2017年11月28日火曜日
クリスマス・シーズン開幕
日本列島各地で、クリスマスツリーの点灯式というイベントが行われ始めました。
人集めが目的みたいなところがありますから、かなりフライング気味でも、まぁしょうがないかというところ。
実際のところ、クリスマス・・・イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教のイベントですから、キリスト教徒でないと関係ない。
・・・はずですが、そこに乗っかるからには少なくともキリスト教に少しは敬意を払いたいもの。
11月30日の聖アンデレの日に最も近い日曜日から12月25日の誕生日までの4週間が待降節(たいこうせつ、アドベント)と呼ばれ教会歴の始まりで、キリスト誕生を祈って待つ期間になります。
今年は始まりが最も遅い年にあたり、12月3日がその始まりです。4回の日曜日の機関を静かに待ち続け、25日の誕生で喜びを爆発させるというもの。
ツリーは12月3日まで待てとまでは言いませんが、そのあたりのことくらいは知っておきたいものだと常々思うことしかり・・・
こちらはスシローのツリー・・・ではなくて、あざみ野ガーデンズの生木電飾。高さは25mくらいでしょうか。昔は、電球の熱で木が傷むためダメでしたが、LEDが普及して気楽に派手に飾り付けされるようになりました。
2017年11月27日月曜日
古事記 (14) 悲劇の倭建命
ヤマトタケルは記紀の中で、特に天皇中心の記述をする中つ巻以後、天皇ではないにも関わらず最も多くのページがさかれている「人物」です。
また、現在では明らかな特定の個人ではなく、各地に残る伝説を集大成した英雄像との見方が一般的です。そして、基本的なエピソードは共通なのにもかかわらず、記紀の違いが際立つところが特徴的。
古事記では、勇猛果敢なイケメンですが、父親の景行天皇にうとまれ、僻地での戦いの中で孤独に死んでいくという悲劇のヒーロー。
最初に登場するときの名前は小碓命(オウスノミコト)、またの名は倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)です。兄の大碓命(オオウスノミコト)は、父景行天皇のお気に入りの女性を横取りしましたが、父はぐっとこらえていたようです。
ある時、オウスは景行天皇から「オオウスは毎日の食事に出てこない(天皇への反抗?)から様子を見てこい」と言われます。見てこいというのを「正してこい」と考えたオウスは、何とオオウスを惨殺してしまいます。景行天皇は、その凶暴さを恐れ、「西の地の熊曾建(くまそたける)兄弟を征伐しろ」と命じます。時にオウスことヤマトオグナ、16歳でした。
ヤマトオグナは伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から女物の着物を借りて九州に向かいます。そして、宴席に女装して紛れ込み、兄熊曾を刺し殺し、さらに弟に剣を向けます。弟は、「我々兄弟よりも強いあなたに健の名を差し上げます」と言い残して切り殺されました。そこでヤマトオグナは倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになりました。
各地を平定しながら帰京する途中で、出雲建(いずもたける)を友人になった振りをして、だまし討ちにします。戻った途端に天皇は、今度は「東の地の服従しない連中をやっつけてこい」と指令します。ヤマトタケルは、再び伊勢に寄り「父は自分に早く死んで来いと思っています」とヤマトヒメに嘆きます。ヤマトヒメは草那芸剣(くさなぎのたち)と火打石を授けました。
相武国(さがむのくに、相模国、つまり神奈川県)についた時、国造に騙され野原で火を放たれますが、ヤマトタケルは火打石で向火を放ち、草那芸剣で薙ぎ払いながら窮地を脱し返り討ちにしました。続いて走水の海(東京湾)で海が大荒れになりましたが、妃が身代わりとなり入水して無事に渡り切ることができ、ずいぶんと悲しんだようです。
上総国(筑波)で荒ぶる者どもを平定して目的を達したヤマトタケルは、足柄、甲斐、科野(信濃)、尾張を通って伊吹山(米原)まで戻ってきます。そこで神の化身である白い猪から氷雨を浴びせられ体調を崩してしまいます。
能煩野(のぼの、三重県)までやっとのことでたどり着きましたが、ついに息を引き取るのでした。墓を作り埋葬したところ、ヤマトタケルは大きな白鳥となって手に向かって飛び立っていきました。古事記の景行天皇の章は、この後は137歳で亡くなったことを記して終わります。
いや、これは、もう・・・完璧なドラマです。なかなか、これだけ壮大な物語は作れるものではありませんが、だからといって実話であるはずもなく、いやいやたいした創作能力です。そういう意味では、日本書紀だとずいぶんとつまらない。基本的に、天皇讃歌の立場を貫いています。
日本書紀のあらすじは、そもそも出生からして違う。大碓・小碓は双子の兄弟で、兄殺しの話はありませんが、オオウスが天皇の女を横取りするのは同じ。熊襲征伐の西征は一度天皇自ら成し遂げた12年後に、再度盛り返してきたためコウスが派遣されることに。女装して討伐は同じ。出雲建の話は無し。コウスは天皇から褒められ可愛がられます。
