわからない時代。日本の国のそもそもの成り立ちの話ですから、できればタイム・マシーンとかできて確認できればいいんですけどね。
2017年12月11日月曜日
古事記 (20) 血統を守ったオケ・ヲケ兄弟
雄略天皇による血の粛清の結果、後継ぎがいなかった息子の清寧天皇の死去により、皇位継承者が不在の緊急事態が発生しました。
履中天皇には、皇子(雄略天皇からみると従兄弟)が二人、皇女が一人いました。皇子はいずれも雄略天皇により謀殺されましたが、兄の市辺忍歯別王(イチベノオシハワケノミコ、日本書紀では磐坂市辺押羽皇子)には、二人の皇子がいて兄を意祁命(オケノミコト、オケと表します)、弟を袁祁命(オケノミコト、ヲケと表します)といい、父が殺された時逃げ延び、一般人に紛れて隠れて生活をしていました。
清寧天皇が亡くなって、天皇不在となったため市辺忍歯別王の妹、忍海郎女(オシヌミノイラツメ)、別名、飯豊王(イイドヨノミコ)が臨時に政権を維持しました。
ある時、播磨国の国守が招かれた宴席で、少年兄弟が舞を披露しました。兄に続く弟は舞いながら「私たちは市辺忍歯別王の子である」と歌います。国守は驚いて、すぐに二人の発見を飯豊王に知らせました。
意祁命も袁祁命も、互いに天皇になることを譲り合いましたが、兄は「名を明かし復権できたのは弟の功績」とし、弟が第23代の顕宗(けんぞう)天皇に即位し、かろうじて天皇家の血統が断たれることが回避できました。
このエピソードは、日本書紀では多少の食い違いと、より詳細な裏事情が書かれています。まず、飯豊王は億計王・弘計王(意祁命・袁祁命)の叔母ではなく妹(か姉?)になっています。二人が発見される宴席があったのは清寧天皇存命中のこと。
弟の弘計王は、「乱から数年がたちそろそろ身分を明かそう、明かして抹殺されるかもしれないが、卑しい身分で死んでいくよりまし」と兄の億計王に言います。兄も承諾し、宴席での舞と歌になるわけで、知らせを聞いた清寧天皇は世継ぎがいなかったため、喜んで二人を迎い入れました。
清寧天皇が亡くなって、皇太子だった兄の億計王は弟が即位すべきといいはり、二人の間で譲り合いが始まります。しかたがなく、飯豊王は忍野飯豊青尊(オシヌノイイトヨノアオノミコト)として暫定政権を維持しましたが、1年経たないうちに亡くなり、ついに兄に説得された弟・弘計王が天皇に即位したということです。
ちなみに飯豊王に「尊」をつけ、亡くなったことを「崩じた」と記してあるので、事実上、初の女性天皇と認識されていたことになりますが、代を数える場合からは除かれています。
さて、神代から続いてきた古事記の最後を飾る大きなエピソードが、意祁命・袁祁命、二人による雄略天皇への復讐です。
顕宗天皇が即位してしばらくして、父親の市辺忍歯別王の歯は押歯(山形に削った歯?)だったことを頼りに、兄弟は父の骨を見つけ出し丁寧に埋葬しました。
次に、父の仇討ちとして雄略天皇の墓を壊そうということになり、兄の意祁命が「それは人にやらせてはいけないことだから、自分がやって来る」と言いでかけていきます。
意外に兄が早く帰って来たので、わけを聞くと、「父の仇ではあるが、我々の親族でもあり、天下を治めた方であるので、それを破壊したら後世に汚点を残す。ですから、少しだけ掘り返すだけにして侮辱するだけにしてきた」との説明に弟の顕宗天皇は納得しました。
日本書紀では、さらに「息子の清寧天皇には世話になったのだから」という理由も加えて、少しだけ掘り返すこともせず、大人の対応で事を収めています。
顕宗天皇は38歳で亡くなり世継ぎはいなかったので、兄の意祁命が第24代の仁賢(にんけん)天皇として即位しました。仁賢天皇は、清寧天皇の異母妹である春日大郎女(カスガノオオイラツメ)を妃とし、息子の小長谷若雀命(オハツセノワカササギノミコト)が、後に即位して武烈天皇になりました・・・という記述で古事記は終わります。
ドロドロした権力闘争の後、御家断絶の危機を乗り越え、兄弟を通して家族愛、天皇崇拝が何よりも重要であることを高らかに示しての終了です。
とりあえず、抜けている話もありますけど、重要処はだいたいおさえたと思います。日本書紀については、全30巻のちょうど半分にあたります。古事記を通して読み終えると、神代のファンタジーから、しだいに歴史上の事実に近そうな話になっていきますが、それでも編纂上、いろいろな意図的な創作・改変は多々あることは容易に想像できました。
日本古代史を知るために古事記は重要な書物ですが、考古学的知見も含めてそれ以外の史料も不可欠であることもよくわかりました。古事記には、編者が知らなかったのか、書き忘れたのか、意図的に隠したのかわからない事柄がたくさんあり、日本書紀をはじめいくつかを並行して勉強していかないといけません。
