2025年4月28日月曜日
巫女っちゃけん。 (2018)
宮地嶽神社の宮司(リリー・フランキー)は離婚して、巫女として神社を手伝う娘のしわす(広瀬アリス)と二人暮らし。しわすは自分が母親に捨てられたトラウマを抱えていて、早く就職して巫女をやめたくてしょうがないので、神に仕える身としてはかなりいい加減な振る舞いが多い。
ある時、参道で放火とみられるボヤ騒ぎがあり、賽銭が度々ぬすまれるようになりました。夜回りをしていたしわすは、その犯人である少年を捕えますが、少年は一言も口をききません。しわすが世話をして神社でしばらく預かることになりましたが、質の悪いいたずらを辞めようとしませんでした。
児童相談所がやっと母親(MEGUMI)を見つけてきて、少年は5歳の健太という名前であることがわかり、母親に引き取られて帰りますが、母親は恋人の前ではいい顔をしますが、健太には強く当たりしばしば暴力を振るっていたのです。
そのことに気がついたしわすは、健太を連れ出しますが、相談所の担当者の前で健太は殴られた顔のあざの犯人としてしわすを指さすのでした。自分ではないと言っても、だれもしわすの言うことには耳を貸そうとしません。しわすは自分を捨てた母親を訪ねることにするのですが、健太も後をついてくるのでした。
まず感心するのは宮地嶽神社というそれなりに全国に名が知れた大きな神社が、よくもまぁこんなに協力したものだということ。神社の俗物的な内情の一端も描かれているので、まずくないのかなぁと心配してしまいます。
それはそれとして、そのような部分をコメディにしつつ、しわすと健太と言う育児放棄された二人と児童虐待と言う社会性の強い問題をさらりと描いた作品ということが言えそうですが、実際にはそれほど堅苦しさはありません。
しわすより巫女らしい巫女、現代風の冷めきった巫女なども出てくるのですが、描き込は少ない。結局のところ、広瀬アリスの豪快でファイト一発的なキャラに頼り切った未熟な人物の成長物語という感じで、期待を裏切らない普通の進行をしています。
広瀬アリスのファンは必見だとは思いますが、映画としては普通で、それ以上でもそれ以下でもないというところでしょうか。
2025年4月27日日曜日
自宅居酒屋 #92 中華サラダ
スーパーのお総菜売り場の定番の一つです。
だいたい、春雨とキュウリが主役で、あとはもやしとかワカメとかが入っていることが多い。ちょっと高級になると、ハムとか錦糸卵、さらにはクラゲなどが登場します。
今回は、少しだけ残っていたキクラゲを入れてますが、基本の春雨・キュウリ・もやしだけです。
甘酸っぱい味付けで、まぁ、嫌いで食べられないという人はあまり見かけません。
フライパンに水を入れて、春雨を煮ます。このままだと長いので、柔らかくなったら料理ばさみで真ん中へんできって2分割しておきます。ついでにもやしとキクラゲも入れて、火が通ったらざるにあげて水で冷やします。
この間に、キュウリを細切りにしておき、味付けの準備をします。
当然誰もが思うのは、醤油・酢・砂糖・ごま油なんですが、これだけだと何か物足りない。醤油や酢が前面に出てとんがった味になってしまう。
そこで、あと一つ。騙されたと思って是非使ってほしいのが、鶏ガラスープの素。できれば塩抜きのものがベスト。これを控えめに混ぜることで、全体がまろやかにまとまり、よりスーパーの味に近づきます。
春雨ともやしは少し絞って水気を減らしてから、全部を混ぜ合わせて、ちょっとゴマをふれば出来上がり。材料さえあれば、10分かからないのでお手軽です。
2025年4月26日土曜日
野菜アヒージョ
アヒージョ(ajillo)は、伝統的なスペイン料理の一つで、食材とニンニクをオリーブオイルで煮込んだもの。
食材の種類は多岐にわたりますが、日本ではシーフードを使用したものが一般的です。エビ、イカ、タコ、貝類などを入れると、食材からの水分と塩気に加えて最高のダシが出て、ほとんど何も加えなくてもメチャメチャ旨い。
今回は野菜メインのアヒージョをやってみました。
ただし、野菜だけだとダシが物足りないので、あくまで味だし用のシーフードとして、少量のヤリイカ、ムキエビ、ホンビノス貝を使っています。
入れた野菜は、ブロッコリー、オクラ、アスパラガス、トマト、ジャガイモ、ピーマン、エリンギ、マッシュルームなどです。煮崩れしない野菜なら何でもOKだと思いますが、特にトマトは天然の「味の素」ですから必須です。
入れたニンニクは3片ほどで、鷹の爪を少量使いました。さすがに味が弱いので、少量の塩を加えました。オリーブオイルは、全体がつかるほど入れるとすごい量になってしまうので、下1/3ほどが漬かるほどにしています。
食材の食感を残るくらいが美味しいので、5~10分ほどで火にかければ出来上がり。薄切りにしたバゲットを用意して、ワインと一緒に食べれば最高のひと時です。
2025年4月25日金曜日
Glenn Gould
伝統と格式を重んじていた20世紀までのクラシック音楽界の中で、グレン・グールドほど異彩を放つ存在は皆無と言ってもよいかもしれません。
それはヨーロッパではなくカナダ出身というところも大いに関係していることだろうと思いますし、隣国のアメリカとの往来が容易であったことで自由な空気に触れることが多かったことも影響したことでしょう。
1932年にトロントに生まれたグールドは、音楽に理解のある両親のもとで幼いうちからピアノに親しみ、わずか13歳でプロ・デヴューを飾り、15歳でリサイタルを開催しました。世界中に名が知れ渡ったのは、1955年に発売されたデヴュー・レコードのJ.S.バッハの「ゴールドベルグ変奏曲」でした。
この曲は、バッハの時代にならって基本的にはチェンバロで演奏し、最初と最後のメイン・テーマのアリアに挟まれた30の変奏曲からなる曲で、通常1時間以上かかるのが「普通」と思われていたのですが、グールドは何とピアノで快速に飛ばして、わずか38分で弾き切ったのです。しかもペダルを使わないため、その弾むような音色は独特の魅力を放っていました。
さらに同じ演奏技法を駆使して、ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルトなどを矢継ぎ早に発表して世界中を驚かせます。そんな中で、自分がバッハのチェンバロ曲を聴きたくて中学1年生の時に買ったレコードが「2声と3声のインベンションとシンフォニア」でした。当然グールドがどんな人か知らないわけで、何でピアノで弾いているの? という違和感で、ほとんど聴きもせず放置してしまいました。
それから時は流れて、2006年、クリニックを開業したすぐ後、グールドの「ゴールドベルグ変奏曲」の新録音に接する機会があり本当に驚いた。クラシック音楽は楽譜通りに演奏するのだから、誰が演奏しても同じと思って、アドリブ主体のジャズの方に興味が移っていたのですが、この演奏は誰も真似できないグールドのゴールドベルグだと思ったのです。
他の演奏家や他の楽器で奏でられる「ゴールドベルグ」を集めてみると、クラシックと言っても演奏する人が違うとこんなにも違いのかといまさらのように気がつかせてくれたのです。グールド本人の演奏ですら、旧録音(1955年)と新録音(1981年)ではまったくの別の演奏です。
グールドの演奏は奇抜であるとしばしば言われます。モーツァルトのトルコ行進曲は、普通よりかなり遅いのですが、これは行進曲として足を運ぶリズムを合わせたから。ブラームスの協奏曲では、あまりに遅いテンポ設定に、指揮者のバーンスタインがわざわざ「これは私の考えではない」と始まる前にアナウンスするという前代未聞の出来事が記録されています。極めつけは、演奏会を否定して1964年に「コンサート・ドロップアウト」して、以後はスタジオにこもってレコード録音とラジオ・テレビ出演だけで活動したことです。
確かに「普通」ではないかもしれませんが、今のように多様性を認める時代であれば、グールドはもっと楽に生きれたのかもしれません。確かに多くのクラシック演奏家とは違う解釈や弾き方なんですが、一度ファンになると、グールドの音楽は「グールド」という特別なジャンルとして認めざるをえないくらい楽しいのです。
そのほとんどの業績は、CBSレコード(現Sony)に80枚くらいのレコードとして残されています。レコード会社は手を変え品を変えいろいろなフォーマットでグールドの作品を再発売してきましたが、2015年にリマスターされ大きなボックスで「The Complete Columbia Album Collection」で今のところは打ち止めになっています。
自分もゴールドベルグの新録音だけでも4回くらい買わされていますが、さすがにもうこれ以上は必要ありません。その後にゴールドベルグの別テイク集も出ていますが、未完成の部品を聴く意味は感じませんので手を出していません。
グールドは1982年に急逝しましたが、その人生は2つのゴールドベルグの録音に挟まれた、数々の変奏曲のようなものだったのかもしれません。自分の中では、クラシック音楽趣味を復古させた原動力になったグレン・グールドは、今でも時々原点回帰のように聴きたくなる大きな存在と言えます。
2025年4月24日木曜日
自宅居酒屋 #91 ブロッコリーのバター醤油炒め
タイトルがすべてというレシピ。
久しぶりの伝統ある「自宅居酒屋」シリーズに加えていいものか、ちょっと悩みましたが、安い・早い・簡単・旨いという居酒屋メニューとしては、まさにすべての条件を満たしているのでよしとします。
安い。今はブロッコリーが安い。高い時は一株300円近かったのですが、今は200円以下で、スーパーによっては150円くらいのこともあり、この時期、実にお財布に優しい食材です。
早い。10分程度で、ほとんど手間もかかりません。
簡単。ブロッコリーは、生のまま多少こまかく切ります。茎も食べれますから、捨てないでください。バターとにんにく、そしてブロッコリーをフライパンに入れて炒めるだけ。ただし、最初の5分くらいは蓋をして蒸し焼きにしましょう。最後に醤油をかけて味付すればできあがりです。
旨い。食べればわかります。ブロッコリーの食べ方としては、この手があったかとうなること請け合いです。
2025年4月23日水曜日
八重桜
4月の始め前後にいっせいに咲いて、誰もが嬉しくなるサクラはほとんどがソメイヨシノ。ソメイヨシノが散った後に、いよいよ自分たちの出番とばかりに咲き誇るのが八重桜です。
ソメイヨシノと違って、幾重にも花びらが重なってボリューム感があり、色も濃い目です。
八重桜にもいろいろ種類があるようですが、自分が通勤途中に毎年楽しむ街路樹として植えてあるのは、枝が比較的真っすぐ伸びて、ソメイヨシノより小ぶりな大きさのカンザンと呼ばれる品種だと思います。
開花期間も比較的長めなので、楽しめる期間が長いところが嬉しいポイント。
突然ですが、綾瀬はるかが主演した大河ドラマ「八重の桜」なんかを思い出して楽しむのもありかもしれません。
2025年4月22日火曜日
ARC (2021)
17歳のリナ(芳根京子)は、男の子を産み落としますが、名前も決まらないうちに両親に預けて姿を消してしまいました。
エマの弟であるアマネ(岡田将生)は、プラスティネーションを応用・発展させ、細胞分裂を止めない特殊な培養液を注入することで、永遠に老化しなくなる技術を開発します。エマは引退し、リナからの不老処置の勧めも断ります。
30歳のリナは、アマネと結婚し揃って不老処置を行い、世界初の不老女性となります。エマは自らプラスティネーションを行い、「永遠の命だけが幸せではない」という言葉を残して亡くなります。不老処置は急速に世間に浸透していきますが、処置を受ける人と受けない人に人々を分断していくことになります。信念を理由にする場合もありますが、経済的な理由も大きな要素になっていました。
アマネは瀬戸内海の小島に、不老処置を受けない、受けられない人々が平穏に人生を全うするための施設を開設し、無償で高齢になった人々を受け入れることにします。リナも施設で入居者を世話する生活を続けることになりました。
85歳のリナは、姿は相変わらず。そして、娘のハルを産みます。しばらくして、施設にリヒト(小林薫)とフミ(風吹ジュン)という高齢夫婦が訪れます。入所したフミは末期がんでしたが、リヒトは自らの意思で不老処置は受けておらず、浜辺の小屋を借りて住むと言い入所しませんでした。
90歳のリナは、何気なくリヒトがハルのスケッチブックに描いた絵を見て、リヒトが自分が17歳の時に産んだ子であることに気がつくのでした。
この映画はカラー映像で、リナが不老処置を受けるまでの前半を時系列に追いかけていきます。しかし、不老処置を受けてからは後半は映像は白黒になり、時折フラッシュバックする過去のシーンだけがカラーになるという作りになっています。
前半では、よくぞ日本にこんな無機質な近未来を想像させる建物があったと思わせるシーンが続きます。これらは香川県庁舎や瀬戸内海歴史民俗資料館などがロケで使われています。後半は、ほとんどが小豆島でのロケですが、白黒であることで未来的ではない島の風景の「今感」を最小限にする効果があるように思います。
カラー映像の中に白黒が混ざるのは、過去の回想とか夢で見たことなどの場合が多いのですが、もしかしたら不老になること自体が「夢」のようなものだというとらえ方をしているのかもしれません。
この映画の究極のテーマは「生と死」であることは間違いなく、「死があるから人は生を大事にする。死ななくするのは生への冒涜ではないか」と言うセリフがあり、それに対してリナに「それは死ぬことが前提の考え方であり、不死になれば意味をなさない」と答えさせています。
しかし、映画の中で不死となった人が増えたことで、出生数は激減し自殺者が増加しているというニュースで語られるように、社会的にも個人的にも必ずしも幸福とは言い切れない状況は現実的に出現しそうな気配です。
プラスティネーションと不老処置という似て非なるものは、死を永遠とするのか生を永遠とするのかという違いがありそうです。ある意味アナログとデジタルの対比にも似ています。というのは、磁気テープにしてもレコードにしても、そしてCDでさえも媒体の経年劣化は避けることができません。