東征は最初オオウスに指令が下りますが、オオウスは逃げ出してしまったため、結局ヤマトタケル(日本書紀では日本武尊)が自らすすんで行くことになります。使命を成し遂げ、帰路で出会うのは猪ではなく蛇。氷雨で痛めつけられ、亡くなったときは30歳。天皇は嘆き悲しみ、埋葬されると白鳥になって飛んでいくのは同じ。数年後、天皇はヤマトタケルの足跡を巡礼しています。
日本書紀での二人の関係は、子を誇りに思う父と父に忠誠を誓う息子で、理想の親子として描かれ、ドラマとしての面白みはありません。記紀のどちらが本当なのか、どちらも嘘なのか、あるいはどのような事実がベースになっているのか、大変興味深いところです。
第13代の成務天皇は記紀ともにほぼカット。第14代の仲哀天皇は少しだけ触れられますが、話の主人公は仲哀天皇の后、神功皇后に移っていきます。
また、現在では明らかな特定の個人ではなく、各地に残る伝説を集大成した英雄像との見方が一般的です。そして、基本的なエピソードは共通なのにもかかわらず、記紀の違いが際立つところが特徴的。
古事記では、勇猛果敢なイケメンですが、父親の景行天皇にうとまれ、僻地での戦いの中で孤独に死んでいくという悲劇のヒーロー。
最初に登場するときの名前は小碓命(オウスノミコト)、またの名は倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)です。兄の大碓命(オオウスノミコト)は、父景行天皇のお気に入りの女性を横取りしましたが、父はぐっとこらえていたようです。
ある時、オウスは景行天皇から「オオウスは毎日の食事に出てこない(天皇への反抗?)から様子を見てこい」と言われます。見てこいというのを「正してこい」と考えたオウスは、何とオオウスを惨殺してしまいます。景行天皇は、その凶暴さを恐れ、「西の地の熊曾建(くまそたける)兄弟を征伐しろ」と命じます。時にオウスことヤマトオグナ、16歳でした。
ヤマトオグナは伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から女物の着物を借りて九州に向かいます。そして、宴席に女装して紛れ込み、兄熊曾を刺し殺し、さらに弟に剣を向けます。弟は、「我々兄弟よりも強いあなたに健の名を差し上げます」と言い残して切り殺されました。そこでヤマトオグナは倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになりました。
各地を平定しながら帰京する途中で、出雲建(いずもたける)を友人になった振りをして、だまし討ちにします。戻った途端に天皇は、今度は「東の地の服従しない連中をやっつけてこい」と指令します。ヤマトタケルは、再び伊勢に寄り「父は自分に早く死んで来いと思っています」とヤマトヒメに嘆きます。ヤマトヒメは草那芸剣(くさなぎのたち)と火打石を授けました。
相武国(さがむのくに、相模国、つまり神奈川県)についた時、国造に騙され野原で火を放たれますが、ヤマトタケルは火打石で向火を放ち、草那芸剣で薙ぎ払いながら窮地を脱し返り討ちにしました。続いて走水の海(東京湾)で海が大荒れになりましたが、妃が身代わりとなり入水して無事に渡り切ることができ、ずいぶんと悲しんだようです。
上総国(筑波)で荒ぶる者どもを平定して目的を達したヤマトタケルは、足柄、甲斐、科野(信濃)、尾張を通って伊吹山(米原)まで戻ってきます。そこで神の化身である白い猪から氷雨を浴びせられ体調を崩してしまいます。
能煩野(のぼの、三重県)までやっとのことでたどり着きましたが、ついに息を引き取るのでした。墓を作り埋葬したところ、ヤマトタケルは大きな白鳥となって手に向かって飛び立っていきました。古事記の景行天皇の章は、この後は137歳で亡くなったことを記して終わります。
いや、これは、もう・・・完璧なドラマです。なかなか、これだけ壮大な物語は作れるものではありませんが、だからといって実話であるはずもなく、いやいやたいした創作能力です。そういう意味では、日本書紀だとずいぶんとつまらない。基本的に、天皇讃歌の立場を貫いています。
日本書紀のあらすじは、そもそも出生からして違う。大碓・小碓は双子の兄弟で、兄殺しの話はありませんが、オオウスが天皇の女を横取りするのは同じ。熊襲征伐の西征は一度天皇自ら成し遂げた12年後に、再度盛り返してきたためコウスが派遣されることに。女装して討伐は同じ。出雲建の話は無し。コウスは天皇から褒められ可愛がられます。
東征は最初オオウスに指令が下りますが、オオウスは逃げ出してしまったため、結局ヤマトタケル(日本書紀では日本武尊)が自らすすんで行くことになります。使命を成し遂げ、帰路で出会うのは猪ではなく蛇。氷雨で痛めつけられ、亡くなったときは30歳。天皇は嘆き悲しみ、埋葬されると白鳥になって飛んでいくのは同じ。数年後、天皇はヤマトタケルの足跡を巡礼しています。
日本書紀での二人の関係は、子を誇りに思う父と父に忠誠を誓う息子で、理想の親子として描かれ、ドラマとしての面白みはありません。記紀のどちらが本当なのか、どちらも嘘なのか、あるいはどのような事実がベースになっているのか、大変興味深いところです。