でも、知れば知るほど実際の歴史の事実は混沌として、謎が謎を呼ぶことになるんですね・・・・いやはや、終わりが見えてきませんね。
中つ巻以後は天皇家の歴史が中心になるため、天皇系図は理解する上での必須資料です。最も信頼すべき公式の系図は宮内省により公開されています。
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/img/keizu-j.pdf
2017年12月10日日曜日
古事記 (19) 雄略天皇の汚点
允恭(いんぎょう)天皇の皇子、穴穂御子(アナホミコ)は皇位を継承することなっていた兄の木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)を自殺に追い込み安康(あんこう)天皇として即位。古事記にはそれ以上の話は無く、安康天皇の弟、大長谷若健命(オオハッセワカタケノミコト)が第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇に即位します。
最初のエピソードは、ちよっと天皇の傲慢なところが出ています。山道を通っていると、立派な家を見つけて「自分の御殿に似ていて生意気」と言うと焼き払おうとし、家主に土下座をさせます。
ある時、老女がやってきて「お仕えすることはもう無理」と言うので理由を聞くと、昔にたまたま見初めて「迎えを寄越すから待っていろ」と声を掛けたのを80年もの間忘れていたという話。また、討ちそこなった手負いの猪を恐れて木に登って逃げたなど、比較的呑気な話が続きます。
山で、自分と御付きの者たちとそっくりな集団と出逢い怒りますが、相手が善い事悪い事を一言で判断できる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)であるとわかると、平伏し礼を尽くします。
124歳で雄略天皇が亡くなると、息子の白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)が第22代の清寧(せいねい)天皇となりますが、妻子がいなかったため、ついに天皇の血族が途絶える危機に直面します。
以上が古事記の記述。好色で呑気な雄略天皇像が浮かび上がってきますが、実は大悪天皇とも呼ばれる雄略天皇の本当の怖さは日本書紀でしかわからない。比較的、親から子へ自然に継承されてきた皇位が、力によって奪取されるドロドロの権力闘争(ある意味、王権の成熟)が展開される様子が書かれています。
允恭天皇は皇后との間に、木梨軽皇子(キナシカルノミコ)、名形大娘皇女(ナガタオオイラツメノヒメミコ)、境黒彦皇子(サカイノクロヒコノミコ)、穴穂皇子(アナホノミコ)、軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)、八釣白彦皇子(ヤツリノシロヒコノミコ)、大泊瀬稚武皇子(オオハツセワカタケルノミコ)、但馬橘大娘皇女(タジマノタチバナノオオイラツメノヒメミコ)、酒見皇女(サカミノヒメミコ)という5人の男の子と4人の女の子をもうけました。
長男の木梨軽は長女の軽大娘となんと禁断の恋、まさに同父同母の近親相姦の罪を犯します。そのため、允恭天皇の葬儀が終わってから、安康天皇となった穴穂皇子は逃げ隠れた木梨軽を取り囲み自害させます。
そして弟の大泊瀬稚武の嫁に、父允恭天皇の異母兄弟である大草香皇子(オオクサカノミコ)の娘を迎えようと使者を遣わせます。大草香は承諾しましたが、使者が献上された宝を横取りし、拒否されたと嘘の報告をしました。安康天皇は怒って大草香を攻め滅ぼし、妻の中蒂姫(なかしひめ)を自分の妃、娘の幡梭皇女(はたひのひめこ)を大泊瀬の妻にしました。この時、中蒂姫は息子の眉輪王(マヨワノオオキミ)を連れてきます。
眉輪王は父の仇である安康天皇を刺し殺し、その報告を聞いた大泊瀬は裏で兄弟が関与していると疑い、まず八釣白彦を殺し、境黒彦も追及しました。境黒彦と眉輪王の二人は逃亡先で焼き殺されます。さらに安康天皇が後を託そうとしていた履中天皇の子供である磐坂市辺押羽皇子(イワサカノイチベノオシハノミコ)を、狩に連れ出し射殺し、その弟の御馬皇子も捕らえて処刑しました。
これは、もう完全に血の粛清というべき、父の仇討ちに名を借りた皇位継承権利者の大量虐殺です。皇室の万世一系が真実ならば、間違いなくその血筋の最大の汚点と言えます。
雄略天皇の後は、清寧(せいねい)天皇が第22代に即位しますが、磐城皇子(イワキノミコ)と星川稚宮皇子(ホシカワワカミヤノミコ)という二人の異母兄弟がいました。子は親を見て育つもので、この二人は(清寧天皇の指令により?)後に焼き殺されてしまいます。