デジタルとして保存すれば、媒体を変え続ければ(まるでクローンのように)永遠保存も可能となります。しかし、音楽については今でもアナログの需要は絶えないし、サブスク中心となったデジタルは使い捨てのような扱いを受けていることは否定できません。
複雑で難解なシチュエーションが続きますが、登場する俳優陣の達者な演技に支えられて、最後まで集中して見続けることができました。特に芳根京子の硬派な演技には驚きました。見た目は30歳なのに中身は90歳、風吹ジュンよりも年上という設定のギャップを抱え、まったく動じない様子は素晴らしいものです。
2025年4月21日月曜日
異動辞令は音楽隊! (2022)
捜査一課の刑事、成瀬(阿部寛)は昔ながらのゴリゴリの人物で、犯人逮捕のためなら違法な事でも平気でやってしまうような、今どきのコンプライアンスのかけらもありません。バディの坂本(磯村勇斗)も、とてもついていけないと困惑するばかりの毎日です。家族は、あきれた妻には別れられ、娘の法子(見上愛)にも愛想をつかされ、認知症の母(倍賞美津子)と二人暮らし。
投書によって傍若無人の振る舞いが上の知るところとなり、成瀬には警察音楽隊への移動の辞令が下りてしまいます。音楽隊が専門職なのは隊長の沢田(酒向芳)とドラムを担当することになった成瀬だけで、他の隊員は交通課や機動隊、あるいは事務職との兼務で、音楽だけをやっていられるような呑気な者はいません。
刑事にこだわる成瀬に、トランペットの来島春子(清野菜名)は全員が上も下も無く音楽はチームプレイだと力説します。自分が捜査していたアポ電強盗事件が再び発生し、成瀬は思わず捜査会議に乱入しますが追い出され、自分の立場に向き合う決心がつくのでした。
しかし警察本部長は音楽隊は不要と考えていて、次の定期演奏会が終わったら解散させるつもりでした。新たに強盗事件が発生し、今回は初めて被害者が死亡します。亡くなったのは、いつも音楽隊の演奏を楽しみにしていたお年寄りでした。坂本の情報から、音楽隊は主犯が現れる場所でピエロに扮装して待ち受けることにするのです。
一番の見所は、阿部寛史上、最もいかつい強面から最も優しいおじさんにまで変貌していく演技の幅の広さです。最初は、昭和でもこんなに怖い刑事はいなかったんじゃないかと思わせる悪童ぶりです。人との関わり方を学ぶにつれて、ドラムが上手くなるところがなかなか良い。
警察音楽隊が必要なのか不要なのかという問題もある作品なんですが、考えて見れば自衛隊にも、消防隊にもあるわけで、いろいろなキャンペーン活動などを通して社会と組織をつなぐということも大事な仕事だということが描かれています。兼務している隊員たちの、ふだんのより警察っぽい仕事ぶりも織り込まれて、「税金の無駄使い」には当たらないことを盛り込んでいました。
順当なストーリー展開で、安心して見れる作品ですが、多少の嘘には目をつぶる必要はあります。ただし、楽器演奏は役者さんが本当に頑張って練習して実演しているらしいので、そこも見どころになっています。
2025年4月20日日曜日
Claudio Abbado
クラウディオ・アバドは、1933年生まれで2014年に80歳で亡くなった、個人的にはクラシック音楽指揮者として最後の「巨匠」です。フルトヴェングラーやカラヤンに代表されるクラシック界の巨匠と呼ばれる指揮者を聴いて育った世代(つまり昭和の有名な評論家諸氏)からすると、カリスマ性が薄れた中庸な存在と批評されることが多い。
クラシック音楽、特にオーケストラ全体で奏でる交響曲というジャンルでは、アバドの果たした役割は指揮者と楽団員の間に過去の巨匠が作った垣根を取り払ったことではないかと思っています。世界で最も有名なオーケストラの一つであるベルリン・フィルハーモニーで長年にわたって「帝王」として君臨したカラヤンは、オーケストラを自分の意図した音を出すための楽器として扱っていたと思います。しかし、次第に楽団員との軋轢が生じ、晩年は関係が悪化していたのは有名な話。
カラヤンと同時期に活躍したバーンスタインは、自由闊達ななアメリカ人として楽団員と友好的な関係を作った指揮者ですが、後半生は常任はせず客演指揮者に徹しました。アバドはイタリア・ミラノ出身ですが、カラヤンの後を継いで1990年にベルリンフィルの常任指揮者に就任し、カラヤンの負の遺産からスタートしましたが、少しづつ指揮者と楽団員との関係を良好な方向へ修正したことは間違いありません。
ただし、2000年に胃がんを発症したため、ベルリンフィルの芸術監督を辞任せざるをえなくなったことで、評論家からは仕事として未完成で終わったという評価になってしまったのが残念なところです。しかし、病から立ち直って2014年に亡くなるまでは、主として自分が組織したオーケストラで充実した功績を残したことは特筆に値します。
その象徴とも言えるルツェルン祝祭管弦楽団は、もともとスイスの音楽祭のための臨時編成的な色が濃いオーケストラですが、多くの有名オーケストラ員や独奏者が、アバドとの共演を希望して集結たスーパー・オーケストラとして病気から快復したアバドを支えました。また、モーツァルト管弦楽団、マーラー室内管弦楽団を創設し、若手の演奏家たちの育成にも力を入れ、彼らが晩年のアバドの手兵となっていたのです。
アバドもまたマーラーに取りつかれた指揮者の一人で、マーラーの交響曲全集を複数のオーケストラで完成させています。全集としてはシカゴ交響楽団とベルリンフィルで完成した音源が有名ですが、ルツェルンでのチクルスは映像として残されたことで、自分がオーケストラを楽しめる大きなきっかけになったという意味で、絶対的なスタンダードとなりました。
また、ピアノ奏者として自分もほとんどの音源を網羅しているマルタ・アルゲリッチなどを中心に、多くの独奏者との協奏曲録音も多いのがアバドの特徴にあげられます。さらに言うと、自分は不得意分野ではありますが、イタリア出身というだけあってオペラ作品も、かなり力を入れていました。
アバドの残された音源を制覇するのは、亡くなってから多くのボックスが発売されたので可能ですが、自分の場合はすでにマーラー物や協奏曲などは単独で所有しているものが多いので、「Symphony Edition (DG)」だけ新たに購入しました(マーラーだけ丸被り)。そして、病気復活後の映像作品を中心に、その業績を楽しむことができるのは本当に幸せなことだと思います。
2025年4月19日土曜日
正体 (2024)
2024年の各映画賞を総なめにした作品で、原作は染井為人の小説です。2022年に先にWOWWOWのオリジナル・ドラマとして、中田秀夫監督、亀梨和也主演で放映され好評でした。劇場版の監督は「新聞記者(2019)」で注目された藤井直人、脚本は藤井直人と小寺和久が共同であたっています。
民家で夫婦と娘の三人が惨殺される事件が発生し、現場にいた近くの高校生、18歳の鏑木慶一(横浜流星)がその場で逮捕されました。鏑木は一貫して否認しますが、裁判で死刑判決が下ります。そして3年後、鏑木は拘置所から脱走します。鏑木を逮捕・送検した又貫刑事(山田孝之)は全力で捜索しますが、なかなか行方をつかむことができません。
日雇い現場で静かに暮らしていた鏑木は、仕事の同僚の野々村がけがしたことで、上司に掛け合い治療費を出させるのです。野々村はともだちになろうぜと言って、二人は酒を酌み交わします。しかし、野々村はニュースになっていた鏑木であることに気がついてしまい、あせって警察に電話をしてしまいます。それに気がついた鏑木はその場から逃走します。
それから数か月して、出版社に「ナス」と名乗りフリーのライターとして出入りするようになった鏑木は、編集部の安藤沙耶香(吉岡里穂)から文章の上手さを褒められ信頼されるのです。ネットカフェに寝泊まりしていることを安藤に見つかり、安藤は自分のマンションにいてもいいと言うのでした。
その頃、安藤の父(田中哲司)は、痴漢を疑われ裁判でも冤罪を晴らすことができませんでした。安藤の父の事件を追っていたフリー・ジャーナリストは、偶然に安藤のマンションに出入りする男が鏑木に似ていることに気がつき警察に通報します。
又貫はマンションに踏み込みますが、安藤が邪魔したため鏑木は逃走してしまうのです。安藤は、鏑木の人柄を見て人殺しをするような人ではないと確信して、野々村に連絡を取りお互いの鏑木に対する印象を共有するのです。
さらに数か月して、諏訪の老人施設で介護士として働く桜井と名乗る青年が鏑木でした。同僚の坂井舞(山田杏奈)が、たまたまネットにあげた桜井の様子から、桜井が鏑木であることが判明してしまい、又貫らは施設に急行し包囲するのでした。
鏑木慶一は養護施設育ちで、彼を育てた養護教員は絶対に彼が犯人ではないと信じています。野々村も、あらためて思い返すと彼は親切で純粋な人間であると思う。安藤も、そして坂井も、彼と関わった人間は皆、外見はいろいろでも鏑木を信じるようになるのです。又貫は、どこかで鏑木は犯人ではないのかもという疑念を持ちつつも、一度進みだした流れに逆らうことができない自分を自覚しているのです。
映画では約2時間という制約で、鏑木に関わる人は少なくなっていて、ややあわただしい感じは否めませんが、文字や言葉ではなく映像に中で足りない部分を補完しているので物足りなさは感じません。制作者は、鏑木を信じられるかどうか見ている者を試しているのかもしれません。
横浜流星はさすがに注目度No.1の若手と言いたくなる熱演を見せてくれるのですが、ちょっとカッコ良すぎる。つまり、どう見ても悪い人ではないだろうという先入観が働いてしまうので、信じるしかないところに誘導されてしまうのがちょっと不満です。
基本的に冤罪という社会性の高い問題と、人をどう見るかという個人の印象がテーマとしてある作品だと思います。しかし、結末はその不満点に流され過ぎているようで、現実の世界は善人だけではないところを描くことも必要ではないかと思いました。
2025年4月18日金曜日
勝手にふるえてろ (2017)
26歳、独身、会社の経理で働く江藤良香(松岡茉優)は、中学の同級生の一之宮(北村匠海)、通称一(いち)にずっと片思いで、恋愛経験は無し。絶滅生物が大好きで、アンモナイトの化石を手に入れて喜んでいます。
埠頭で釣りをするおじさんやバスで一緒になるおばさん、駅員さん、コンビニ店員、整体師など、単なる顔なじみに本能に流されない自分の気持ちを話しては満足しているのです。
しかし、良香は思いがけず営業課の霧島(渡辺大知)、通称二(に)に付き合ってほしいと告られます。とりあえず喜んでしまいますが、特に好きでもないことに躊躇するのです。ある日、部屋でボヤ騒ぎを起こしてしまった良香は、人間いつ死ぬかわからないので、一を脳内召喚しているだけじゃなく、中学の同窓会を企画して直接一に会うことを決意します。
良香は同級生の名を騙って同窓会を開き、一と再会することに成功し、さらに少人数での新年会をするとになりました。そこで一から言われたことは・・・・
まぁ、こじらせ系女子のラブコメなんで、得意分野ではありませんからあまり感想とかも無いんですが、屈折した主役を演じた松岡茉優は確かに評価に値する存在と感じました。
松岡ファンであれば、絶対に外せない作品だと思いますが、この監督の面白いのは一番のイケメン・キャストに北村匠海を持ってきたところ。このイケメンは、片思いで妄想膨らむ相手なのですが、現実的な相手となる渡辺大知との対比が際立っています。
はじめは妄想の中で一番なのは一で、現実の二はウザ男なんですが、良香が暴走し始めると一と二の立場が逆転していく描写が絶妙です。
タイトルの意味は・・・最後まで見ればわかります。
2025年4月17日木曜日
安物スニーカー
実は、もう何年も運動靴というものを持っていなかった。
ふだんはく靴はひとつだけなんですが、ずいぶんと傷んできたので新調することにしたのをきっかけに、そこらに買い物行くのに使えるスニーカーを買ってみたんです。
と言っても、いつものAmazonで実物は見ない・・・というのは、いち末の不安は感じるのですが、タイムセールでめちゃ安の1,999円ひとつにしました。
レヴューを参考にしてサイズは26cmでいいだろうと判断。
翌日には届いて、履いてみるとぴったし・・・というか本当にぴったしです。まぁ、いいかと外にでてみたら、30分もたつと足の圧迫が強くなってきました。
足がすこし浮腫んできてきつきつになったようです。これは無理と思ったのですが、もう外で履いちゃったので、返品というわけにもいかないのでしかたがない。
そこでもう一度商品ページを開いてみると、タイムセールは終わっていましたが、20%OFFクーポンがついていて2,079円となっている。
なんだ、80円しか違わない。タイムセールってなんなん? と文句を言いたくなるのはグっとおさえて、27cmを追加購入。
今度はさすがにOKでした。
無駄物買いをしてしまいました。やはり靴は靴屋で買いましょうという教訓ですが、安い割には履き心地は悪くないので良しとします。
2025年4月16日水曜日
ガパオライス
もはや、日常的なレパートリーになりました。
ガパオは良く知られたタイ料理の一つですが、比較的簡単に本格的な味を楽しめます。
必要な物は、鶏ひき肉、(生)バジル、ニンニク、鷹の爪、オイスターソース、ナンプラー、以上です。
うちの場合は、これらは調味料は常備されているので、肉とバジルさえ買えばいつでも作れるやんと言ったら、そんなもん、普通家には無いと怒られてしまいました。
でも一度買えば冷蔵庫で長期保存可能ですから、是非、そろえてほしいものです。
ポイントはバジル。これは扱っていないスーパーも珍しくないし、傷みやすいので保存がきかないので、見つけたら即買い、即ガパオといきたいところです。
ひき肉は一人前150g程度で、あとのものは好きな分量を入れればいいのですが、バシルは多いほうが美味しい。ひき肉はあまり細かく炒めず、塊感を残した方がよさそうです。
付け合わせの温泉卵は、絶対ではありませんが、あればより雰囲気が出て美味しくなります。冷蔵庫から出したばかりの生卵を沸騰したお湯に、火を止めて7分間つけておくだけです。
正味15分もあれば完成しますから、忙しい時でも比較的作りやすいと思います。
2025年4月15日火曜日
セブンのおにぎり 64
セブンのおにぎり・シリーズ、早くも、復活!!