第13代の成務天皇は記紀ともにほぼカット。第14代の仲哀天皇は少しだけ触れられますが、話の主人公は仲哀天皇の后、神功皇后に移っていきます。
2017年11月26日日曜日
古事記 (13) 欠史八代~崇神~垂仁
神武天皇が即位したのは、日本書紀には辛酉年と書かれていて、これが弥生時代早期の紀元前660年になるということで、現在「日本」の成立として「紀元節」と呼ばれる所以であり、ギネス記録で世界最古の王朝とされています。
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、古事記での呼び名。日本書紀では、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)と呼び、これを和風諡号(しごう)といいます。
神武天皇と呼ぶのは、崩御後につけられる漢風諡号というもので、記紀の成立した段階で使われていたものではありませんが、短くて使いやすい。
日本書紀によれば、神武天皇は76年間の治世があった・・・のですが、東征のエピソード以外ほぼ白紙。亡くなったのは127歳(古事記では137歳)というのは、やはり常識的に無理がありそう。
大正時代に津田左右吉が「神武天皇は事実にもとにしたものではなく神話の一部」と発表し、皇室を冒涜したとして有罪になりました。現在まで実在については結論はでていませんが、津田学説をもとにして、おそらく4世紀ごろの天皇の誰かをモデルにして、記紀編纂時にいろいろな逸話から創作されたという意見が主流です。
さらに神武天皇に続く、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、考安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開花天皇までは古事記ではまったく触れられていないため、これらを欠史八代と呼びます。
日本書紀でも、父子の直系で即位し、都の場所、皇后の紹介、崩御した年などが記録的に羅列されているだけで、不自然に長寿だったりします。ですから紀元前600年と、大和王権が成立する4世紀との間を埋めるための創作と考えられています。
その中で、古事記では、神武天皇が即位後に新たな皇后を迎え子を授かったことに触れられています。となると、日向時代に妻子がいたわけですから、ここに昼メロ的ドロドロの事態が発生している。
美しい勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ、オオクニヌシの分身と考えられる)が惚れてしまい、トイレで矢に変身して陰部に突き刺さっていった・・・という、何ともR18な話。
そこで生まれたのが伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)で、神武天皇の皇后になり3人の子をもうけました。神武天皇崩御後、先妻の子が天皇の座を狙ってイスケヨリヒメに接近するも三兄弟の末っ子によって倒されました。
第10代となるのが崇神(すじん)天皇で、その治世に疫病が発生。すると、またもやオオモノヌシが夢枕に登場し、この災いは自分を大事にしないからだから、意富多多泥古(オオタタネコ)を探し出し自分を祀らせなさいと言います。オオタタネコによって祭礼を行ったところ疫病はおさまりました。
以前、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに夜な夜な通ってくる若者がいて、いつの間にか身籠ってしまいます。親が相手の正体を知りたくて、娘に糸巻の麻糸の端を帰り際に相手の衣につけるようにいいます。翌朝、糸を追いかけていくと、三輪山の神社にたどり着き、残った糸は糸巻に三巻きだったので三輪山といい、相手の若者はオオモノヌシだったという・・・
オオクニヌシの頃からプレイボーイ振りは健在だったという話で、これが「三輪山伝説」と呼ばれていますが、実はオオタタネコはオオモノヌシとイクタマヨリビメの曾孫の子、つまり玄孫でした。あらためて、天皇家と三輪山の関係を強調することになります。
日本書紀には、オオモノヌシの言葉を崇神天皇に伝えたのはオオモノヌシの妻だった、天皇の叔母、百襲姫(ももそひめ)と書かれています。神のお告げを伝える役どころから邪馬台国の卑弥呼の候補の一人になっています。
疫病が落ち着いてからは、各地に兵を出し、抵抗勢力を制圧し国は安定し発展、民も豊かになり大和王権の基礎が確立しました・・・なんですが、崇神天皇は168歳で崩御という、やはり嘘っぽい話で終わります。
崇神天皇の子が第11代の垂仁(すいじん)天皇で、こちらも亡くなられたのは153歳。その第三子が第12代の景行天皇であり、その子が古事記のヒーローの一人、ヤマトタケルです。
2017年11月25日土曜日
古事記 (12) 神武天皇と八咫烏
熊野の山の中からどうやって抜け出すのか困ったイワレビコでしたが、そこへ登場するのがタカギが道案内として送った八咫烏(やたがらす)でした。