清寧天皇は元々の名は、白髪武広国押稚日本根皇子(シラカミノタケヒロクニオシワカヤマトネコノミコト)という名で、生まれながらにして白い髪をしていて霊的な力を持っていたと書かれています。即位したのが23才、5年後に若くして亡くなっています。医学的には、アルビノと呼ばれる先天性の色素欠乏で、皇室の近親婚が続いたことの遺伝的障害が関与している可能性は否定できません。
いずれにしても、雄略天皇・清寧天皇の親子で皇位継承者をすべて排除してしまった結果、天皇家を継げるものがいなくなってしまうという大きな危機が訪れたことは古事記でも日本書紀でも同じ。権力闘争により自ら招いたこととはいえ、何とも困ったことになりました。
2017年12月9日土曜日
古事記 (18) 仁徳天皇と三人の息子
大仙陵古墳は大阪府堺市にある、日本で最も有名な最大級の古墳です。小学校の社会科以来、まず写真を見たことが無いという日本人はいないのではないでしょうか。
航空写真では、上から見ると大きな鍵穴のような形の、典型的な前方後円墳で、大きさは840m×654mです。出土品から、おそらく5世紀後半に作られたものと推定されています。
仁徳天皇陵とも呼んでいて、むしろこの別名の方が有名ですが、実は仁徳天皇の墓と「推定」されているだけで、本当に埋葬されているのが誰かは確認はされていません。
さて、古事記はいよいよ下つ巻に入り、ここからはおそらく実在性の高い天皇記が続きます。最初に登場するのが仁徳天皇で、ここだけはほのぼのとした雰囲気なのですが、以後は、天皇家内の血生臭い権力闘争が続くことになり、いかにも「歴史」らしい話が続くことになります。
仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇の二人の息子、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)と大雀命(オオサザキノミコト)は皇位継承を譲り合っていましたが、ウジノワキノイラッコの急死によりオオサザキが第16代の天皇に即位しました。これは西暦では日本書紀の記述を信じるならば、313年のことです。
仁徳天皇は、治水工事や開墾を奨励し、港を作り内陸に堀をつなげ水上交通の利便を図りました。そして、国に煙が立ち上っていない様子を見て、民は困窮していると考え、三年間の税と労役を免除しました。自らも、宮殿の雨漏りくらいは我慢したりしたおかげか、また煙が経つようになったということです。ですから仁徳天皇の時世を「聖帝(ひじりのみかど)の世」と呼びます。
ある日、天皇は吉備の黒日売(くろひめ)を一目惚れで召し上げましたが、本妻の超嫉妬深い石之比売(イワノヒメ)に追い返されてしまいました。天皇は淡路島に行くことにして、そこからクロヒメと密会デートをしたりしています。
さらにイワノヒメが宴席用の食器を調達しに木国にでかけると、その隙に別の女性を宮殿に上げてしまいます。それを知ったイワノヒメはせっかく用意した食器を海に投げ捨てて別邸にこもってしまいました。天皇は、使者を使わせていろいろと歌にのせて許しを請うという話。
それでも懲りない天皇は・・・いろいろあって、83歳で崩御し、百舌鳥(もず)の耳原、つまり現在の大仙陵古墳と考えられている場所に埋葬されました。
日本書紀には、ウジノワキノイラッコは皇位を譲るために自殺したと書かれていますが、真相は闇の中。さらにいくつもの恋バナが書かれていて、仁徳天皇は善政を施す好色能天気人間という感じ。
仁徳天皇とイワノヒメの間の長男が、第17代の履中(りちゅう)天皇で、次男が第18代の反正(はんぜい)天皇、そして三男が第19代の允恭(いんぎょう)天皇となります。
古事記では履中、反正天皇の二人のことは省略されています。日本書紀によれば、それぞれ即位して6年、5年で亡くなっています。允恭天皇については、氏族の呼称が乱れているため、それを正しく定めることをしたというのが数少ない業績として書かれています。いわゆる戸籍調査をして、氏族を明確にしたということでしょう。
允恭天皇崩御後、長男の木梨之軽太子(キナシノカルヒツギノミコ)は皇位を継承するはずでしたが、粗暴なうえ同母妹とできてしまったため四男の穴穂命(アナホノミコト)が人気急浮上してきます。両者は武器を揃え内乱直前で、アナホノミコト側が相手を捕獲することに成功し、兄と妹を流刑にし、二人は自ら命を絶ちました。