いつも寄るセブンの店舗が閉店してしまい、このシリーズは強制終了かと思われましたが、何とかここならという新たな店がほぼ決まりました。
ただし、通勤経路はやや遠回りになります。しょうがないのですが、数分の違いなので許容範囲ということで・・・
そんなわけで、今回は中国風と韓国風の紹介です。
「世界ごはん万博」となっているのが「具だくさんおにぎり かに玉」です。
おにぎりに玉子焼きがのっているだけ・・・なんですが、それ以上でもそれ以下でもない。材料にはかにほぐし身となっていますが、かにの味はわかりませんでした。
具だくさんシリーズで値段も高いのですが、はっきり言って「???」という評価をするしかない。たけのこ入り中華あんとも書いてありますが、おにぎりにあんをたくさん入れられるはずもない。
興味を持った方は自分で食べて評価してみてください。
もう一つは、「玉子をのせたキムチ炒飯」です。ということなんですが・・・普通です。
復活を記念して景気の良いものにしたかったのですが、やはりセブンの変わり種シリーズは当たりはずれがけっこうあるということを再認識する結果です。
2025年4月14日月曜日
SAKURA 2025 @ 小学校
今年の桜は、週末の雨でほぼ終了。
じっくり花見をした方、通りすがりで満足した方、そして興味のない方など、いろいろだと思いますが、四季を感じる風物詩として欠かすことができないのは誰も同じだと思います。
今年は、まとまって見れる桜より、ちょっとだけでもより季節を感じられるものを探してみました。
あらためて思ったのは、学校と桜とは相性がよいなということ。
特に小学校は、今年はちょうど入学式のタイミングと開花が重なりましたので、新生活へのお祝いに「花を添える」形になりました。校舎と桜は実によく合うと思います。
卒業式で桜も悪くは無いのですが、やはり何かが始まるワクワク感と桜の方がグっとくる感じがします。
ただ、勝手に学校の中に入るわけにもいかないので、外から見ると魅力が半減するのは残念ですが・・・
2025年4月13日日曜日
100本のスプーン @ あざみ野
あざみ野ガーデンズ開業当初からあるファミリーレストランが「100本のスプーン」です。
もちろん存在は知っていましたが、あざみ野ガーデンズへは買い物以外で出かけたことは無く、ましてやこの店はファミリーレストランという概念からすれば「高級」という噂を聞いていたので、まったく興味はありませんでした。
今回、息子夫婦の希望で、初めて出かけてみました。
まず入って最初の印象は、「明るい、広い、おしゃれ」という感じで、若い夫婦、特に小さい子連れが楽しめるように特化した店だと知りました。店の中に遊べるスペースが作ってあり、メニューにもそのことがうかがえます。
次に思ったのは・・・た、た、高い(++;)・・・こりゃ、いわゆるファミレスと思ったら大間違いで、何段も格上のなかなか手ごわいレストランです。
とは言え、メニューはなかなか美味しそうなものが並んでいて、どれも食べて見たくなる。そこで、手っ取り早く、いろいろなものが少しずつ盛られた「ビッグプレート」にしてみました。
個々の感想はともかく、どれもがクオリティの高くとても美味しいく頂きました。
結論としては、食事だけなら高いとは思いますが、家族で楽しむための全体的なサービス込みと考えれば、リーズナブルなレストランだと思いました。
2025年4月12日土曜日
Leonard Bernstein
クラシック音楽史上、偉大な指揮者はマエストロと呼ばれ崇拝されています。自分がクラシックを聞き始めた頃は、フルトヴェングラー、クレンペラー、トスカニーニ、ワルターが四大巨頭でしたが、すでに過去の人でした。現役で活躍していたのは、何と言ってもヘルヴェルト・フォン・カラヤンとレナード・バーンスタイン、そしてカール・ベームで、やや遅れて登場したのがクラウディオ・アバドとゲオルク・ショルティだったと記憶しています。
活動年数が長いカラヤンが一番多いのは当然かもしれませんが、バーンスタインもリリース頻度を考えるまったく負けていません。'60~'80は、ほぼこの二人が世界のクラシック音楽界を牽引していたと言っても過言ではありません。
もちろんもっと聞き込んでいれば、他にも多くの有名な指揮者はいたわけですが、何しろその頃は「クラシックは譜面通りに演奏するから、一人の演奏を聞けば十分」と思っていたので、基本的に有名な人だけで足りてしまっていました。
カラヤンは主としてベルン・フィルを手兵として、音楽に重厚感のある極限的な美しさを求めたと言われていますが、実はこれが自分が大オーケストラ作品を聞かなくなった一番の原因でした。悪く言えば、重たくもったいぶった演奏からは「どうだ、聞かせてやる」的な奢った印象しか持てずに、とても音楽を楽しむ雰囲気が感じられませんでした。
なので、自分にとってクラシックの最初のアイドル的な存在だったのはレナード・バーンスタインということになります。これは、レコードを買い始めた頃にソニーがCBSと契約して日本でレコード業界に進出しバーゲン価格のセットを大量に発売したので、バーンスタインを聞くハードルが低かったというのもあります。
アントルモンのピアノによる「ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番」、バーンスタイン自らのピアノが聞ける「ガーシュイン/ラプソディ・イン・ブルー、パリのアメリカ人」は、ストレートに音楽の楽しさを十二分に伝えてくれたのです。またバーンスタインのナレーション(もちろん英語でわからなかったけど)が入っている「ピーターと狼、動物の謝肉祭」はこども心にも響く音楽でした。当然、それらのオーケストラはニューヨーク・フィルですから、ベルリンよりニューヨークが上と感じていたのは自然の成り行きと言えます。
レニーの愛称で親しまれたレナード・バーンスタインのイメージは、ユダヤ系アメリカ人。ブルースやジャズのようなアメリカ独自の音楽文化のバックグラウンドを持ちつつ、クラシック音楽においても「音楽は楽しむものだ」ということを終生実践し続けた人だと思います。
残されたビデオからも指揮ぶりは、まるでダンスをしているかのようで、本人が本当に楽しんでいる様子がひしひしと伝わります。ちなみに、典型的なカラヤンの指揮姿は、閉眼して口をへの字に閉じて、指揮棒だけをチョイチョイと動かす感じで、バーンスタインとはまるっきり違います。
バーンスタインの偉大なポイントは、ヨーロッパ至上主義が根強いクラシック音楽において、初めて天下を取った生粋のアメリカ人であり、カラヤンと人気を二分したということです。カラヤンとの違いは、さらに自らも作曲活動を行ったこと、そして積極的な教育・啓蒙活動を続けた点も忘れてはなりません。
そして、重要な業績として必ず指摘されるのが、作曲家グスタフ・マーラーの復興です。ユダヤ系のマーラーの作品は、戦争と共にほぼ忘れられた存在になっていたのですが、バーンスタインは「まるで自分が作曲したかのようだ」と述べて、60年代からマーラーの楽曲を掘り起こし、現在のマーラー人気に火をつけるきっかけを作りました。
1918年生まれのバーンスタインは、1943年にワルターの代演を成功させて一躍脚光を浴び、1969年まではニューヨーク・フィルハーモニーの常任指揮者として若さ溢れる演奏で活躍しました。その後は、常任にはつかずに最も人気のある客演指揮者として、ニューヨークだけでなく主としてウィーン・フィル、イスラエル・フィルなどと円熟の演奏で魅了しました。
人物としてはかなり俗物感がある人で、十代からのヘヴィースモーカーであることや、妻子がいても男色も好んだという話は有名です。最近「マエストロ」という映画にもなっているので、興味がある方はご覧になると面白いかもしれません。若いころから肺気腫と言われ、結局、肺がんのために1990年に72才でその生涯を閉じました。
さすがにクラシックのCDも相当な量のものを所有しているので、バーンスタインもかなりあるだろうと思ったら大間違いで、実は数枚しか持ってないんです。その後オーケストラ物に興味を持たせてくれたのが古楽系のJ.E.ガーディナーであり、アバド、そしてその続きのサイモン・ラトルだったので、ある程度それらで満足してしまったというところでしょうか。
そこで、あらためてバーンスタインの偉業を再確認してみたくなってきました。幸いなことに、簡単に全部が揃う巨大ボックスの中古市場もだいぶこなれてきたので、そろそろ大人買いするチャンス到来かと思います。逆にこれ以上待っていると、むしろプレミア価格になってしまうかもしれません。
2025年4月11日金曜日
僕たちの戦争 (2006)
もとはTBSのテレビドラマで、現代の若者が戦時下にタイムスリップする・・・だけなら凡庸ですが、この話のポイントはタイムスリップした上に人物の入れ替わりも起こるというところが面白い。
原作は「愛しの座敷わらし」の萩原浩の小説で、テレビで活躍した山元清多が脚本、「逃げるは恥だが役に立つ」の金子文紀が演出を担当、主題歌にTHE BLUE HEARTSを起用したりと、テレビとしてはけっこう力が入った作りになっています。
平成17年(2005年)の世界で、茨城の海で尾島健太(森山未來)はサーフィンをしている最中に巨大な波に飲み込まれ溺れてしまいます。昭和19年(1945年)の世界では、霞ケ浦予科練で飛行訓練をしていた練習生の石庭吾一(森山未來)は、突然の悪天候に巻き込まれ海に墜落します。
1944年の浜に打ち上げられた健太は、町の様子が一変していることに気がつきます。空腹でふらふらしていいる健太を、孫の文子(内山理名)と二人暮らしの)沢村キヨ(樹木希林)は家に招き入れ休ませるのでした。その夜、空襲警報がなり、健太は少しずつ事態を理解し始めます。
同じく、2005年の浜に打ち上げられた吾一は病院に収容されますが、周囲の様子の変化に戸惑いパニックにり逃げ出します。街には敵国の文字が溢れ、道行く人々もとても日本人には見えない。病院に連れ戻された吾一は、やってきた人々が皆、自分のことを健太と呼ぶことに戸惑います。そして健太の恋人のミナミ(上野樹里)が、記憶が戻るように親身になってくれるのでした。
班長の山口(桐谷健太)に見つかった健太は予科練に連れ戻され、吾一として練習機を墜落させたことを強く責められます。戦況はどんどん悪くなり、予科練の隊員は特攻隊として出撃するように言われ、健太もその一員に選抜されてしまいます。
吾一は歴史書を読み漁り、次第に自分の状況を理解していき、優しくしてくれるとミナミとの生活に慣れていきます。そして石庭家の墓に詣でると、墓石には自分の名前があり沖縄で死んだことになっていたのです。おそらく自分と入れ替わりに過去に行ってしまった健太が身代わりになったと考えた吾一は、ミナミを連れて沖縄に向かうのでした。
健太は人間魚雷「回天」の乗組員として沖縄に向かうことになり、その船で鴨志田祐司(玉山鉄二)と知り合いますが、偶然に鴨志田が沢村文子と結婚し、孫にあたるのがミナミであることに気がつきます。鴨志田が死んでしまったら、ミナミは存在しなくなってしまうと考えた健太は、何が何でも鴨志田だけは死なせてはならないと決意するのでした。
現在から過去へ、そして過去から現在へのタイムスリップが同時に起こり、さらにタイムスリップした人間が入れ替わってしまうというなかなか凝ったプロットで興味深いのですが、その二人は家族でさえ気がつかないほど瓜二つということで成立するストーリーです。
さすがにそれは作り過ぎという感じがしますが、そこさえ我慢できれば、現在と過去を交互に描きながら、しだいに両者が沖縄の海に向かって時空を超えて収束していく流れはなかなかよく出来ています。
太平洋戦争の時代から80年たち、直接的に戦争を知る方々の多くが亡くなり、今や外国の戦争を他人事のように感じているのが現代の日本人です。現代人を戦争中にタイムスリップさせるというのは、現代と戦時中のあまりに大きな違いを際立たせる手法として効果的であることは間違いありません。
ただし、この手のドラマにしても映画にしても、そこからあと一つ、じゃあどうすればいいのかみたいなポジティブな部分が見えてこないのが惜しまれます。もちろん過去を変えたら未来が変わるという大原則がある以上、結局何もしないというのが正解なのかもしれませんが、どの作品もちょっと物足りなさを感じてしまうのが残念なところでしょうか。
2025年4月10日木曜日
SAKURA 2025 @ 茅ケ崎中央
茅ケ崎中央というのは、センター南の中心部ということ。
海が無いのに茅ケ崎・・・って20年間、不思議と思っているんですが、積極的に郷土史を調べていないので由来はよくわかりません。
毎年、この時期に桜のきれいな場所を見て回りますが、どうしても同じ場所ばかりになってしまって、あまり変わり映えのしないネタになっている。
そこで、初登場の桜を紹介。
ごく普通の民家の庭先に植えてある・・・これは珍しい。しだれ桜です。
まぁ、桜と言えば、ほとんどがソメイヨシノですが、シダレザクラはなかなかお目にかかれない。これはやや赤味の強い花がついているので、もしかしたらベニシダレかもしれません。
人とは違ったところで、ちょっと住んでいる方の個性みたいなものがありそうで、思わず見入ってしまいます。
今年の桜もいよいよラストスパート。そろそろ、花散らしの雨が来そうですから、週末まではもたないかもしれませんね。
2025年4月9日水曜日
SAKURA 2025 @ 寿福寺
公園とかでまとまった花を見るのも楽しいかもしれませんが、街中のスポットを探してみると、なかなか見事な桜を見つけた時はけっこう嬉しいものです。
センター南の駅周囲では茅ヶ崎城址公園が一番たくさん桜の木がある場所だと思いますが、そのすぐ下のあたりにある寿福寺観音堂は、道路からでも2本の立派な桜に囲まれていて見応えがあります。
よく見ると観音堂は改築されていて、入り口がサッシになっているのが無粋に感じるところですが、まぁ、いろいろ事情があるんでしょうからしかたがない。まぁ、全体の佇まいは保たれているので、雰囲気はばっちりです。
それにしても、一番残念なのは「電線」です。新しいはずの街なのに、電線を埋設するとかなんでしないのかと思います。日本の空から電線が消えたら、どんだけ景色が生まれ変わることかと・・・でも、電気は大切ですからね。
2025年4月8日火曜日
あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。 (2023)
雨の中飛び出した百合は、古い洞穴のような場所で雨宿りをしているうちに寝入ってしまいました。雨は強くなり雷も鳴り出しました。そして、目が覚めると朝になっていて、外に出た百合は、野原と雑木林しかない光景を目にして呆然とします。百合は、ふらふらと歩いているうちに、ついに道端に倒れこんでしまいます。
ちょうど通りかかった軍服を着た佐久間彰(水上恒司)に助けられ、町の鶴屋食堂に連れて行かれます。一人で店を切り盛りしているツル(松坂慶子)は、百合に食事を与え、店を手伝うように言うのです。食堂は軍の指定になっていて、特攻に出撃する兵士たちが利用する店で、彰もその一人でした。
少しずつ自分の置かれた状況を理解していく百合は、ツルを手伝いながら、勤労奉仕をしている千代(出口夏希)とも仲良くなります。彰は妹に似ているからと、何かと百合を気にかけ、一面ユリの花が咲く丘を見せるのでした。百合は、国のためと特攻に志願する彰やその仲間たちと交流していくうちに、彼らがそれぞれ大事な人を守るために命を懸けていることを知ります。
町が空襲を受けて、百合は動けなくなりますが、彰が駆けつけて助けてくれました。彰は「命が一番大事だ」と言い、少しずつ気持ちが通じ合っていくのです。しかし、いよいよ彰たちにも出撃命令が下るのでした。
百合が寝入った洞穴は防空壕の跡だったわけで、そこへ雷が落ちたことがきっかけでタイムスリップ・・・夢ではなかったことは、ラストではっきりします。この作品では、タイムスリップした百合は、積極的に未来人であることは口にしません。未来を変えるような行動もしません。
自分を否定的に見ていた高校生が、特攻に出撃する人々を直接的に知ることで、生きることの大事さを認識して成長する姿を描くことが主要なテーマということ。ですから、積極的に反戦を訴えるわけではありませんが、戦争が人々の考え方を狂わせていたことだけは強く伝わってきます。
現代人がタイムスリップするということは、歴史の教科書の中だけの知識だけでは理解しきれない、戦争を疑似体験させることで、その意味を考えるきっかけを作りたいということだと思います。たしかに戦時中の人物だけでも、似たようなストーリーは作れるのですが、タイムスリップによってよりその目的は明快になっているようです。
2025年4月7日月曜日
SAKURA 2025 @ あざみ野
昨日の日曜日は、天気予報は怪しかったのですが、何とかもちました。
各地で盛大にお花見が行われたことだと思います。
自分のテリトリーで、一番見応えのあるのは、あざみ野の通称「桜通り」です。今年も見頃を迎えています。
ただし、ここは街路樹なのでシートをひいて花見を楽しむことはできません。
500m近く、道の両側植えられた桜が花のトンネルを作っているので、車で通るだけでも実に気持ちが良い。
この時期は、ちょっとだけ遠周りをして、何回かは楽しみたいと毎年思います。
ちょっと気になるのは、昨年に比べると、ちょっとボリューム感がないような・・・まあ、そんなことは気にしないで、今年の桜を楽しみましょう。
2025年4月6日日曜日
ねずみ騒動
近頃話題になった、某牛丼店でのねずみ混入・・・じゃなくて、もっともっと身近な話。
ハムスターとかだと、ペットとして飼ったことがあるかもしれませんが、いわゆる家鼠と呼ばれるのはドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミの3種類で、自分も小学生の頃には風呂場をはい回る、たぶん(大きさからして)ドブネズミを目撃したことがありました。
ですから、その頃は「ウィラード」というイエネズミを主役にしたアメリカ映画がヒットしても、特別な違和感もなく受け入れることができたように思います。
さすがに下水管理が向上して衛生面では格段に改善されたご時世ですから、ネズミを見かけることなんて・・・何と、あったから驚きです!!
帰宅して台所の灯りを付けた途端に、換気扇のあたりから床に何かが飛んできてゴミ箱の裏の方に走り込んでいったんです。大きさは10cmないくらいのもので、隠れる瞬間に細い尾のようなものを視認できたので、どう考えてもネズミとしか思えない。家の中でネズミと遭遇するなんて60年ぶりのことです。
さすが殺鼠剤なんてものは常備しているわけもなく、すぐに手に取れたのは殺虫剤のキンチョール。適時、キンチョールをまきながら、懐中電灯であちこち探していると、電子レンジの裏側にいるのを発見。その後ろはすぐ窓なので、キンチョールをまきつつ窓を一気に開け放ち・・・一応、気配が無くなったので外に出て行ってくれたのかと一安心しました。
しかし、翌日またもや登場したのです。こりゃ本気でかからないと無理と判断して、ホームセンターでネズミ捕りを購入。罠になっている生け捕り用のかごもありましたが、とりあえず安いものを用意しました。わかりやすくいえば、強力な粘着剤による巨大なゴキブリホイホイです。
ゴミ箱の裏を中心に通りそうな場所に3個仕掛けて、1日たってどうなったか・・・おお~、見事に捕獲していました。たぶんハツカネズミなんでしょうか、びくりともしなくてすでにお亡くなりになっているようでした。とりあえず、めでたしめでたしなんですが、ゴキブリみたいに1匹みたら大量にいるなんてことは・・・無いことを祈ります。
2025年4月5日土曜日
SAKURA 2025 @ 茅ケ崎城址公園
今年の桜は、ある程度開花してから1週間。
冷たい雨が降る天気が続いていたので、ずっとせっかくの桜も見栄えの良い物ではありませんでした。
でも、昨日はやっと晴れ間が見えて、この週末は本格的なお花見をする方も多いことと思います。
センター南の茅ケ崎城址公園は、それほど広い公園ではありませんが、まとまって桜が見れるお花見スポットとしておすすめです。
今日のお花見は、ちょっと夕方から天気が怪しいので、明るいうちがおすすめです。
2025年4月4日金曜日
晴れたらいいね (2025)
テレビ東京開局60周年記念として製作されたドラマですが、1月にAmazon Prime Videoで配信されていたので、先日の地上波放送を待たずにすでにご覧になった方も多いかもしれません。原作は藤岡陽子の小説で、多くのヒット作を手掛けた岡田惠和が脚本、深川栄洋が監督をしています。
東京の病院で働く看護師の高橋紗穂(永野芽郁)は、中堅どころで仕事はできますが、もうひとつ生きがいみたいなものを見出せずに、日々の業務をこなしているだけになっていました。特別室に入院している名誉師長の雪乃サエ(倍賞美津子)の担当だった紗穂は、サエの病室にいた時に大きな地震があり気を失ってしまいます。
気がつくと、そこは何と昭和20年のフィリピンのジャングルの中。周りにいるのは、野戦病院で働く仲間たちで、紗穂のことを雪乃サエと呼ぶのでした。サエと一番仲が良い藤原美津(芳根京子)は、何から何まで忘れてしまったかのようなサエを不思議に思い、ついに「顔はサエでもあなたは誰なの?」と尋ねます。
紗穂は実は私は80年後の未来から来た、と美津に話しますが、美津は話を信じるのです。現代の病院とは違って何もない現場で、紗穂は少しずつ仕事に慣れていきます。ある時、何か歌ってと頼まれた紗穂は、当時としてはかわった曲であるドリカムの「晴れたらいいね」を歌いますが、その楽しさは仲間にも伝わるのでした。
病院を統括している軍医の佐治(稲垣吾郎)に、病院を放棄して前線の軍と合流するように命令がおります。佐治は看護婦たちは民間人なので、内地に戻るように言いますが、ただし港まで独力でいくしかないと伝えます。婦長の菅原(江口のり子)は、紗穂、美津らを連れて出発しますが、女性だけでジャングルを抜け崖を上る行軍は過酷なものでした。
ついにもともと足が悪い婦長が動けなくなり、自分を置いて先に進むように言い出します。紗穂は「全員が無事に帰ることが大事なんだから、そんなことは許さない」と声を上げ、「自分は未来から来た。雪乃サエさんは未来で生きているんだから、私といれば絶対に帰れる。皆を守ることが私がここに来た理由だと思います」と説得するのでした。
現代人が戦時中にタイムスリップするという、定番のシチュエーションなんですが、そこに人物の入れ替わりを加えた欲張りな設定がユニークです。
ただし、正直時空移動のきっかけが弱い。映像的に地震で主人公がかなりショックを感じるような状況はいくらでも作れそうなんですが、どこか予算不足? みたいな感じ。実は、主人公が現代に戻るところもあっさりしています。
なので、そこのところはあまり触れないでおきますが、野戦病院の緊迫感というところも、看護婦たちが主役ですからそれほど描かれているとは言えません。「生きて帰る」ことが大事であると言いたいのはわかりますが、国のために死ぬことを厭わない時代ですから、もっと死と隣り合わせの状況を描いてほしかったように思います。
何とか最後まで見れるのは、永野芽郁、芳根京子、江口のり子らの演技の素晴らしさのおかげ。芳根京子は「研修医まどか」とずいぶんと違うキャラを好演していますし、永野芽郁も突然理解できない世界に放り込まれた困惑を見事に演じていますので、ファンの方々は楽しめると思います。
2025年4月3日木曜日
終わりに見た街 (2024)
2024年9月にテレビ朝日で放送されたスペシャル・ドラマです。もともとは、脚本家の山田太一が1981年に発表した小説が原作で、1982年に自らの脚本でドラマ化されました。その後2005年にも、山田太一自身が現代に追加あわせて改変したドラマが放送されています。その間には、舞台劇としても上演されている作品。
今回は宮藤官九郎が、さらに令和の今を反映させた脚本を作り、テレビ朝日出身の片山修が演出を務めています。スマートホンを効果的に使ったりして、いかにも今風のアレンジがなされています。
あまり有名ではない脚本家の田宮太一(大泉洋)は、妻のひかり(吉田羊)、生意気盛りの高校生の信子(藤間み)、小5の稔(今泉雄土哉)、認知症の母親・清子(三田佳子)との五人暮らし。終戦ドラマの脚本を頼まれ、膨大な資料を呼んでいるうちに寝込んでいるうちに雷鳴と共に家ごと昭和19年6月にタイムスリップしてしまうのです。売れない役者の小島敏夫(堤真一)と息子の小島新也(奥智哉)も、一緒にタイムスリップしていました。
小島親子と合流して、付近を探索してしだいに状況が理解してきた太一でしたが、兵隊が突然現れた家を不審に思いやってきます。彼らは逃げ出しますが、家は燃えてしまい愛犬も殺されました。少しずつ時代に適応しようとみんなが努力をし始めるのですが、新也が清子の初恋の人、敏夫の叔父の敏彦に似ていることがわかります。しかし、新也は突然いなくなってしまいます。
11月になり空襲が始まります。太一もこの時代に溶け込むことで精一杯でしたが、未来を知っている太一は3月10日の大空襲で少しでも助かる人を増やそうと、清子を占い師に仕立て、3月10日は逃げるようにふれまわることにします。
深夜に大空襲が始まるという時に、新也が突然戻ってきますが、彼はしばらく見ないうちに戦時思想にすっかり染まっていました。新也は太一や敏夫を非難し、信子や稔までもが「国のために、勝つために行動すべき時だ」と言い出すのです。その時、突然、空襲警報が鳴り響きます。太一は混乱の中で何とか稔の手を取って走り出すのでした。
もともとこの話は読んでも見てもいなかったので、大泉洋主演で、共演が吉田羊という洋羊コンビですから、タイトルに一抹の不安を感じながらも笑って終われるものとたかをくくっていたら大間違いでした。
知らずに見ると、あまりのバッド・エンドに愕然とします。しかし、それは徹底的に戦争というものの理不尽さを訴えるものだと言えそうです。家ごと家族ごとタイムスリップという設定は他では見たことが無い。さすが人気作の多い山田太一、目の付け所が一味も二味も違う。
タイムスリップから戻れてめでたしめでたしで終わると、戦争の悲惨さが薄れてしまうところを、さらなる悲劇で追い打ちをかけるという発想は衝撃的です。大泉洋も出だしだけはしがない中年風情ですが、タイムスリップ後は笑いの要素はゼロで、彼の体験を通して戦争の過酷な状況を現代人の我々に伝えることに徹しています。
もしも未見の方は、再放送の機会があれば、あるいは配信で是非ご覧ください。ただし、その時は襟を正して、ラストシーンまで一瞬たりとも気を抜かずに見ることを強くお勧めします。
2025年4月2日水曜日
恋は雨上がりのように (2018)
橘あきら(小松菜奈)は、母親のともよ(吉田羊)と二人暮らしの17歳。陸上部の短距離の有望な選手でしたが、練習中にアキレス腱断裂を起こし、もとからの寡黙な性格に磨きがかかってしまいます。やたらとアタックしてくる同級生の吉澤(葉山奨之)とは同じファミレスでバイトをしていていますが、そこの店長は冴えない中年男でばつ一で子持ちの近藤正己(大泉洋)でした。
ケガをした日に店に入った時、近藤がすごく優しくしてくれたことから、あきらは近藤の事が好きになってバイトに入ったのです。ある日、忘れ物をした店の客を走って追いかけたあきらは、まだ完治していない足を痛めてしまいました。心配した近藤はあきらを病院に連れて行きますが、ついにあきらは近藤に「好きです」と告白してしまいます。
一度口にしたら、あきらはどんどん積極的にアプローチするのですが、近藤はなかなか気を許してくれません。ずっと一緒に陸上をやってきた親友のはるか(清野菜名)は、あきらのことをずっと心配していましたが、たまたま近藤に対して楽し気に笑っているのを見てショックを受け、喧嘩別れしてしまうのです。
近藤は、学生の頃に同人誌仲間で、今は売れっ子小説家になった九条ちひろ(戸次重幸)と久しぶりに会います。近藤は、すぐに学生時代に戻れる自分に気がつきます。近藤は、あきらに「ともだちをあきらめたら、ずっと立ち止まったままになってしまうよ」と話します。あきらに憧れて自分もアキレス腱断裂から立ち直った倉田みずき(山本舞香)も、あきらに陸上に戻るように迫ります。
バイト仲間の加瀬(磯村勇斗)はあきらの想いに気がついていて、「あまり店長を追い詰めるな。君は無くした楽しさを求めているんだろうけど、店長は何とかその楽しさを思い出させてあげようとしている」と話します。あきらは雨の中、近藤のアパートに走るのです。