お陰で、イワレビコは、八咫烏について無事に吉野にたどり着きました。各所で国つ神の服従を誓わせながら宇陀まで来ると、宇迦斯(うかし)兄弟は八咫烏に矢を放ち抵抗しますが、勝ち目はないと考え御殿を作って歓迎します・・・と見せかけて、御殿の中に罠を仕掛けます。
ところが弟は兄を裏切って仕掛けをイワレビコに教えたため、イワレビコは兄にまず自分から御殿に入るように仕向け、兄は自らの罠によって死んでしまいます。
忍坂の大室(奈良県)では、荒々しい八十建(やそたける)らを料理で振る舞うふりをしてやっつけちゃいます。そして、ついに生駒山に到着し、今回は太陽を背にして、那賀須泥毘古(ながすねびこ)を倒します。
このあたりの古事記の記述はあっさりで、しかもここで唐突に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が登場し、「天孫に続いて天下って来ましたが、これからはあなたに仕えます」と宣言し、周りの反抗する神を説得しました。
ついにイワレビコは、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)で、天下平定を成し遂げ王として即位します。これが、後に天皇と呼ばれるようになったわけで、イワレビコはその初代に数えられることになりました。
まず、八咫烏・・・って、実は今もけっこう活躍している。サッカー日本代表のシンボルマークになっています。天武天皇が、毬蹴が好きだったらしいということからのようで、ゴールへ導いてねという願いが込められています。
咫は長さの単位で1咫は約18cmですから、八咫烏は羽根を広げて144cm・・・って、さすがにそんなに大きいのはないでしょう。もう一つの特徴は、普通は4本ある足の指が3本ということらしい。今でも熊野では神様の使いとしてカラスは尊ばれています。
次にナガスネヒコですが、ある意味イワレビコ最大のライバルにしては、古事記の記述は少ない。そこで、ニギハヤヒのことも含めて日本書紀の記述も参考にして、もう少し状況を整理しましょう。
イワレビコは、何度もナガスネヒコに攻撃を仕掛けますが苦戦。すると金色の鵄(とび)がやってきて、イワレビコの弓の先端にとまり強烈な光を放ちナガスネヒコの軍の戦意を喪失させました。
ナガスネヒコは、「天つ神のニギハヤヒが降臨し、妹を娶ったので、自分は仕えている。なのに、あんたも自分は天つ神の子と名乗り人の地を奪おうとする。嘘つきだ」と言いました。
証拠を見せろとイワレビコが言うと、ナガスネヒコはニギハヤヒの天羽羽矢(あめのははや)と步靫(かちゆき、矢を入れる筒)を取り出しましたが、それはイワレビコのものと同じでした。それでもナガスネヒコはここまできたら今さら戦いを止められないと言います。
天つ神の御心を理解しているニギハヤヒは、なんと自ら強情なナガスネヒコを殺してしまいました。ニギハヤヒは、イワレビコを本物として認め仕えることになりました。イワレビコもまたニギハヤヒが天下ったものであることを認めました。
そもそもそイワレビヒコの東征のきっかけに、ニギハヤヒのいる東が素晴らしいところだということがありました。つまり、イワレビヒコは実は元々その存在を知っていたわけで、あえて奪いに来た確信犯ということになる。
神武天皇の存在はずっと疑われていて、日向の地から大和へ権力の移動を説明するための創作という意見も多い。天皇制度の正当性を主張することが最も重要な目的としている記紀では、わざわざ書く必要はないエピソードであり、その裏側にある意味がはっきりすると建国の歴史が大きく変わるようなことかもしれません。
2017年11月24日金曜日
古事記 (11) 神武天皇の東征
古事記上つ巻の最後の復習。
天孫降臨の主役、ニニギの三男が山幸彦で知られるホオリ。ホオリの孫が4人いて、上から五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)。
何故か、次男は母をいる海の国へ、三男は常世国に行ってしまい、これ以上話には絡みません。中つ巻は長男と四男の話から始まります。
特に、最初の話の主役・・・というか、人代編のスタートとして最重要人物になるのが四男のワカミケヌですが、別名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、後世に初代天皇として神武天皇と呼ばれる方。
高千穂の宮で、イッセとイワレビコは天下を取るにはどうすればいいか相談している。日本書紀には、この時45歳ですでに既婚、一人の子持ちと書かれていて、ここで家臣に向かって演説するですね。
「ニニギ様の降臨以来、179万年(!!)が経ったが、いまだに国土は統一されず争いがつづいている。東の地に、天磐船(あまのいわふね)により降臨した饒速日(ニギハヤヒ)がいるというので、そこで都を作ろう」
古事記では、あっさりと「やっぱ東の方だということになって、早速旅立ことにしました」くらいのことになっています。これが世に言う有名な「神武東征」の始まりです。
実は、このニギハヤヒは、ちょっと問題。ほとんど説明がないけど、実は高天原から降臨したニニギ以外の人物がいることを匂わせているわけです。