アナホノミコトは即位して、第20代の安康(あんこう)天皇となりますが、即位後の話は日本書紀のみ。安康天皇は、仁徳天皇が日向の髪長比売(かみながひめ)との間に生まれた大草香皇子(オオクサカノミコ)を誤解から殺してしまいます。そして大草香皇子の妻であった中蒂姫(なかしひめ)を皇后に、大草香皇子の妹である幡梭皇女(はたひのひめみこ)を自分の弟である大泊瀬皇子(オオハツセノミコ、後の雄略天皇)の妻に迎えます。しかし、即位してわずか3年で中蒂姫の連れ子、眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されてしまいました。
2017年12月8日金曜日
2017年12月7日木曜日
古事記 (17) 天之日矛伝説
古事記で、大雀命(オオサザキノミコト)が仁徳天皇として即位した、という記述の後に突然出てくるサイドストーリーが天之日矛(アマノヒボコ)の話。昔、新羅の王子であるアマノヒボコが海を渡ってきました・・・と、突然に始まる内容は次のような話。
新羅の阿具沼(おぐぬま)の岸辺で、昼寝をしていた女の陰部に太陽の光が射して赤玉を産み落としました。その様子を見ていた男が玉をもらい受け、通りかかったアマノヒボコに贈り物としました。
すると玉は美しい乙女に変身し、アマノヒボコは妻とします。しばらくは甘く楽しい結婚生活だったのですが、しだいにアマノヒボコは傲慢になっていき、ついに大きな夫婦喧嘩になりました。
「わたくし、実家に帰らせていただきます」と言い残して、船に乗って日本に渡り難波に住んで阿加流比売(アカルヒル)と呼ばれるようになります。アマノヒボコは、すぐに八つの宝(玉津宝)を持って追いかけてきましたが、難波では渡し場の神に邪魔されて上陸できず、近くの多遅摩国(たじまのくに)に住みつきました。
アマノヒボコは多遅摩で再婚して子孫を残しますが、六代目にあたるのが高額比売(タカヌカノヒメ)で、息長帯比売(イキナガタラシヒメ)、つまり神功皇后のお母さんだということです。
日本書紀では、もっと前の垂仁天皇の3年目に天日槍が帰化したとして登場します。垂仁天皇87年目に、天皇が「新羅の王子であるアマノヒボコが但馬にもってきた宝を見たい」とアマノヒボコの孫にあたる清彦に献上させますが、清彦は八つの宝のうち出石(いずし)の小刀だけは隠しました。その後小刀だけが消えてしまい、清彦の元に戻り、そしていつの間にか清彦の元からも消えて淡路島に祀られていました。
その他にも播磨国風土記にも、各地の地名の由来にアマノヒボコが度々登場してきますが、朝鮮半島から渡来した人々代々を総称するような名称としてアマノヒボコという呼び名が用いられたと言われています。
このアマノヒボコ伝説は、自分の勝手な想像かもしれませんが、神功皇后の正当性の説明なのかなと思います。天皇ではないのに記紀では別格扱いされる皇后ですから、相当皆を納得させる話が必要です。
皇后の祖先は、新羅の王子であり高貴な人であること。最初の妻は太陽信仰から生まれたもので、新羅から太陽が昇る方向、つまり日本出身であるという説明。神功皇后が新羅に攻め入ることも、本来新羅王の一族の末裔として問題ないことを示したいということではなかったかと考えられます。
但馬国一之宮である出石神社はアマノヒボコを祀り、古事記編纂時にはすでに渡来した人々が自分たちの繁栄を祈念して創建されていたと考えられているそうです。
2017年12月6日水曜日
横濱家 @ 川崎・犬蔵
こちらも何度も登場していて、自分としては「家系」を食べたい時のホームという扱いの店。
30年近く前に本厚木から横浜市青葉区に引っ越してきて、初めて醤油豚骨の味に接したのがこの店で、衝撃的に美味しかったのは記憶に新しい。
今回は、ニラもやしラーメンです。
大量の・・・って、たぶん普通にスーパーで売っているもやし一袋分はあると思いますが、ニラ入りもやし炒めがのっかっている。
これだけでもご飯二膳くらい行けちゃう感じなんですが、チャーシューなどの肉は無しですから、どうしてもと思う方は追加のトッピングで選択。
今じゃ麺の難さやスープの油の量をリクエストできる店は珍しくなくなりましたが、自分が知る限り横濱家がその最初の店。しかも、このニラもやしは、スープの味を醤油と塩の二種類から選べます。
でもって、塩にしてみました。
ずずず・・・っとまず、スープを味わってみると・・・あー、なるほど。そういうことね。
横濱家のスタンダードの醤油豚骨味から単純に醤油をマイナスした感じ。白く濁る、博多系の豚骨のだしとはだいぶ違います。
悪くはないんですけど、比較的あっさりとして、もしかしたら物足りないと感じる人もいるかもしれませんね。自分的には嫌いではありませんが。
2017年12月5日火曜日
紅葉から落葉
紅葉には1日の気温の高低さが大きくなることが重要ですから、夜間に気温が下がりやすい高地等が紅葉が早くに訪れ、なおかつ見事です。
何しろ「秋の夕日に照る山紅葉」と歌われるくらいですから、代表的な秋の景色ということになります。