恋愛物が苦手・・・っていうか、見てて何か体がかゆくなっちゃう自分でも、安心して最後まで見れる映画でした。何しろ主役が大泉洋ですから・・・って本人に怒られてしまいますが、ダメダメ中年の大泉洋が、だんだんすごくいい人に見えてくるので不思議です。
中年男と高校生じゃ、はたから見れば援助交際とかにしかならなさそうなんで、女子高生をうまいことまっすぐな道に戻してあげる大泉洋はかっこいい。もちろんそれだけではなく、女子高生のおかげで、あきらめていた夢にもう一度立ち向かう力を逆にもらう中年に拍手したくなるというところでしょうか。
あきらと近藤の会話をする場面はいつも雨が降っているのですが、雨がやんできらきらと光る地面に新しい何かが産まれているというタイトルなのかなと思います。多少ストーリー展開は早めで、たくさんいる登場人物を整理しきれていない感じはありますが、110分という時間制限のある中では、ぎりぎりセーフというところでしょうか。
2025年4月1日火曜日
SAKURA 2025 @ 早渕川 此岸
4月1日、新年度、新学期の始まり。エイプリル・フールです。
向こう側と比べると、ボリューム感はやや劣りますが、ソメイヨシノが満開となりました。
ただ、天気がいまいちで気温も低くて、いわゆる「花冷え」ですから、盛り上がりに欠けるのはしょうがない。
でも、その影響は開花期間を長引かせて、楽しめるチャンスが増えることにつながるのかもしれないので、必ずしも悪いことではありません。
2025年3月31日月曜日
我が音楽愛好歴
似たような話は過去にも小出しにしていた気がするんですが、そもそも自分の音楽好きの一面の来歴をまとめて書いておくことにします。
そもそも父親が主として歌謡曲好きだった。家には8トラックテープ・・・って、まずほとんどの人はわからないけど、それがいくつかありました。小川知子とか、黛ジュンとか、西田佐知子などの昭和女性歌手のヒット曲がテレビ・ラジオ以外で聞くことができた。自然と音楽に触れあうことがあったのですが、決定的だったのは小学校の同級生の文房具店の倅のK君の影響です。
K君はクラリネットを習っていて、日本のジャズ・クラリネットの草分け的な存在である北村英二氏とも知り合いだった・・・と思います。自分の家にはモノラルのレコード・プレイヤーしかありませんでしたが、彼の家に遊びに行くと家具のような立派なステレオ装置があって、いろいろな音楽を聞かせてくれました。
今でも記憶に強く残っているのは、ビートルズの「Let It Be」のLPで、豪華な分厚い写真集が付属している特別限定版。他にも牛の写真がドーンと写っている「ピンク・フロイド/原子心母」みたいなプログレッシブ・ロック、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズのようなポップス、そしていろいろなクラシックのレコードが次から次へと出てくるので楽しくてしょうがない。
さらにK君は、近くの河合楽器の店を紹介してくれました。当時は楽器だけでなくレコードを扱っていて、担当の店員さんと懇意になれたので、レコードをいつでも2割引きで買えるようにしてくれたのが大きかった。
そのころSONYがレコード業界に進出して、アメリカのコロンビア・レコードを独占的に日本で販売するようになりました。最初はCBSソニーというレーベルを知ってもらうために、バーゲン価格のレコードをいろいろと出したので、これはねらい目でした。
初めて買ったクラシックのレコードはそういったセットで、レナード・バーンスタイン指揮、フィリップ・アントルモンがピアノの「ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番」が含まれていました。他にはカザルス四重奏団による「モーツァルト/クラリネット五重奏曲」とかカール・ベーム指揮の「ベートーヴェン/交響曲第9番」などが記憶にあります。
そういったごく初期に買ったクラシックの中にグレン・グールドの「バッハ/2声と3声のインベンション&シンフォニア」もあったんですが、この頃はまったく良さがわからず、なんでハープシコードの曲をピアノで弾いてんだくらいにしか思いませんでした。
K君からいろいろなジャンルの音楽を聴かされたおかげで、天地真理、石川さゆり、小林幸子なんてのも買ってましたし、中学生になるとビートルズを卒業して本格的なロックに傾倒していくのは自然な流れだと思います。レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルはもちろんのこと、ユーライア・ヒープ、ピンク・フロイド、EL&P、イエス、キング・クリムゾンなどを中心に聴くようになるわけですが、高校生になるとジャズ好きの同級生がいて新たな次元に突入することになります。
たまたま入ったdisk unionの店で、一番前にあって目に付いたのがマイルス・デイビスの「'round about midnight」のジャケット。サングラスをかけたマイルスのドアップ写真がめちやくちゃかっこいい、というだけで衝動買いです。「ロックなんてこどもだぜ。大人はジャズ」とでも思ったのか、そこからは学生のうちは主として聴きまくっていたのはジャズでした。
そんなわけで、学生時代までに集めてLPレコードは200枚くらいあったと思いますが、社会人になった頃から時代はレコードからCDに変わり、これらのレコードは部屋の隅の棚に眠ってしまうわけで、ある日気がついたら全部が湿気でカビだらけ。もう、泣く泣く捨てるしかないという・・・今はまたレコード盤が有難がられているので、ちゃんと保管していればけっこうな価値があったかもしれません・・・
まぁ、こんな話、誰も興味は湧かないところなんで、このくらいにしておきます。
2025年3月30日日曜日
SAKURA 2025 @ 早渕川 向岸
去年より、1週間ほど早く桜の便りが届いています。
毎年の光景ですが、やはり「満開の桜」というのは春代表的な風物詩ですから、思わず足を止めて見入ってしまうのは日本人の本能みたいなもの。
クリニックの裏手に流れる早渕川の川岸は、ちょっとした桜並木になっています。特に、クリニックから見て向岸、市営地下鉄の高架脇には、真っ先に咲き始める桜が並んでいます。
よく見るソメイヨシノよりもピンク色が濃い目なので、山桜の種類なのかなと思っていますが、数日前にほぼ満開となりました。すでに花見を楽しむ人がたくさん集まっているようです。
昨日はあいにく雨模様でしたが、今日天気は回復して絶好のお花見日和になりそうです。
2025年3月29日土曜日
グッドバイ〜嘘からはじまる人生喜劇〜 (2020)
内容の面白さだけでなく、未完ということで様々に想像を膨らませることができるところから、何度も戯曲化もテレビドラマ化もされ、演出家・脚本家のイマジネーションを刺激し続けています。今作は2度目の映画化で、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(小林 一三)が舞台用に戯曲化したものを、自ら映画用脚本に手直してして、「ソロモンの偽証」などを手掛けた成島出が監督をしています。
終戦直後の東京。雑誌編集長をしている田島周二(大泉洋)は、優柔不断のくせに女性に対して大変優しくもててしまうため、望んだわけでもないのにあちこちに愛人がいるのです。青森に疎開している妻とこどもがいて、こどもに胸を張って再開するために、愛人を整理する決心をした田島は、小説家の漆山(松重豊)に相談しました。漆山は誰か女性を連れて行って、妻だと紹介すれば別れられるだろうと提案します。
田島は闇市で知り合いだった永井キヌ子(小池栄子)が、ふだんは汚れた格好をしていますが、実はなかなかの美人であることを知り、キヌ子に妻の役を頼み込みます。キヌ子を連れて、花屋の青木保子(緒川たまき)のもとを訪れた田島は「グッドバイ」と言って別れることに成功します。
次に挿絵画家の水原ケイ子(橋本愛)を訪ねると、保子が2階に間借りしていて失恋を苦に飛び降り自殺を図ろうとしていたため、あわてて引き上げました。漆山にキヌ子をものにしておけば、後がやりやすくなるとアドバイスし、取材で青森に行くから奥さんとこどもによろしく言ってあげると言うのです。田島はキヌ子に迫りますが逆に2階の物干し場から投げ出される始末。しかも、ケイ子にも事情が知られてしまい「グッドバイ」されてしまいます。
次に出かけたのは病院。医師の大櫛加代(水川あさみ)は、逆に田島の妻からの手紙を見せます。そこにはもう田島には愛想が尽きたので、好きにどうぞと書かれていましたが、加代はそんな田島にはこちらから「グッドバイ」だと言って去っていきました。助けを求めて漆山の家に行くと、ちょうどそこへ漆山が田島の妻、静江(木村多江)とこどもを連れて帰ってきました。驚く田島に、漆山は二人のことは自分が面倒みることにしたとと説明するのです。
絶望した田島は、飲み屋でキヌ子に愚痴りまくって、手持ちの金をばらまいて店を出ていきます。道端にいた占い師(戸田恵子)が田島に声をかけ、いろいろあるだろうけど、実は身近なところにあんたを一番理解し気兼ねなく接することができる女性がいると教えます。田島はそれがキヌ子のことだと気がつき、店に戻ることにしますが、占い師はそっちは大きな厄災があるから、反対の方角に行くようにという忠告を無視して店への近道を急ぐのでした。
太宰治がどのような結末を考えていたのか、誰にもわかるはずはありません。少なくとも「たくさんの女性と別れていったら最後に妻からグッドバイされる」という滑稽話として構想されたことだけは確からしい。
最初の女性には「グッドバイ」と言えた田島ですが。これはあくまで前振り。この後は、すべて逆グッドバイされ、最後は妻からの強烈な一撃を食らうという流れはなかなかよく出来ていると思います。ただし、コメディとしてはOKかもしれませんが、妻と作家がいとも簡単にできてしまい田島を捨てるというのは、やや強引すぎる。もう少し早い段階から匂わせるか、コメディ色を強調してもよかったように思います。
大泉洋は普段はあからさまに人から笑いを取るキャラクターとして認知されていますが、映画の中では大真面目だけどその行動が笑いを誘うような役柄が多い。この作品もそういう意味でははまり役で、何度か共演経験がある小池栄子とも息ぴったりです。
キヌ子は闇市をたった一人で生き抜いてきた女性なので、たくましいけど実はどこかに人恋しさを隠しているはずで、そのあたりは小池栄子は上手に演じていると感じました。ただ演出上の仕掛けだと思いますが、ずっとだみ声でしゃべるところはやや耳障りが悪く、わざとらしさを感じてしまいます。
それでも「店への近道を急ぐ」田島までは、うまく描かれていて楽しめます。ところが、見舞われる「大きな厄災」から後のオリジナル・ストーリー部分については、田島の部下の清川(濱田岳)のエピソードも取ってつけたような感じですし、ちょっと盛り過ぎのような感じがしました。ハッピーエンドは歓迎するところですけど、もっと素直な形の終わり方でよかったように思います。
2025年3月28日金曜日
グッモーエビアン! (2012)
名古屋で元パンクロックバンドのキダリストをしていた広瀬アキ(麻生久美子)は、17歳で産んだ中三になるハツキ(三吉彩花)と二人暮らし。数年前までは、アキのバンド仲間、ボーカルのヤグ(大泉洋)もなぜか一緒に暮らしていましたが、ヤグは世界を見ると言って出て行ったきり、たまにハガキが来るだけでした。
ある日、そのヤグが突然帰って来て、再びアキのもとに転がり込んできました。アキとヤグはしょうもないことで笑って騒いで、明日の事などお構いなし。無遠慮に日常の中に入り込んでくるヤグは、年頃のハツキにはうざい存在でした。進路指導の三者面談の話をしても、アキは自分の事は自分で決めればいいので、母親が出る幕じゃないと言って取り合いません。
ハツキの親友で、アキやヤグのことを羨ましく思っているトモミ(能年玲奈)は、ヤグから箱入りトモちゃんと呼ばれていました。トモミはヤグが父親だったらよかったと言い出すので、ハツキはそんなこと言わないでよと席を立ってしまいます。しかし、翌日学校に行くと、何とトモミが両親の離婚によって昨日で転校してしまったと聞かされます。
たまたま空港に向かうところだったトモミと出会ったヤグは、話を聞くと学校に飛び込んできて、ハツキに「サヨナラは言える時に言わなきゃいけない」と大声で叫びます。ヤグはハツキを乗せて自転車で空港に向けて全力疾走するのですが、出合い頭にトラックとぶつかってしまうのでした。
お調子者で騒ぐのが大好きというヤグのキャラクターは、まさに大泉洋のためにあるみたいな役どころ。でも、考えていないようでしっかりと心の中に仕舞っている人間として生き方を持っている人物で、アキも同類なのです。ハツキは、表面的な部分で二人を反面教師にして、優等生であることを崩そうとしません。
ほぼ実年齢だった三吉彩花は、少しずつヤグとアキの筋が通ったいい加減さを理解していき、無理していた自分に気がついてちょっと成長していくという役どころでしょうか。トモミの能年玲奈は「あまちゃん」でブレークする前で、ハツキに家族って何と考えさせる重要な役どころです。
家族の形はいろいろなものがあって、血族=家族とは限らないことが映画で示されています。互いを信頼し愛し守るなら、それが家族であるということ。家族になるためには互いの気持ちをしっかり考えることも重要だと、この映画ではいっているようです。
2025年3月27日木曜日
黄砂だけど・・・
この数日、大陸由来の黄砂が日本にまで大量飛来している・・・ということでした。
まぁ、実はこの写真は加工してある。昨日のクリニックから見たセンター南の風景ですが、いつもよりちょっと黄色を強調しちゃいました。
遠くになるほどややいつもより霞がかかったみたいな感じはあるんですが、そんなにはっきりしたものじゃありません。ただし、雲一つなく晴れているわりには、青味が少ない印象です。
でも、車のボンネットには明らかに細かい砂のような粒子が付着しているので、黄砂飛来は間違いないところだと思います。
花粉症の人は、黄砂に花粉が付着していると言われているので神経質になってしまいますが、何しろ3月だというのに25゚cを超えるような暑さ。ずっと窓を閉め切っているのも難しい。
いろいろなところで気候変動の影響を感じますね。
2025年3月26日水曜日
鶏唐揚げ or ザンギ ?