とりあえず、古事記の記載に従ってルートを確認していきます。日向を旅立ち、筑紫を通って豊国(大分県)の宇佐へ。また筑紫に戻って岡田宮に1年間滞在。続いて阿岐国(安芸国、広島県)の多祁理宮(たけりのみや)に7年滞在し、さらに吉備(岡山県)の高島宮に8年。
・・・って、最低ここまで16年かかっとるやないか。還暦すぎちやったんですけど。天下を取りにいくにしては遊びすぎ・・・なのか、それとも各地でよほどの抵抗を受けたのかもしれません。ここからは船の旅で、浪速の渡しをを経て白肩の港に到着します。
そこには地元の那賀須泥毘古(ながすねびこ)の軍勢が待ち構えていたので、イワレビコは楯を手に船から降り立ちました(だからその土地を今でも楯津と呼びます)。しかし、兄のイッセは敵の矢を受けて負傷し、退却を余儀なくされます。
イッセは、「アマテラスの子孫の我々が太陽に向かって戦ったのがいけなかった」と反省し、太陽を背にするように迂回しようということになり、紀国(和歌山県)の男の水門(おのみなと)についた時に亡くなります。
兄を失ったイワレビコは熊野に到着した時、出てきた熊の毒気により気を失います。さぁ、どうなるイワレビコ・・・って心配する必要はないんです。何たって天つ神の子孫ですから。
案の定、イワレビコの危機を察知した高天原のアマテラスとタカギは、オオクニヌシの国譲りで登場した力自慢のタケミカズチに相談します。タケミカズチは、立派な太刀を熊野の高倉下(たかくらじ)という人物の夢枕ごしに渡しました。
高倉下が太刀を持って駆けつけると太刀をかざすと、イワレビコをはじめ軍勢は目を覚まし、毒気を放った熊は死んでしまいました。さて、進軍を再開と思いましたが、周りには敵がたくさん。どうやって進むか困ってしまいました。
2017年11月23日木曜日
記紀から知る新嘗祭
現代では毎年11月23日は、勤労感謝の日として国民の休日にあたります。今までにも、話題にしたことは何度もありましたが、実は本当の意味は知らずにいました。
今でも毎年この日は皇居では、新嘗祭(にいなめさい)と呼ばれる重要な儀式が行われています。その年の豊作に感謝し、天皇が新米などの五穀を食する収穫祭だそうです。特に即位後、最初の新嘗は大嘗祭(だいじょうさい)と呼びます。
戦前までは、祝日の名前として新嘗祭が用いられていましたが、戦後に天皇崇拝を弱めたいGHQの意向で、一般には勤労感謝の日と呼び名を変えたもの。
古事記では、高天原でやりたい放題のスサノオが、くそを撒き散らしたアマテラスの食事をする場所を、大嘗之殿と呼んでいます。一番古い起源はここにあるのかもしれません。
天孫降臨神話における、アマテラスからニニギへの稲穂の実る中つ国の支配権の移譲が大嘗祭に転換したという説もあります。
日本書紀には第16代、仁徳天皇の治世40年に「新嘗の月に宴会」を行ったとの記録があり、文献上初めての新嘗祭にまつわる記述です。西暦ははっきりしませんが、おそらく4世紀半ばのこと。
第35代、皇極天皇は、西暦642年に始まり、その元年11月に、「丁卯、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗」とあります。これは「11月16日、天皇は新嘗を行った。同日、皇子、大臣も各自に新嘗を行った」という意味で、明らかに天皇が新嘗祭を行ったという初めての記録。また677年11月21日には、天武天皇が新嘗をしたとの記載があります。
おそらく、それぞれの天皇に決まり事として伝わっていたと思われますが、定例の儀式として確実に定着していることがわかっているのは元禄時代以後のこと。
いずれにしても、勤労感謝の日は、日本人は元々稲作を中心とした農耕民族ですから、農耕という「勤労」の結果として秋に収穫できたその年の穀物に「感謝」するというのが、本来の意味。
スーパーなどでは、すでに今年の新米は流通していますが、新嘗祭までは口にしないのが基本なんだそうです。今日は、今年の恵みに感謝して、初めて新米を食べるという気持ちが大事ということ。
毎日家族のために働いているんだから、1年に1日くらい感謝してもらいたいと思うかもしれませんが、自分に感謝させるための祝日じゃありませんのであしからず。
2017年11月22日水曜日
2017年11月21日火曜日
2017年11月20日月曜日
古代史の勉強で困ること
古事記の上巻で、神代の世界の話が整理されます。この部分は、日本書紀だと全30巻の最初の2巻にまとめられ、神様の呼び名が多少違ったり、はしょられた話があったりします。
続いて人代の話に入るわけですが、古事記の中巻と下巻はあまり重視されていない。というのも、日本書紀が残りの28巻で、もっとも詳しく記載しているからです。
神代の話は再三書いてきたように、元がファンタジーの世界です。ヒントになる事実のあったかもしれませんけど、一つ一つのエピソードをすべてまともに受け止めるのには無理がある。
ですから、研究者の想像に任せるしかありませんので、もう解釈の仕方はいろいろ。多少の考古学的な物的証拠と合わせて、客観的に論を進める人もいれば、まったく荒唐無稽な仮説を展開する人もいる。