都会のあたりでは、紅葉は秋というよりは初冬の風物で、例年は今頃が一番見頃であるのが普通。
・・・ですが、どうも今年は11月が寒い日が多かったせいか、中途半端に色づく樹々が先行してしまい、あまりまとまって美しさを感じられなかったように思います。
紅葉するのは葉の中にアントシアニンが蓄積されるからで、これは来年の春に新しい芽を出すための植物の大事な仕組みであり、落葉する前の儀式みたいなもの。
早くにまばらな紅葉が始まった今年は、落葉も早くから始まったようで、本格的に色づいたところも、ボリューム不足は否めません。
暦を意識するようになり、またカメラをいつも持ち歩くようになったこの数年は、季節の変化にはかなり注意が向くようになったためか、今年の「里の紅葉」はけっこう残念な感じです。
2017年12月4日月曜日
古語拾遺 ~ 広成さんのぼやき
昔々、まだ文字が無かった頃は、身分の高低や年寄り・若者の区別なく、すべての人が古い時代の話を語り継いで、誰もそれを忘れることはありませんでした。
文字が使われるようになってからは、口頭伝承をしなくなり、表面的に飾り立てる文章がもてはやされるようになり、昔のことを語る老人(やその内容)を嘲笑うようになりました。今では、人々の興味は新しいものばかりに走り、昔から伝わることなど忘れ去られています。
・・・というのは、自分が言っているわけではなく、斎部広成(いんべのひろなり)さんの意見。広成さんは80歳を超えたご老人で、今のご時世をひどく憂いて嘆いています。
そこで、これだけは後世にも遺しておきたいことを、書きとどめた文章の始まりがこういうことだったというわけ。広成老人が、これを書いたのは大同2年・・・って、西暦807年のこと。
これは「古語拾遺(こごしゅうい)」と呼ぶもので、日本古代史に関連した重要な古文書の一つとして記紀を勉強して行く上で欠かすことができない資料の一つです。
第50代の桓武天皇が806年に亡くなり、第51代の平城天皇が即位した時に、朝廷祭祀に関しての意見を斎部広成に求めたことに対する返信として漢文で書かれました。
古事記・日本書紀が成立してから、すでに100年近くが経過していて、藤原一族の中臣氏の圧倒的な力の前に、もともと祭祀の重要な役割を分担してきた斎部氏(忌部氏)は徐々に隅に追いやられている状況でした。
そこで氏族の長老であった広成翁は、主として日本書紀の記述を踏まえ数々の不満をぶちまけて、祭祀の役職を担当する正当な権利を主張するという、ある意味痛快な一巻を記したというわけです。
この始まりの文は、そのまま現代にも通用される内容で、年寄りの繰り言、ただのぼやきと言ってしまえばそれまでですが、昔からの言い伝えの重要性は忘れてはいけないということを強調しています。
後半では、主として伊勢神宮における朝廷祭祀の役どころの由来を列挙し、平安の世における問題点11項目を列挙しています。これらの文の中から、記紀だけでは見えてこない、つまり記紀編纂時は採用されなかった伝承の一部が見え隠れしてきます。例えば、記紀では天孫降臨以後、ヤマトタケルの東征で急に伊勢神宮から草薙剣が再登場しますが、何故伊勢に剣があったのかの理由は古語拾遺で明らかになります。
広成はあとがきで、「神代の伝説は荒唐無稽でそのまま信じることはできないが、現在行われている行事などの起源として無視はできない」、そして「昔からの伝承をないがしろにすると、未来の人々は現代(平安時代)を、自分たちが古代を見るような気持ちで見ることになる」と、非常に率直な気持ちを語っています。
もっとも、広成は、記紀を含め文字に記録されたことが、様々な思惑が入り込んで真実を伝えていないことを批判したように、古語拾遺も斎部氏の重要性を強調するあまりに、同様の思い込みがあることは否定できません。
とにかく、広成さんはとても素直ないい人で、正直、勤勉な人生を送ってきた方なんだろうと思います。だんだん肩身の狭い地位に追いやられていく状況に我慢を我慢を重ねてきましたが、天皇より許可が出て、ついに胸の内に長年貯めていたもやもやを一気に爆発させてしまったんだろうなと思います。
2017年12月3日日曜日
キリスト教徒じゃないけど待降節
キリスト教の1年は、今日から始まります。
キリストの誕生を願って、静かに4回の日曜日をじっと待ちます。この期間は待降節 (advent) と呼ばれます。
想像してみましょう。
しんしんと降る雪の夜に、暖炉にはわずかな薪から小さな炎が立ち上がっています。
テーブルの1本ロウソクの灯のもと、静かに家族が身を寄せ合って・・・
キリストが無事に誕生し、世界に光が射すことを静かに祈っている・・・
・・・なんてね。