みんな大好き、鶏肉の唐揚げ。
いつ頃からか、巷には唐揚げの事をザンギと呼ぶものが登場していました。なんか、地方の方言かなんか? と思っていましたが、あまり深く追求することもなく何年もたってしまいました。
そもそもザンギとは・・・って、知ったのは数年前だったか、北海道での唐揚げの呼び名のことだと。
一般には、しっかりとした味を付けた鶏もも肉の唐揚げのことをザンギと呼ぶのですが、鶏肉以外他の肉で作った唐揚げでも呼び方は同じらしい。
それはともかく、我が家の唐揚げは・・・
ずっとずっと前から、食べやすい大きさにカットした鶏もも肉を、醤油、ニンニク、ショウガなどで漬け込んで、片栗粉2、小麦粉1くらいの割合でまぶして揚げるというもの。
・・・って、これザンギじゃんか!! !!
何と我が家で作っていたのは、まさにザンギだったんです。唐揚げと単純に呼んでいたことに対して、慙愧(ざんき)に堪えません。
2025年3月25日火曜日
騙し絵の牙 (2021)
出版大手の薫風社が発光する文芸誌「薫風」は、日本文学界にとっても重要な役割を果たしてきましたが、昨今の本が売れず本屋も減っている状況では苦戦を強いられていました。薫風社の社長(山本學)が病死して、後継者と思われていた息子の惟高(中村倫也)は実力者の新社長の東松(佐藤浩市)によってアメリカに飛ばされてしまいます。薫風を守る編集長の江波(木村佳乃)とその後ろ盾になっている常務の宮藤(佐野史郎)は、抵抗しますが東松は薫風を月刊から季刊に変更してしまいます。
最近、薫風社のカルチャー雑誌「トリニティ」の編集長に迎えられた速水(大泉洋)は、東松からトリニティも廃刊候補と言われ、まず薫風の大御所作家である二階堂(國村隼)に自身が生き残るためにトリニティに連載するマンガの原作を書かせることに成功します。
そして、薫風から外された高野(松岡茉優)を自分の編集部に向かい入れます。高野は本屋の娘で、本当に良い本を真に理解している人材で、薫風では却下された新人の矢代聖(宮沢氷魚)の小説を高く評価していました。速水は、矢代の小説もトリニティで利用していくことにします。
また以前にジョージ真崎というペンネームで面白いエッセイを書く人物が、実は人気モデルでガンマニアの城島咲(池田エライザ)であることをつきとめた速水は、咲を表紙の顔にしてエッセイを連載することにします。
高野は20年来筆を折り行方不明になっている幻の作家、神座(リリー・フランキー)に注目し、最後の作品の原稿を細かく調べ上げます。そこから、ある飛行場でセスナを所有していることを推察し現地に向かいますが、丁度離陸するところで直接会うことに失敗します。
咲はストーカー被害にあっていてましたが、いよいよトリニティが発行される直前についに直接ナイフを向けられてしまいます。咲はとっさに持っていた改造銃で発砲してしまい、警察に逮捕されてしまうのです。速水はたとえ広告が無くなっても、咲への同情も手伝って必ず発行部数が増えて赤字にはならないと東松を説得し、予想通りの売り上げ増に成功します。
宮藤と江波は、トリニティに奪われた矢代を説得し薫風に鞍替えさせますが、その発表の記者会見で、矢代は実は自分は作者ではなく行方不明の友人の作品であることを暴露してしまいます。責任を追及された宮藤は取締役から外され、ついに薫風は休刊が決定してしまうのでした。
確かにユーモアはほとんど無いので、大泉洋らしくないと言えばそうかもしれません。登場人物が何かしら誰かを騙しているというところはありますが、大泉洋が演じる速水がその中心にいて、だからと言って悪者にはなりきれていないあたりは、らしいと言えばらしい点かもしれません。
矢代、咲、神座という3人のエピソードがバラバラのようで最後につながっていくあたりはなかなか面白い構成なんですが、謎を作り出している速水と、謎を追いかける高野の存在によって、やや話が複化していることが難点になっているかもしれません。2時間弱の映画ですが、あと30分くらいは長くても良いと思います。
それにしても、出版業界の苦境は明快に示されていて、関係する仕事に就いてる方には耳の痛い話になっています。ネット社会になって、文字を粗末に扱うようになったというのは実感するところで、時代と共に文化も変化していくのは必然だと思いますが、コミュニケーション手段として重要なところなので、ネット社会が取って代わるのではなく上位互換となってもらいたいものだと感じています。
2025年3月24日月曜日
浅草キッド (2021)
お笑い芸人の劇団ひとりの監督第2作で、ビートたけしの自伝的小説を原作に脚本も劇団ひとりが担当しています。制作はNetflixで配信のみで視聴となっていて、現在までDVDなどは発売されていません(中国製の怪しげなものは出回っています)。
ビートたけし、北野武は大学を早々に退学して1972年に浅草フランス座の見習いとして楽屋で寝泊まりするようになります。当時の浅草フランス座は、基本はストリップ劇場で、踊りの合間にコントを上演していました。ここから有名になった者には、渥美清、東八郎、コント55号などもいましたが、「浅草の師匠」と呼ばれた芸人、深見千三郎が経営も担っていました。
深見は古いタイプの舞台一筋の芸人でテレビに背を向けていたため、ほとんど世間に知られることはありませんでしたが、人を笑わせることには秀でていて、誰もが一目置く存在であったと言われています。
フランス座でエレベータボーイの仕事についたタケシ(柳楽優弥)は、深見千三郎(大泉洋)のコントに憧れ、弟子入りを志願します。深見は何も芸を持っていないタケシにタップダンスを教えますが、それ以来ずっと真剣にタップの練習をしているタケシを見て弟子入りを許可するのです。
踊り子のチハル(門脇麦)は、実は歌手志望でしたが流れに流れてストリップをしていました。それでも舞台が終わった後に、一人で歌の練習をしているところをタケシに見られて話をするようになります。チハルは、「あんたはこれから始まるんだからいいよね」と言うのでした。
深見はふだんの生活の中でも、すぐにボケ倒すことを修行として、「客に笑われるんじゃない、笑わすんだ」と教え込みます。タケシは、少しずつ舞台にも立たせてもらうようになり、深見も陰でタケシの才能を認めるようになっていきました。しかし、テレビが普及するにつれフランス座の経営は悪化し、深見の妻で踊り子の麻里(鈴木保奈美)は芸者としても働き続けついに体を壊してしまいます。
舞台が先細りなのに対して、テレビの漫才がどんどん人気になっているのを見て、タケシはついに先にフランス座を辞めたキヨシ(土屋伸之)の誘いで二人で漫才をするため深見の元を辞すのでした。
初めは普通の漫才で目立ちませんでしたが、ツービートに改名して毒舌漫才を始めてからはどんどん人気者になり、10年かけてついにテレビの漫才大会で優勝するまでになります。タケシは優勝した夜、フランス座を手放し、麻里を亡くして、工場で働くようになっていた深みを訪ねます。賞金をそのまま深見に「小遣いです」と言って渡すのでした。
まず冒頭、度肝を抜かれるのは特殊メイクでビートたけしになりきった柳楽の演技。そこまで似せるためのコーチは松村邦洋というのが面白い。一気に何が始まるんだろうという興味を沸かせるのに十分なんですが、ちょっと間違うと柳楽タケシの違和感も作るかもしれないという、けっこう劇団ひとりが賭けに出ているようなところがあります。
ただ、劇団ひとりのビートたけし、そして深見千三郎に対する強いリスペクトは全体に満ち溢れていて、実にていねいに練られた展開であることに拍手を送りたい。
1作目でも主役を演じた大泉洋は、深見の人物像があまり知られていないので柳楽よりは演じやすかったかもしれませんが、大泉らしさもありながら頑で不器用な昭和の芸人を実に見事に演じました。それにしても、前作の手品にしても、今回のタップダンスにしても大泉洋は劇団ひとりからずいぶんと高度な要求をされても、ちゃんとこなす所がすごい。
劇団ひとりは、映画監督としてはまだ2作だけですが、いずれも自分のテリトリーの中で作っているので、俳優、特に大泉洋のおかげで映画として成立させている感じはありますが、違う角度からの映画が作れれば今後が楽しみかもしれません。
2025年3月23日日曜日
クラシック音楽の聴き方 2025
ずいぶん昔に、「クラシック音楽の聴き方」というタイトルで書いているんですが、久しぶりに「今」はどうしているのかという話をしてみたい思います。
クラシック音楽は小学生の時からけっこう聴いていて、ロック、ポップス、歌謡曲、時には演歌もコンスタントに聴き続けています。大人になってからはジャズが中心になり、クラシックはしばらく忘れていました。その理由は、誰が演奏しても同じと思ったから。
ところが、グレン・グールドのピアノを聴いて、同じ楽譜でも演奏者の解釈の仕方によってこんなにも違う音楽になるんだということがわかってからは、どんどんクラシックが面白くなりました。
最初は器楽曲、あるいは小編成の室内楽曲を好んで聞いていましたが、カラヤンの重量級のオーケストラの音が苦手で交響曲は敬遠していました。ところがJ.E.ガーディナーの古楽オーケストラによってオーケストラに覚醒してからは、交響曲もすごく楽しめるようになりました。
J.E.ガーディナーによるもう一つの恩恵は声楽。古楽では多くが声楽が付き物の宗教曲なので、一緒に聞いているうちにクラシックの歌手に対する偏見みたいなものも無くなったわけです。その勢いでオペラも制覇しようと思ったのですが、実はこれだけは何度挑戦してもダメ。好きになった歌手が主役でも、どうしてもピンと来ないので、もうなかばあきらめています。
そんなこんなで、オペラを除いてほぼクラシック音楽の全ジャンルを聞き倒してしまうと、あらためてクラシックが有限資産であることを切実に感じます。つまり過去の有名な作曲家の残した偉大な遺産であって、いくら演奏者によって違ってくるとは言っても、ベートーヴェンの交響曲なら9曲、ピアノ・ソナタなら32曲で終わりという具合にそれ以上の新曲は無いということ。
さすがに演奏者による違いを楽しむとしても、3~4種類くらい聞けば十分で、なんでもかんでも全部を集めるなんて所詮、経済的にも、時間的にも、そして空間的にも無理と言うものです。ですから、もう何年か前から急激にクラシックのCD購入意欲が落ちてしまいました。
また、それに合わすかのように音楽産業の環境がCDという物理媒体からストリーミングに移行して、CDの発売数そのものが減ってしまい、安く全部そろうボックス物の発売も急激に減少しています。これはクラシック好きにはけっこう痛いところで、例えばバッハのカンタータ全集はボックスなら数万円ですが、バラでそろえるとなると数十万円かかってしまうかもしれません。
ただ、今年になって新しい楽しみ方が見つかりました。今まではすでに亡くなった大家の作曲家の作品をすでに名声が確立した巨匠による演奏で聞いていたわけですが、YouTubeには日本の若手の瑞々しい演奏の映像がたくさん転がっていることを知りました。
まだまだ未完成の演奏家に金と時間を使うのはもったいない・・・と思っていたわけでは無いのですが、いやいや若い人も若いからこそできる実に新鮮な感覚の音楽を演奏していることに気がつきました。これはすでに巨匠になった演奏家にはできない芸当だと思いますし、そもそも「楽譜通り」に縛られない自由な発想は若者の特権かもしれません。
巨匠の演奏は「デフォルト」として一定の評価が確立していますが、必ずしもそれが正解とは言えません。芸術は主観的なものですから、時代や社会的な背景によって評価はいくらで変化してかまいません。また若い演奏家は、成長していく過程でその演奏もどんどん変わっていくかもしれないというのも魅力です。
自分の感性にマッチする若手を見つけたら、その人を追いかけてみる、CDがあれば聞いてみるというのは、今後のクラシック音楽の勢いを減らさないためにも意味のある楽しみ方かなと思います。
2025年3月22日土曜日
トワイライト ささらさや (2014)
売れない落語家のユウタロウ(大泉洋)は、自分の落語を一生懸命だったからと唯一笑ってくれたサヤ(新垣結衣)と結婚し、息子のユウスケが産まれたとたんに・・・交通事故で死んでしまいます。葬儀にユウタロウからは死んだと聞かされていた父親(石橋凌)が現れ、ユウスケは引き取ると言い出します。
この世の未練、サヤのことが心配でたまらないユウタロウの霊は、師匠(小松政夫)に乗り移って、サヤにここからユウスケを連れて逃げろと言うのです。サヤはとにかく、かつて世話になっていた佐々良にある亡き叔母の家に身を寄せます。
ユウタロウは、近所の認知症を装っているお夏(富司純子)に乗り移りますが、一人に1回しか乗り移れないらしいと話します。そして、乗り移れるのはユウタロウの気配を感じることができる者だけで、乗り移られたものはアレルギーが出てしまうので長くは乗り移れない。
それ以来、お夏さん、久代(波乃久里子)、球子(藤田弓子)というおせっかいな三人お婆らに助けられる生活が始まります。そして、強気のシングルマザー、エリカとも知り合います。エリカには言葉を失った息子のダイヤ(寺田心)がいましたが、亡くなった夫は今でも近くいるという話をエリカが信じてくれないので、ユウタロウはダイヤに乗り移って事情を話し出すのです。