文学として学ぶなら何でもいいのですが、自分の場合、理系人間の端くれで、古代史としてきちんと納得できる話を知りたいし、わからないことはわからないとはっきりさせておきたい。
とは言っても、神代についてはある程度あきらめがつく。何しろ、神様が主役ですから、何でもありです。古代日本の基本的な思想の原型だと思って、かえってあっけらかんとした世界観を楽しめばいいと開き直れます。
問題は人代です。これは困った。何しろ現代まで続く、「万世一系の天皇家」の物語になるわけですから、ファンタジーではすませられない。
とにかく研究者の中でも、いろいろな説が多すぎて、素人からするとそのどれもがもっともらしいのですが、実はいずれも確定的な証拠があるものはきわめて稀という印象です。
理系の研究は、まず予想される結果を想定して仮説を立て、実験という手技によって仮説を証明することで事実と認定されます。古代史については、同じように仮説を証明するのですが、実験できるわけではないので、文字の記録や発掘物から矛盾しない状況証拠を探し出すしかない。
ところが、そもそもその状況証拠も、仮説の上に成り立っているわけですから、延々と仮説の連続で、もう研究者の信念としか言いようがないところがある。
とくに、記紀などの文献を中心に考える歴史学者と、発掘物から考える考古学者との間の深い溝はかなりのものだと思いました。とにかく古代史研究者お互いの批判合戦は、かなり熾烈な戦いで、ネットなどでも、名指しで著作物を徹底的に批判するみたいなことは日常茶飯事のようです。
特にヤマト王権が成立していく3~5世紀あたり、つまり弥生時代末期から古墳時代の話となると、記紀の記述も曖昧で、研究書も魑魅魍魎の百鬼夜行の如くで、どれをとっても賛否両論が半々です。賛成派はもう信者に如く褒め讃えるし、否定派は鬼の首を取ったかのように攻撃する。
文献については、思想的な背景のもとに意図的に作り出されたらしき物もあり、何が信用できるかはっきりしない。本来は物的証拠を持ち出せる考古学側が、しっかりしないといけないのですが、実はここにも大きな問題があって、2000年に発覚した「発掘捏造事件」は記憶に新しい。
次から次へと新発見を発掘し「神の手」と呼ばれた著名な考古学者が、実はほぼすべての発見を、自分で埋めて発掘していたという驚愕的な事件です。
20数年間にわたり行われていた捏造により、それまでの旧石器時代の歴史はほぼ全滅する状況で、教科書などもすべて水泡と帰して、考古学に対する信頼は完全に地に落ちてしまいました。捏造した側もさることながら、長期にわたりそれを見抜けなかった考古学関連の学会、研究者の側にも大きな問題があると言わざるをえない。
というわけで、続いて日本書紀を中心に人代の話を読んでいきたいと思っているのですが、いろいろな資料を集めれば集めるほど、どこから整理していけばいいのかわからなくなって、迷路の中で途方に暮れている状況なんです。
とは言っても歴史は難しい。蘇我氏を滅ぼした645年の事件は「大化の改新」と教わりましたが、今は「乙巳の変」と呼び、大化の改新はその後の政治改革を指すようになりました。聖徳太子と後世に呼ばれて1万円札で長らく知られた厩戸王(うまやとおう)は、実際はそんなに立派な人じゃないというのが現在の認識。
鎌倉幕府の誕生は「いい国作る鎌倉幕府」で1192年という語呂合わせが定番でしたが、最近は「いい箱作る」で1185年に変わったらしい。江戸時代のキーワードとして重要だった「鎖国」も、限定ルートで外国と開いていたのでことばとしては使わなくなったそうです。「士農工商」も消えて、武士とその他大勢みたいなことになった。
新しい発見や解釈で変わるのが歴史ですから、理詰めで考えると、出口を見失うのは当然のことのようです。どこか肩の力を抜いて、「まぁこんなもんかなぁ」くらいの適当なところで妥協するくらいでちょうど良さそうです。
2017年11月19日日曜日
神社に参拝する時の作法
・・・って、なかなかやっかいです。
何しろ、日頃から宗教心が無いもんだから、何か願い事がある時だけ、あるいは観光で来たついでみたいなときに、何となく頭を下げているだけ。
多少ちゃんと参拝するというのは、こども七五三の時くらいでしょうか。ところが、参拝するのにも正式な手順というものがあるので、知らないよりは知っていた方がよさそうです。
まず、入り口。鳥居があります。これをくぐって入ること。横から入っちゃいけません。境内に駐車場があって、すぐ拝殿の横に行けたりする場合でも、できれば鳥居のある所まで戻りましょう。鳥居をくぐる際には、一礼すること。真ん中は神様の通り道ですから、よけて端の方から進みます。
次に手水舎について、手と口をすすぎ清めるのですが、ちゃんと約束事があります。これが、なかなか面倒で、いつも、えーっとどうするんだっけと悩むところ。
右手で柄杓を持ち一回だけ水をすくいます。最初に左手、柄杓を持ち替えて右手、また右手に持ち替えて左手の平に受けた水で口をすすぐ。柄杓に直接口をつけてはいけません。
もう一度右手に持ち替えて、左手をすすいだら、柄杓を立てて残った水を落として柄杓の柄を清めたら、元の場所に柄杓を戻します。ハンカチとかは最初に出しておいた方がよさそうです。