少なくとも、ツリーを飾り立て、ライトアップで喜んでいる場合じゃない。
ヨハン・セバスティアン・バッハは、ライプツィヒの聖トーマス教会で、毎週日曜日に礼拝のための音楽を演奏していました。
でも、待降節は別。原則として音楽は禁止。毎週、超忙しいバッハもこの期間は、少しだけ息が抜ける・・・わけがない。
だって、クリスマスが来たら、そこから新年まで怒涛の礼拝が続くので、待降節の間にバッハは大量の音楽を用意しておかないといけない。
お気の毒です。せっかくですから、バッハのご苦労の賜物、教会カンタータを1年を通して聴いてみるのもいいと思いますよ。今なら間に合います。
2017年12月2日土曜日
日本書記の研究史 (超大掴み)
日本書紀の研究は、成立後から比較的断続的に行われていたようです。その流れを、ごくごく簡単に・・・というか、ほとんど5秒間スポットCM的にまとめておきます。
日本書紀は、平安時代までは朝廷内で広く読まれ、関係者は国の成り立ちと漢詩を勉強する教科書として、講義を受けていました。紫式部も、時の皇后の先生役をしていたそうです。
鎌倉時代になると、神事の祭祀を行う役職に会った卜部(うらべ)氏が、主として日本書紀の研究を一手に行うようになり、現在も卜部系本と呼ばれるいくつかの写本が日本書紀の定本として利用されています。
また、いろいろな注釈本も出ていて、中には神仏習合の影響により寺の僧侶たちによる写本・研究も登場するようになり、神道の原典として重要性が増していきます。ですから、この時期から、主として重視されたのは神代の二巻と神武天皇の巻でした、
元禄時代になり国学が台頭してくると、次第にそれまでほとんど忘れられていた古事記を見直す動きがでてきます。そのリーダーたる本居宣長は、漢文の日本書紀は、日本語から外国語に翻訳されたもので内容が変化していると考えました。
ここから、ほとんど忘れられていた古事記が復権し、江戸時代は日本書紀の方が肩身の狭い思いをさせられたようです。
近世になり、本初期の皇室の基礎として再度重視されるようになり、いわゆる紀元節に代表される日本書紀の内容を、愛国教育の一環として神聖視して広めるようになりました。
大正になり早稲田大学の津田左右吉による、天皇支配の正当化のための創作・脚色であるという記紀批判は画期的なものでしたが、当然皇室を侮辱したものとして不敬罪に問われることになります。
終戦後は、それまでの反動もあり津田学説は大いに歓迎され、戦後古代史の歴史学的な規範として最重要視されるようになりました。その結果、天皇家の「万世一系」に疑問が投げかけられたり、神武~欠史八代のような天皇の存在が疑われような学説も登場し、現在でも通説として認められている所です。
現代では、逆にそれらを批判する勢力も数多くあり、考古学的な発見により、記紀の記載の正しさが証明される事例も少なからずあります。いずれにしても、何しろ古代のことは、ほとんどが事実であると確認不可能で、推論の域を脱するものは稀です。
さらに主観のみであまりに想像の世界だけの話、精神論的な話、さらには独特な宗教観に基ずく話などが、たくさんの怪しげな説が混在して語られているというのが現状です。
素人からすると、大変に混沌とした状況になっていると言えます。とにかく、少しでも客観性の高い論説を見極めないと、何が何だかわからないことになりますね。
2017年12月1日金曜日
日本書紀の成立
そもそも、日本書紀って何? という基本的な話。
一言で言うなら、神代から第41代の持統天皇までの歴史を、国家事業としてまとめたものです。一般的に言われているのは、古事記は比較的物語風の国内向けに大和言葉を漢字で表記したもので、日本書紀は日本の正史として外国に向け本格的な漢文体で書かれたもの。
「記「は書き記したものということで、伝承などをそのまま記録したもの。「紀」は物事の流れやきまりに則って書かれたもので、順序だてて正確に書かれたものということ。
推古天皇の時代の西暦620年、聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」と「国記」を編纂していますが、中臣鎌足らによるクーデター、乙巳(おっし)の変の時に焼失してしまいました。
その後、天武天皇は古事記と日本書紀の編纂を指令したとされていて、数十年のかかって712年に古事記全三巻が、720年に日本書紀全三十巻が完成し、もともとのタイトルは「日本紀(やまとふみ)」だったと考えられています。
完成した年は、古事記は序に書かれた日付から推察されるもので、いろいろと諸説がありますが、日本書紀にはどこにも完成年は書かれていません。しかし、続編にあたる「続日本紀」の720年の部分に、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりのみこ)が編集長として元正天皇に呈上したと書かれていることで確定しています。