偶然、サヤがちょっと留守にした時に、久代の息子(つるの剛士)が泣いているユウスをあやしていました。ユウタロウの父親が差し向けた者と勘違いしたサヤは、思わず包丁を向けてしまいます。ユウタロウは、陽気でサヤに気がある駅員の佐野(中村蒼)に乗り移り何とかその場を鎮めました。
実は、この土地では佐野が乗り移れる最後の一人だったのです。ユウタロウはこれでお別れだと言うと、サヤはだからあなたの落語は独りよがりで面白くないと二人は言い合いになります。そして、それぞれの想いをぶつけ合ったことで、サヤはユウタロウの父親と会うことを決意します。しかし、やって来たユウタロウの父は、ユウスケを抱くとそのまま家の外へ逃げ出してしまうのでした。
最初に感じたのは悪者がいない作品ということ。ですから、最後まで見て泣きはあっても、安心できる仕上がりです。ガッキー初めての母親役というのも見どころです。また乗り移られた俳優さんたちの大泉洋風の演技が実に素晴らしく、特にさすが天才子役の寺田心くんには頭が下がります。
撮影で特徴的なのは、街並みなどの遠景ではティルトレンズを使ったミニチュア風撮影を多用していること。ササラという場所がファンタジーであり、リアリティを打ち消すことを目指しているようです。もっとも霊が誰かに乗り移るというのは、冒頭のユウタロウの「私はすでに死んでいます」という説明からしてフィクションなので、もしかしたら監督が意図したほどの効果は出ていないかもしれません。
2025年3月21日金曜日
銀のエンゼル (2004)
もともと農家をしていた北島昇一(小日向文世)は、周りからの勧めもあってコンビニを営んでいました。店のオーナーは昇一ですが、実際に店を切り盛りしているのは妻の店長・佐和子(浅田美代子)です。高校三年生の娘、由希(佐藤めぐみ)は、東京の大学への進学を考えていて、昇一だけがそれを知りません。
ある日、佐和子が交通事故にあい入院してしまいます。昇一はしかたがなく店に立つことになるのですが、勝手がよくわからず、配送の六ッ木(大泉洋)からは、新米のバイトに思われてしまうのです。夜勤馴れしている寡黙な佐藤くん(西島秀俊)に助けられ、何とか店を開けていられましたが、佐和子はこれを機会に自分はもう店には出ないと言い出すのです。
由希は、東京に出たがっていることが狭い町の中で知れ渡ってしまい、そのような環境に窮屈な想いをつのらせていきます。そして、ついに昇一の耳にも伝わってしまいますが、怒っている昇一に、由希はずっと自分に無関心だったくせにいまさらと言い放つのでした。
ストーリーとしては娘を本心から心配している不器用な父親とそのことがわからない娘を軸に、コンビニに出入りする二人を応援するたくさんの人々の小さなドラマをたくさん散りばめた群像劇のような体裁になっています。
タイトルの「銀のエンゼル」は森永製菓のチョコボールの当たりマークのこと。常連客のスナックを経営しているシングル・マザー(山口もえ)が、自分の人生の運試しとしてチョコボールの当たりを集めているところからきています。いつも昇一に買う箱を決めてもらっていましたが、佐藤くんに自分で選べばはずれでも後悔しないと言われます。
北海道の空気感みたいなものはうまく焼き付けられていますが、強いメッセージがあるわけではなく、問題を抱えた人々がちょっとだけ前を向いていけるような気になる作品というところでしょうか。大泉洋の出演作としては、主役ではありませんが、適度なユーモアを出しつつも、なかなかかっこいい態度を出すあたりは大泉カラーが確立したような感じがします。
2025年3月20日木曜日
2025年3月19日水曜日
泡沫 (うたかた)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
2週間前に閉店してしまったセブン・イレブン。
開院以来、ずいぶんとお世話になりました。
前を通ってみると、確かに店はすでに「らしさ」は無くなっていて、あれほど繁盛してるように思えたのに見る影もありません。
いかにもオーナーかと思える太った無精ひげのオッサン、煙草を吸いながら新米の店員に講釈たれていた大柄なメガネ男。今となっては懐かしい。
この店は幸せなことに、人は変われど必ず数人のてきぱきと動けるしっかり者の店員がいました。彼ら、彼女らがいるおかげで、何かとても安心感がありました。
いくつかのセブンに寄ってみましたが、まだレギュラーとするほどの雰囲気の店は見つかりません・・・って、そんなに大袈裟なことでもありませんけど。
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
2025年3月18日火曜日
river (2003)
北海道の小学校の同窓会で、久しぶりに再会した4人。佐々木耕一(大泉洋)は警察官で、2か月前に通り魔に遭遇したものの、日頃から拳銃を銃弾を込めていなかったため被害者は殺され、犯人にも逃げられてしまいました。藤沢聡(安田顕)は殺された女性との結婚式を間近に予定していて、犯人と見殺しにした警察官を憎んでいました。
いじめに受けていた横井茂(音尾琢真)に誘われて、彼らは2次会としてバーにいきます。そこのバーテンダーはやはり同級生だった九重達也(戸次重幸)で、オリンピックを目指すスキージャンプ選手でしたが、交通事故で断念したのです。それぞれが口に出さずとも、忘れたい過去を引きづっていたのです。
そんな4人に謎の人物が接触してきます。北海薬品工業から「記憶を消す薬」を盗み出してほしいと依頼してきます。横井だけは、こどもが入院したと嘘をついて抜けてしまいます。転校生で半年しかいなかった横井は同窓会に呼ばれるはずが無いことに気がついた佐々木は、横井に対する疑惑を深めます。
流れに乗るしかないと思った佐々木は、藤沢、九重と製薬会社から首尾よく指定されたものを盗み出すことに成功します。しかし、藤沢は逃げ出してしまいました。仕方がなく、盗品の受け渡し場所とした、今では廃校になっている小学校へ向かいます。藤沢は歩いているところ、偶然を装って通りかかった横井の運転する車に拾われ睡眠薬を飲まされてしまいます。
廃墟となった小学校到着した佐々木と九重は、いきなり銃声を耳にします。佐々木は校舎に走っていきますが、足が悪い九重はその場にとどまります。そして、その後ろには銃を構えた横井が経っているのでした。
TEAM NACS総出演なのに・・・まったく笑いは有りません(ちなみにチームのリーダーである森崎博之は佐々木の先輩警官役)。サイコティックな要素も取り入れた陰湿なサスペンスです。映像は徹頭徹尾、暗めのブルーを基調として白黒に近い作りで、暗澹たる空気を増幅させています。またロングショットかアップで人物をとらえることで、極端な主観と極端な客観を表現しているようです。
おそらく大泉洋史上、最高に暗い口調で口数も少ない演技が見れると思います。これは、他のメンバーについても同じで、他の映画と比べても、これほど重たい雰囲気の作品はほとんど思いつきません。
結末は銃声のみで映像としては描かれていません。しかし、おそらく主要人物はすべて死んでしまったのではないかと想像させられる、最後まで希望を見出せない作品です。何故ならタイトルがそれを示している。
学校の浦に小川があり、生徒は毎年春に鮭の稚魚を放流していました。稚魚は皮を下り何年かして同じ川を産卵のため遡上し、産卵の後死んでしまう。つまり、元居た場所に戻ることは死を意味しているわけで、彼らは小学校に戻った時点で運命は決していたということ。
TEAM NACSを使って、真逆のキャラクターに挑戦したところは、彼らを良く知る鈴井だからこそできる芸当というところだと思います。中盤から横井の怪しさを出してサスペンスを盛り上げているのですが、残念ながら事件の動機としては弱いように思いますし、佐々木中心に展開していくので、もう少し丁寧に横井を描いてほしかったという感じがしました。
2025年3月17日月曜日
man-hole (2001)
望みを書いた紙を落とすと希望が叶うマンホールが、札幌のどこかにあるという噂がまことしやかに出回っていました。
小林(安田顕)は札幌の豊水橋派出署の新任警官で、先輩は奥さんに逃げられた村田(中本賢)、あまりやる気のない吉岡(北村一輝)の二人。ある日、女子高校生の鈴木希(三輪明日美)がカバンをひったくられるところに出くわした小林は、犯人(音尾琢真)を追跡して逮捕するが、希はカバンを取り返して姿をくらましてしまう。
希の父親は高校の次期教頭候補で生活指導を担当していて、家庭はぎくしゃくしていました。望みは進学塾に行っているふりをして、寒河江純(大泉洋)のデートクラブに出入りしていました。純が買い物に出かけた時に、客(きたろう)の妻(風祭ゆき)が逆上して怒鳴り込み、仲間の梨絵(尾野真千子)が怪我をしてしまいます。純は建物の外に隠れていた希に事情を教えてもらいますが、そこを小林に見つかり追いかけられる。何とか逃げ切りますが、希は生徒手帳を落としてしまいました。
小林は正義心があふれていたので、勤務時間外に希の周辺を調べ、なんとか犯罪にならないようにしたいと考えるのです。小林がつきまとうのをしつこく感じた希は、小林を名指しでストーカーだとネットに書き込んでしまったため、小林は謹慎させられることになります。
希は小林に、いくら警察官だと言っても人の心の中にまで勝手に入っていいわけじゃないと言い、小林も謝ります。希は一緒に夢のマンホールを探すのに付き合ってほしいと頼むのでした。
TEAM NACSは、北海学園大学の演劇研究会に所属していた森崎博之、安田顕、戸次重幸、大泉洋、音尾琢真により1996年に結成された演劇集団で、北海道テレビのバラエティ番組「水曜どうでしょう」により人気が高まりました。番組を企画構成したのが、監督の鈴井で、TEAM NACSにとっては世に出してくれた兄貴分みたいな存在です。
ここでは、TEAM NACSの安田顕を主役に、大泉洋を助演として、音尾琢真を端役で起用しています。北海道にこだわって作られた作品は、自主製作映画に毛が生えたくらい・・・というと怒られるかもしれませんが、おそらく超低予算の中でそれなりに頑張っていると思います。ちなみに、デートクラブのメンバーには尾野真千子や小池栄子も入っていて、さすがに超若いのは驚きます。
登場する人々は、すべてが生きることに中途半端というか、不器用な面がある。劇中に「何のために?」とか「夢は何?」といった会話が度々でてくるのですが、ちゃんと答えられる人はいません。それは現代人誰にでもあてはまるところかもしれません。ある種の閉塞感みたいなものですが、夢のマンホールという出口は誰にとってもある種の期待の一つなのかもしれません。
2025年3月16日日曜日
RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ (2011)
地鉄の運転士を42年間、無事故無違反で勤める滝島徹(三浦友和)は定年を控えていました。退職後は家族との時間を作るつもりでしたが、元看護士の妻の佐和子(余貴美子)から緩和ケアの訪問看護師土の仕事をすることにしたと聞かされます。
何度も話をしても理解を示さない徹だったので、佐和子は家を出てしまい、突然妻がいなくなり徹は困惑するのでした。しかも佐和子は、徹に名前を書き込んだ離婚届と自分の結婚指輪を渡すのです。娘の麻衣(小池栄子)も、自分のことばかりで母親のことをわかっていない徹を責めます。
徹は研修中の小田(中尾明慶)の指導を任されますが、明るい性格の小田も彼女との別れ話で落ち込んでしまいます。小田は「もしも、奥さんから離婚と言われたら、滝島さんだって冷静でいられないですよね」と言いますが、徹は平気を装うしかありませんでした。
佐和子が担当した井上信子(吉行和子)は、家族と一緒に最後の時は自宅で過ごしたいと強く思っている患者でしたが、孫に使う薬草を探しに黙って出かけてしまいます。そして帰りに、徹が指導して小田が運転する電車に乗り合わせます。しかし、落雷のため送電が止まってしまい、山肌の斜面の場所で電車はストップしてしまうのです。
徹の連絡で、佐和子が現場に駆け付けますが、救急車が近づけないため佐和子は斜面をよじ登って電車に乗り込み、信子の応急処置をするのでした。佐和子は母親を病院で亡くしたことの後悔と、自分も一時ガンを疑われたことで、強い覚悟を持って復職したのです。徹は、本当の佐和子の姿を始めて理解し、やっと佐和子や自分がこれからどのように生きて行けばいいのかの答えを見つけた気がしました。徹は離婚届を役所に提出し、自分と佐和子の結婚指輪を投げ捨てるのでした。
もちろん、ちゃんとハッピーエンドですからご安心を。指輪を捨てちゃったときは、こりゃ思い切った展開だと思いましたが、なかなかうまい着地点を用意したものだと感心します。
自分も含めて男というのは、どこかで家族のために自分が頑張るという気持ちが強く、いつの間にか家族の事が見えなくなっているものです。それを「男は理性、女は衝動」みたいな言い訳をして、自分を正当化しているところは少なからずあることは間違いない。