身を清める作業が終わったら、参道を進んで拝殿、あるいは本殿に進むわけですが、ここでも真ん中は神様の通り道であることを忘れてはいけない。
ここから願い事の一番大事なところ。まず賽銭箱。乱暴にお金を放り投げてはいけません。静かに入れましょう。
続いて、鈴があるなら鳴らします。これは、玄関のチャイムみたいなもの。ピン・ポ~ン、来ましたよ~と神様に知らせる合図です。
そしたら姿勢を正していよいよ礼拝なんですが、大原則は二拝二拍手一拝です。神様に願い事や、何か報告したいことがある場合は、拍手の後に心の中でつぶやきましょう。その時「どこどこの誰兵衛」と言うこともお忘れなく。
終わったら、静かに参道の端から戻って、鳥居を出るときにもう一度礼をして終了・・・というわけで、最低限のマナーがこんな感じなので、ちゃんとするとけっこう疲れるかも。
でも、これは簡易参拝であって、正式参拝だと玉串を捧げるので、さらにいろいろ作法が大変なことになります。でも、大丈夫。たいてい、神社の係の方がああしろここしろと教えてくれますもんね。
2017年11月18日土曜日
神社にあるもの
神社に行くと、大きくても小さくても、まず最初に目につく必ずあるのが鳥居。この鳥居は、簡単に言えば「門」ですが、俗世間と神様のいる聖域と境界を示す物。木材でできているものと、石材、場合によっては鉄などの金属でできているものもあります。
一番上の横に渡した部分が笠木と呼ばれ、左右に2本の縦の柱で支えます。そして笠木の下にもう一本、横に渡した貫があるのが基本構造。大きく分けると神名鳥居と明神鳥居の二種類。神明系は島木無しで、明神系は島木有りです。島木は笠木の直下につく横材です。
神明系の代表は伊勢の神宮。一見、神社の地図記号のように、実にシンプル。飾り気がありません。でも、実は笠木の断面は五角形をしていて特徴的。鹿島神宮、靖国神社などでも見られます。
明神系はヴァリエーションが豊富。通常は笠木の両端は上に反ってややとんがり気味なのが特徴で、八坂神社、伏見稲荷、日吉神社、厳島神社などなどで見られます。
縦の柱が上にいくほど内側に傾く場合(転び)の有無、中央で島木と貫をつなぐ額束とそこに掛けられた神社名を記す扁額(へんがく)の有無、貫が縦の柱より外側に飛び出る飛び出ないなどいろいろ。柱を支えるように前後に控え柱が付属する場合や、柱の台座となる藁座の有無などの違いがあります。
続いて、鳥居から続く参道の脇に手水舎(ちょうずしゃ)があります。水が貯めてあって、手と口を清める場所。ただ神主さんが常時いない神社では、水が止められていることが多く残念。
さらに参道を進むと、更に深い神域を示す二の鳥居、場所によっては三の鳥居があったりしますが、もう一つたいてい目にするのが獅子に似た狛犬(こまいぬ)です。
狛犬は普通は「阿(あ)」と「吽(うん)」の一対からなりますが、阿だけが二つ並ぶところも少なくありません。魔除けの役割があって、境内を守護するもの。神社によっては、狐、兎、狼などの別の動物の像だったりもします。
神社の建物が社殿ですが、一般的に祭神を礼拝したり、祭礼を執り行う場所が拝殿で、その奥に実際に際神を祀っている本殿があります。また、御神楽を奉納するための神楽殿を持つところもあります。
普通に神社にお参りしている場所は拝殿ですが、本殿と拝殿が別棟に分かれていない本殿のみのところも多い。また、古い神社で自然の山、岩、木々などを神として祀っている場合は、しばしば本殿の建物はありません。
社殿の形は複雑で、いろいろな種類に分類されるので、なかなか素人にはわかりにくい。基本的には、片方の屋根の面の下に入り口がある平入(ひらいり)と両側の屋根の間にいりぐちかがある妻入(つまいり)です。
屋根は本を開いて伏せたような形が一般的で、これを切妻造(きりつまつくり)と呼びます。屋根の端には、木材がそのまま上に飛び出した破風があり、両側から飛び出て交差した形を千木(ちぎ)といい、男神を祀る神社は垂直に切り落とし、女神を祀る神社は水平に切ります。
伊勢神宮は切妻造で平入。出雲大社は大社造りと呼ばれる、切妻造で妻入、さらに高床式になっています。割と多いのが切妻の屋根の入り口側を長めにしたものが流造(ながれづくり)で、切妻造・妻入ですが入り口に出っ張る庇がついたものが春日造と呼ばれます。
メインの神様を祀る本社とは別に、枝社、あるいは摂社・末社と呼ばれる小ささめの神社が同じ境内に付属していることがよくあります。規模はちょっと小さめから祠程度まで様々。たいていは、本社に祀る主祭神に関連がある神様が祀られています。
何を祀っているのかということと合わせて、こうやって境内の様子を見ていくと、それぞれの神社の特徴みたいなものが見えてきます。細かいことを見ていくとかなり複雑ですが、ここにあげたくらいのことをチェックできれば、お参りをしたときの楽しみがずいぶんと増すことはうけあいます。
2017年11月17日金曜日
手打ちそば おおつか @ センター南 今月2回目
連日ですが・・・大塚さんです。
もちろん、蕎麦屋ですから、蕎麦が主役・・・なんですが・・・
実は、これも他ではまず食べることができないくらいの・・・ほぼ主役級間違いなし。
鴨です。