内容的には、古事記と共通の部分が多く、天地開闢以来の神代の時代から始まり、各天皇紀をそれぞれ章立てているわけですが、神話部分については天皇へと直接つながってくる部分が詳しく、古事記では魅力的な出雲関連の話などはかなりはしょっています。
何年何月にだけが何をした、というような淡々とした文章(編年体)が並び、また、国内・国外の他の文献からの参照・引用もかなりあって、より正確性を重視する姿勢がうかがえますが、当然その分、記録としての特徴が表に出ていて文学的な面白さは少ないと言わざるをえない。
また年代順に書かれたわけではなく、いろいろな部分が同時進行あるいは、逆時系列で書かれたと考えられていて、また実際の執筆も漢文ネイティブの帰化人だったり、漢文が得意な日本人だったりと複数の人がかかわったようです。
江戸時代までほとんど話題にならなかった古事記と違って、日本書紀は完成後は宮中行事として、日本書紀の講義が何度か行われました。また写本もたくさん作られ、現存する最も古い写本で14世紀の古事記よりも、さらに古く奈良時代までさかのぼります。だからなのか、神学、国学として重要視されるようになります。
現代においても、いろいろな謎を解こうとする解説本はいろいろとありますが、一般向けはだいたい古事記との相違点などが中心です。日本書紀単独の本は少なくて、詳しく知りたいと思うとけっこう苦労します。もっとも、古事記よりも全体の量がすごいですから、簡単に一冊でというのはなかなか難しいんでしょうね。
2017年11月30日木曜日
古事記 (16) 神功皇后の謎と応神天皇
古事記や日本書紀を歴史書と考えて、西暦と対応させることはかなりの困難を伴います。神代については、もしも史実として実在するなら、もうまったく何でもありで、旧石器時代から古墳時代のどこでもいいわけです。神武天皇即位が辛酉の年と記載され、事実か否かは別として、かろうじて紀元前660年と決まります。
そこから各天皇の在位年数などの記載を真に受けて考えると、ヤマトタケルが活躍するのは西暦100年頃のこと。仲哀天皇が急死して、神功皇后が三韓征伐に乗り出すのが西暦200年頃。238年に魏国に使いを出し、ここから大陸との往来が頻繁になり、神功皇后が亡くなるのが269年ということになります。
一方、魏志倭人伝の記述で邪馬台国の卑弥呼が死去するのは247年か248年と考えられていて、「ほぼ当たり」とするか「まったくはずれ」とするかは考え方しだい。
いずれにしても、7世紀に記紀編纂が始まった時点では、日本書紀の神功皇后についての記載に意図的に引用されている事実から、魏志倭人伝の存在とその内容は日本でも知られていたことは間違いない。にもかかわらず、一言一句「邪馬台国」も「卑弥呼」も記紀に登場しないのは何故か。
考えにくいのですが、ヤマト王権とはまったく別の対抗勢力である場合があります。この場合、邪馬台国の場所は九州しかなく、ヤマト王権からすれば敗者の話なので無視・・・なんだけど、完全黙殺できない何かの事情があったとしか思えません。
ヤマト王権と直接の関わりのある集団だった場合は、畿内説が浮上しますが、九州だとしてもかまわない。記紀に記載しなかった理由は、先進国としての中国側への対抗心が最も大きいだろうと言われています。
何故なら、「邪馬台国」は「ヤマト国」の意味ともとれますが、当てた漢字は邪(よこしま)。「卑弥呼」も「姫命(ひめのみこと)」の意味かもしれませんがも使われた漢字は卑(いやしい)です。つまり、魏からすれば、かなり高飛車なかなりの上から目線の表現なので、ヤマトからすれば到底承服しかねる。
自分たちのかつての支配者を、そんな風に呼ばれて、そのまま記載するわけにはいかなかったということだろうと。なにしろ、特に日本書紀は、ヤマト王権の「正史」として天皇の神格化と支配の正当性を徹底的に謳い上げることが最大の目的です。そのためには、いくらでも創作神話の挿入も厭わない編集方針ですからね。
ここまでの話は、記紀のいずれも事実だとしてもかなりの脚色があることは間違いありません。神功皇后の息子のホムダワケは即位して応神天皇となりますが、やっとこのあたりからは実在については確実視されるようになります。
そして、応神天皇は世継ぎ候補として三人の皇太子がいましたが、末っ子の寵愛する宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)を筆頭に考えていました。