電車の運転士という仕事も、一度走り出したら何があっても投げ出すことができないというところは、ある意味医療の仕事と似ている部分があります。主人公は妻が同じような立場になったことで、自分の姿を家族がとのように見ていたかが初めてわかったのかもしれません。
今回もローカル鉄道が舞台ですが、都会から引退した車両などを大事に整備し続けて走らせるところは、地方の鉄道の厳しい事情が垣間見えます。しかし、だからこそ車両に対する愛情は、ドラマとしての深みを与えています。美しい風景と共に、名作とは言えないかもしれませんが、心に残る作品になっていると感じました。
このシリーズは、2018年に第3作として「かぞくいろ RAILWAYS わたしたちの出発」が作られています。こちらは九州のオレンジ鉄道が舞台で、有村架純が女性運転士を目指す話になっています。
2025年3月15日土曜日
RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語 (2010)
これはその第1作目にあたり、島根県出身の錦織良成監督にとっても「島根三部作」の最後を飾る作品となりました。主として松江から出雲大社の間を走るローカル鉄道である一畑電車(通称バタデン)が全面的に協力して、四季折々の美しい風景を織り込みながら良質なヒューマンドラマに仕上がっています。
東京の大手企業の経営企画室長を務める49歳の筒井肇(中井貴一)は、会社命の生活で家族との関係もギクシャクしていました。そんな折、島根で一人暮らしをしている母親の絹代(奈良岡朋子)が倒れてしまいます。さらに同期入社の親友が事故で急死の知らせを聞き、肇は今の自分の生き方に疑問をもち、こどもの頃は家のすぐ近くを走るバタデンの運転手になることが夢だったことを思い出すのです。
肇は夢を叶えられる最初で最後のチャンスなのかもしれないと思い、会社を退職し一畑電車の運転手に応募するのです。妻の由紀子(高島礼子)は、ハーブティーの店を始めて、軌道に乗りかけていました。由紀子は自分はこのまま東京に残るけど、あなたは自分では気がつかないところで息切れしていたからと応援してくれました。
就活中の娘の倖(本仮屋ユイカ)は、休みのたびに島根を訪れ祖母を見舞います。話をしていても時計ばかり見ている父親をうっとうしく思っていましたが、変わっていく父親を見て少しずつ会話が増えていきました。
肇と同期で研修を受けた宮田(三浦貴大)は、高校球児でプロ入り目前でしたが肘の故障で夢を断たれしかたがなく運転手に応募したのです。事情を知ると、肇は自分が何故この年になって運転手を目指したのかを話をして、元気づけるのでした。
運転手の仕事に慣れてきた頃、宮田が運転席に座らせてあげたことがある小学生が、肇と宮田がちょっと目を離したすきに電車を動かしてしまいました。あわてて肇がブレーキを掛けたので、大事には至りませんでしたが、責任を取って肇は退職願いを提出するのでした。
ふだん仕事を理由にして、いろいろなことから意識的に、あるいは無意識に逃げている自分というのは少なからず誰にでも当てはまることかもしれません。そして、そのことによって何か大事なものを失っていくことに気がつくことはめったにないように思います。
この主人公はそこに気がついた。とんでもなくドラマチックなことが起こるわけではありませんが、より豊かな生き方を見つけることができて、それを実践できたのはとても幸せな事だと思います。こういうまじめ一筋のサラリーマンは中井貴一は適任で、このキャスティングだけでもう映画は完成したようなもの・・・というのはさすがに言いすぎかもしれません。
それにしても、こどもが運転してしまうという重大な不祥事を起こし社長が記者会見で謝罪するという場面があるにもかかわらず、実名で登場する一畑電車には頭が下がります。実在する電車が登場するからフィクションでもリアリティが増してくるわけで、会社の英断には拍手を送りたいと思います。
2025年3月14日金曜日
霧だけど・・・
前の日に本降りの雨・・・
昨日の朝は、とんでもないぐらいの霧が発生しました。
高原の朝みたい・・・なんて、のんびりしたことを言っている場合じゃない。この場所は、左側が田んぼなので、霧が出やすい場所ですが、こんなに見えないことは初めて。
道の先が見えないので、視界は100m程度でしょうか。でも、先に進むと、数10m先がよくわからないというところもありました。
時速40km/hだと、車の停止距離はだいたい20mと言われています。対向車も40km/hなら、40mくらいの視界が無いと衝突する危険があるということ。
こういう時は、とにかく安全第一。下手したら雪より怖いかもしれません。
2025年3月13日木曜日
青天の霹靂 (2014)
場末のマジックバーで店員をしている轟晴夫(大泉洋)は、手品の腕は悪くないのに口下手のために、後輩がテレビに出てちやほやされているのを苦い思いで見ているしかありませんでした。晴夫はラブホテルの清掃員だった父親の正太郎の手によって育てられ、母親は晴夫を生むと子供を置いて出て行ってしまったということで、ろくな生活をしてこなかったのです。その父親とも、高校を卒業してから一度も顔を合わせていません。
ある日、警察から河原でのたれ死にしていたホームレスが、晴夫の父親、轟正太郎であることが分かったので遺体を引き取りに来てほしいと連絡を受けます。お骨を持って河原に立ち寄った晴夫は、突然の雷に打たれ気を失ってしまうのでした。
気がつくとそこは何と昭和48年、自分が生まれる1年前の東京でした。困っていると通りかかった手品好きの少年に連れられて、演芸場である雷門ホールに案内され、晴夫は支配人(風間杜夫)に手品を見せます。スプーン曲げに興味を持った支配人は、相方が姿を消してしまった悦子(柴咲コウ)に助手をさせて晴夫を舞台に出させるのです。
これが好評で軌道にのったかに見えましたが、悦子が妊娠していることがわかり、父親は姿を消していた相方、手品師の轟正太郎(劇団ひとり)であることが判明します。支配人は、戻ってきた正太郎と晴夫を組ませて、喧嘩しながら手品を見せるようにしたところ、これも人気になりました。
正太郎と晴夫はテレビのオーディション番組に応募して勝ち進みますが、悦子が倒れてしまいます。医者から胎盤早期剥離で、母子ともに危険な状態と聞かされた正太郎はテレビの決勝を辞退してしまいます。悦子が分娩室に入っていったとき、晴夫は一人で決勝の舞台に立ち、一世一代のマジックショーを始めるのでした。
まずキャスティングが絶妙です。バラエティでおおはしゃぎするイメージが強い大泉洋ですが、映画となると実に人間臭い演技がうまい。ここでも、将来に希望が持てない売れない手品師、そしてその根っこにある母親に捨てられたという生きる意義を見出せない男を見事に演じています。気丈な芸人の妻を演じる柴咲コウも、この役にぴったりです。
劇団ひとりはフィクションとして小説を書いているわけですが、実際に昭和の時代までは浅草あたりの場末には売れることを夢見る芸人が山ほどいて、ヒントになるような夫婦が実在していたのかもしれません。劇団ひとりが実際に体験してきたはずはありませんが、そのようにがむしゃらに生きていた人々に対するリスペクトみたいなものが感じられます。
過去にタイムスリップして、自分の出生の謎を解き明かすというファンタジーですが、いろいろな形の家族、親子の関係の一つとして救いを見つけることができるストーリーは素晴らしい。映画監督としての劇団ひとりの評価は可も無し不可も無しというところかもしれませんが、俳優たちに恵まれて合格点の監督デヴューと言えそうです。
2025年3月12日水曜日
こんにちは、母さん (2023)
隅田川沿いの向島で細々と足袋屋を営む神崎福江(吉永小百合)は、近所の人たちとホームレス支援のボランティア活動を行っていました。頑固だった足袋職人の父親との折り合いが悪く早々に家を出た息子の神崎昭夫(大泉洋)は、企業の人事部長でリストラにも関わるストレスの高い立場で、妻とも別居中という悩みも抱えています。
たまたま久しぶりに昭夫は実家訪ねると、娘の舞(永野芽郁)が母親のもとから飛び出して福江の元に居ついていました。昭夫は舞から、福江はボランティア仲間の牧師をしている萩生(寺田聰)のことが好きなんだと思うと聞かされ驚きます。
そして同期入社の友人、木部(宮藤官九郎)がやって来て、自分がリストラ対象だということを何故黙っていたと昭夫に詰め寄るのです。昭夫は立場上言えなかったが、できるだけ木部が会社に残れるように動いていたと説明しますが、木部は聞く耳を持たず「絶交だ」と言い捨てて出て行ってしまいます。福江は何とかしてあげるのがともだちだろと言いますが、昭夫は組織の中では簡単なことではないというしかありませんでした。
萩生にコンサートを誘われた福江は、久しぶりの楽しい一時を過ごしますが、その後で萩生から「実は、北海道の教会に転勤になる。他の人から聞くのではなく、自分の口からあなたに話したかった」と伝えられるのです。一方、希望退職を拒否した木部は閑職に追いやられ、会議に無理矢理出ようとして上司にケガをさせてしまい懲戒解雇になることが決まってしまいます。
昭夫は離婚を決意し、木部の事も人事部長決済で通常の退職として処理するのでした。役員会での決定事項を独断で無視した昭夫は、責任を取って会社を去るしかありませんでした。実家に戻ると、「失恋」した福江は珍しく一人で酒を飲んでいました・・・
福江は亡き夫が残した足袋屋を守らないといけないしがらみを背負い続けています。ボランティアも、ある意味福江にとっては自由への憧れだったのかもしれません。昭夫は妻との関係が崩れ、会社と友人の板挟みになってしまう。舞は両親の間で入って悩み、福江の元に逃避している。
現代を舞台にしていますが、どの時代でも、どの世代でもそれぞれの悩みを抱えて人が生きていること。そして母と息子、父と娘といった、山田監督がずっとテーマに掲げてきた「家族」の在り方を描いた作品ということだと思います。それをどう感じ取るかは、人によって様々だとは思いますが、少なくともいろいろな不平不満も受け入れてくれるのが家族という関係なのかなと思いました。
にぎやかな大泉が、落ち着いた演技をするのも見所で、ハイテンションの宮藤官九郎が対照的に演出されています。ちょっと気になったのは、ホームレスのイノさん(田中泯)の存在。物語の中で、役割がよくわかりませんでした。せっかくの大物登場なんですが、もう少し深い関りが描けてもよかったかもしれません。
それしても、娘、母親を通り越して"大スター"吉永小百合をお婆さんにしてしまったのは、さすが山田監督。しかも老いらくの恋をさせて振られてしまうという、こんな吉永小百合は見たくないと思うか、人間らしさが前面に出て好感を持つか、あなたはどっち?
2025年3月11日火曜日
ディア・ファミリー (2024)
町工場を経営している坪井宣政(大泉洋)は、妻の陽子(菅野美穂)、長女の奈美(川栄李奈)、次女の佳美(福本莉子)、三女の寿美(新井美羽)の5人暮らし。しかし、心臓疾患を抱える佳美は幼い頃に20歳まで生きられないだろうと宣告されていました。佳美中心の生活に、奈美も寿美も文句も言わず協力的でしたが、家族としての楽しみには多くの制約が伴っていました。
アメリカで人工心臓が開発されたニュースを聞いた宣政は、佳美を救える望みを抱き、大学や研究室を巡って情報を集め出すのです。東京都市医科大学心臓研究所を訪れた時、自分の工作の知識が人工心臓の開発に応用できると感じた宣政は、貯えてきた私財を投げうって研究所に協力して人工心臓の開発を始めます。
しかし、アメリカでの臨床試験が失敗したことを受けて、それまで協力的だった石黒教授(光石研)は、態度を変え宣政の出入りを禁止してしまいます。絶望する宣政は佳美に「絶対に助ける」という約束を守れないかもしれないと告げるのですが、自分の隣に入院していた少女が亡くなったことで、バルーンカテーテルさえあれば助けられたことを伝え、自分の代わりに多くの命を救ってほしいと言うのでした。
当時は心臓カテーテルで用いられるバルーンカテーテルは輸入した物しかなく日本人の体格には適合せず成功率はかなり低かったのです。人工心臓には否定的だった研究室の富岡(松村北斗)は、宣政の熱意にうたれ日本人のためのカテーテル製作に協力するのでした。
実話をもとにしていますので、感動することは間違いない。佳美はカテーテルでは自分が助からないことをわかった上で、父親の必死の努力が報われる方向に導くのは並大抵の心の持ち主ではありません。何とか成人式は祝うことが出来ましたが、その後に亡くなってしまいます。しかし、現実に宣政が開発したバルーンカテーテルは多くの患者の命を救うことに繋がったのです。
映画では、おそらくドラマ的なフィクションは混ざっているのではないかと思いますが、大筋は実話通り。そのまま映像化すると、かなりベタな展開になってしまいそうですが、そのあたりは脚本の上手さのせいか素直に見ることができました。
ただし、宣政が功績をたたえられ叙勲する場面で、宣政を積極的に取材する女性記者(有村架純)が登場してくるところだけは、やや不必要な付け足しに感じられます。このシーンがあるために、宣政が佳美を救えなかった後悔を和らげようとしているのだと思いますが、感動の上乗せになっているかもしれません。