大塚さんの鴨せいろを食べてしまうと、もう他のどんな鴨せいろも撃沈です。どうです。この厚切りの鴨。しかも、惜しげもなく、どーんと出してくれます。
醤油たれにしっかり漬け込んで、ちょうど熱が通るくらいにローストした、この鴨肉の旨さはもう絶品です。
始めて大塚さんちに行くなら、まず鴨せいろを食べてみてください。次が天せいろ。後は好きなもので・・
2017年11月16日木曜日
手打ちそば おおつか @ センター南
実は、この店の蕎麦湯が・・・ものすごく薄い。おそらく普通の蕎麦湯のイメージを期待すると、けっこう裏切られるかもしれません。
これはどういうことかというと、たぶん蕎麦に限らず麺類は大量のお湯で茹でる、というのが大原則。鍋の中で麺が接触すると、どうしても茹でむらができてしまいます。
十割細切りの大塚さんの蕎麦の茹で方は、20秒間お湯にくぐらせるだけ。しかも、必要以上に大量のお湯を用意している。
ですから、茹で汁に蕎麦粉が溶け出さない。おそらく打ち粉もできるだけ少なくしているんでしょうね。
芯まで一瞬熱が入ればOKで、蕎麦の香りを逃がさず、蕎麦に含まれるいろいろな成分を壊さない・・・それが旨さの秘訣になるんだろうと想像します。
今回は穴子天せいろ。いい穴子は入手するのが年々難しくなっているそうで、お品書きにあっても出せない時があるようです。写真では他の天ぷらに隠れ気味で見にくくて御免なさい。
鰻ほど油っこくなく、ほどほどの弾力があって、衣のさくさく感と対照的な天ぷら向きの食材。
大変美味しくいただきました。満足、満足。
2017年11月15日水曜日
記紀神話が知らなかった伝承
日本の古代史を知るための文献資料は古事記、日本書紀だけではありません。魏志倭人伝のような外国の古文書もありますが、実は国内にも無視できない重要な書物があります。
日本書紀に続いて正史として編纂された六国史(続日本紀、日本後紀など)と呼ばれるものがあります。ただし、これらは平安時代初めまでの記録的文献で、古代史という観点からはあまり役には立ちません。
古事記・日本書紀が成立した直後に、朝廷は各地方にその土地での歴史・文化、そして生活の現状のレポートの提出を指令しました。これは朝廷が地方当地の指針とするためで、天皇へ献上され「風土記(ふどき)」と呼ばれています。
全国から調査結果が提出されてきますが、地域によって温度差はいろいろで、出そろうまでに数年~数十年を要しました。また報告内容も大雑把なものから、微に入り細に入り詳細なものまでいろいろ。完本として現存するのは「出雲国風土記」のみですが、部分的に残っているのは播磨国、備前国、常陸国、豊後国の4つで、後世の書物に引用の形で逸文として残されているものが少々。
完本ということもありますが、記紀の中でも重要な位置にある出雲の風土記は最も注目する必要があります。記紀が、体系化され朝廷が制作した「正史」であるのに対して、風土記にはその地域に伝承されてきた話が収載されています。
記紀以後にそれらとの整合性を意識したものもあるようですが、その土地だけに伝わるオリジナルの神話もあり、記紀だけでは伝わってこない本当の歴史が見え隠れしているのかもしれないということです。
特に、記紀にはまったく載っていない、出雲オリジナルの「国引き」の話は有名です。もちろん荒唐無稽で、支配者としての天皇家を明確にする話とは無関係の話です。
元々の島根半島は東西に細長く、土地が少なかった。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)は、「八雲立つ」この地を出雲と命名し、遠く海の向こうの余っている4つの土地を裂いて、綱をかけて引き寄せました。その結果、真ん中に宍道湖が残された。
・・・というもので、時の支配者が勢力を拡大していく過程、朝鮮半島からの人や文化が入ってくることに対する理由付けなのだろうと思います。
記紀に登場するいくつかの神も、出雲国風土記には登場するのですが、これは記紀より後年であることから、記紀の内容を考慮した部分があると言われています。
当然、最も登場回数が多いのは大国主命(オオクニヌシノミコト)ですが、風土記の中では大穴持命(オオナモチノミコト)あるいは所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)と呼ばれていますが、八十神を倒す話、あちこちに妻がいるプレイボーイの話、国を天皇家に譲り引退宣言をする話などが書かれています。
神須佐乃烏神(カムスサノオノミコト)はスサノオのことですが、記紀にあるようなオオクニヌシとの血縁関係の記載はなく、勇猛で荒々しいイメージはありません。妻であるクシナダは登場しますが、八岐遠呂智退治には触れられることはありません。
少なくとも、古代にそれぞれの場所で勢力を増していった土地の一つが出雲で、別の場所で発祥した天皇家に平和的に併合されたことは間違いないようです。
そして、多くの出雲出身者が天皇家に関わりを持つことになったのだろうということが、記紀神話の中で出雲が重要な土地として記述された理由なんだろうと思います。
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