兄の大山守命(オオヤマモリノミコト)と大雀命(オオサザキノミコト)を呼び「兄弟ではどっちが可愛いか」と尋ねます。オオヤマモリは、当然先に生まれた兄だと答え、オオサザキは天皇の質問の意図をくんで「弟です」と答えました。その結果、オオヤマモリは地方長官、オオサザキは官房長官という役どころにつかされます。
応神天皇が亡くなると、オオヤマモリは挙兵して天下をとろうとしますが、ウジノワキイラッコとオオサザキは協力してこれを討ちます。その後ウジノワキイラッコは自分は天皇の器ではないと言い、二人の間で天皇位の譲り合いが続きましたが、ウジノワキイラッコが急死(病死? 他殺? 自殺?)したため、オオサザキが即位します。社会科の教科書で、最も有名な前方後円墳の主、仁徳天皇の誕生です。以上で、古事記中つ巻は終了。
総合的に考えると、ヤマト王権の成立過程の説明が主たる内容でした。神武により国内統一の道筋がしめされ、ヤマトタケルにより実際に東西を平定し支配域を固め、そして神功により外国も従属させるという、大河ドラマも追いつけない壮大なスケールの話。
神武天皇以来800年近い年月の話ということになりますが、実際は2世紀から4世紀頃までの数百年くらいの出来事が基になっているのだろうと考えられているようです。
2017年11月29日水曜日
古事記 (15) 神功皇后の神秘
景行天皇の後を継いだのは、ヤマトタケルの異母兄弟の成務天皇ですが、ほとんどエピソードもないうちに亡くなり、その次はヤマトタケルのこどもである仲哀天皇が即位します。奥さんは息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト)、いわゆる神功皇后(じんぐうこうごう)で、神のお告げが聞こえるらしい。
天皇が熊襲討伐のため筑紫にいた時・・・って、ついこの前ヤマトタケルが成敗したはずなのに、また朝廷に反発するというしつこい連中ですね。神功皇后は神のお告げとして、「西に金銀、財宝がたくさんある国があり、天皇の国にするがよい」と伝えました。
天皇は、「西の方は海しかないので、それは嘘だ」と相手にしなかったので、神は怒って天罰により急死してしまいます。神功はこの時妊娠中でした。国中で徹底的に禊(みそぎ)を行い、もう一度神様を呼び出しました。
すると、出てきた神様はアマテラス配下の住吉三大神で、「皇后のお腹の子が国を治めなさい。すべての神を大事にして、自分を船に祀って海を渡れ」と言うので、神功を先頭に新羅(しんら)国まで一気に攻め入ります。
新羅(しんら、あるいはしらぎ)は紀元前1世紀~10世紀までの朝鮮半島の東側半分を占める国。4世紀~7世紀には西側半分が百済(くだら)で、北部と大陸にかけてが同じ時代には高句麗(こうくり)でした。おそらく実際の歴史の流れでは、古事記中つ巻のエピソードは、朝鮮半島ではこの三国が覇権を争っていた時代だろうと考えられています。
さて、その勢いに驚いた新羅は、戦うことなく従属することになりました。その話を聞いて百済と高句麗も、あっさりとひれ伏してしまい、「三韓征伐」を成し遂げました。神功は、懐にくくりつけた石で子が産まれるのを遅らせていたので、筑紫に帰ってすぐに品陀和気命(ホムダワケノミコト)を出産しました。
倭(大和)に戻る時、ホムダワケの異母兄弟が謀反を計画していることを察知します。皇后の軍は、まず喪に服した船を用意して生まれたホムダワケが死んだように装い相手を油断させ、さらに弓の弦を切り降伏した振りをして、敵が武器を下ろしたとたんに呼びの弦を張りいっきに攻め滅ぼしました。ホムダワケは第15代、応神天皇に即位し、神功は摂政になりました。
まぁ、神が憑依するわ、大きなお腹を抱えて、出産を無理に遅らせ海外遠征するわで凄い話の連続ですが、身内との戦い方も高度な作戦勝ちで驚かされます。ただし、かなり卑怯な方法で、さぞかし相手は悔しい思いをしたでしょうね。この戦いは、一族内の天皇の座を巡る史上初めての御家騒動の記録であることも注目すべき点かもしれません。
いずれにしても、俄かに真実としては信じがたい話ばかりなので、欠史八代だけでなく、ヤマトタケルも含めてほぼ創作であり、ここまでを神話と考える研究者も多いようです。
このあたりの話は、日本書紀でもほぼ同様の記述になっています。ただし、否が応にもいろいろな想像を掻き立てるのは、やたらと神功の記述の中に「別伝によると」という備考が多いこと。そこには、魏志からの引用も使われていて、明言はされていないものの「神功皇后=卑弥呼」という疑惑が浮かんできます。
事実だけど肯定できない理由が何かがあるのか、あるいは意図的にそのように思わせたいのか・・・いまだ正解が見えていない古代史の大きな謎の一つです。
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