2018年2月11日日曜日
記紀から知る建国の日
現在の日本国は、第二次世界大戦後の新憲法で「天皇は国民の象徴」とし天皇の政治的決定権はありません。それ以前となると、鎌倉時代から江戸時代までは実質的に武家に支配権を牛耳られたとはいえ、天皇を頂点とする王政国家でした。
統一国家の形は、飛鳥時代から奈良時代における律令制度の確立により形成されたわけです。その兆しといえるのは推古天皇の時代、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子が皇太子となって政権実務を任された7世紀初頭と考えられています。
古事記には、いつのことなのか確認できる細かい年月の記載はありませんが、正規の国史として編纂された日本書紀には、十干十二支や元号による記述があります。これらを中国・朝鮮の史料と対照させることなどにより、現在一般的な西暦に当てはめることが可能です。
ですから、少なくとも「天皇制」という形式のもとで国家として成立して約1400年の歴史があるということができます。ただし、「大王(おおきみ)」から「天皇」という呼称を用いるようになり、対外的に「倭国」から「日本」という国名を使い律令制を導入したのは天武天皇で、その志を継いで完成に導いたのは持統天皇です。となると、国家としてはおおよそ一世紀減って約1300年というのは、厳格に考えて間違いないところです。
「万世一系」の天皇による支配が始まったことを、国のスタートとするならば、日本書紀の記録上は、当然初代天皇とされる神武天皇(神日本磐余彦、かんやまといわれひこ)にまで遡らねばなりません。九州から東征して「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」と記述されています。
神武天皇の実在性については不問にして、辛酉の年がいつなのかということが問題になるわけです。60年周期の十干十二支では、辛酉は58番目の年で、一番最近では1981年です。日本書紀に記載された項目を素直に当てはめていくと、最も近いのは紀元前660年が辛酉の年にあたります。明治時代に、この年を国の始まりとして「皇紀元年」と定めたわけで、例えば2018年は皇紀2678年と云うことができる。
そこで、辛酉の年660年1月1日を現在の暦に換算すると、西暦紀元前2月11日が神武天皇が即位した日であり、天皇制が始まった記念日と考えるようになりました。現在では、2月11日を「建国記念の日」とし、国民の祝日としています。
ただ、それを素直に受け入れるのは現実的には無理があります。日本書紀の記述には、天皇支配の正当性を担保するため、多くの歴史的事実の改ざんや創作が含まれていることは間違いありません。初期の天皇の生物学的に不可能といえる異常な長寿を含めて、多くの天皇の実在に関して疑問が持たれています。
そこには神代の「神話」からシームレスに話をつなぐために、意図的に時間の引き延ばしがされたと考えるのが妥当です。「邪馬台国」と中国から呼ばれた国が存在したのは3世紀のことで、女王である「卑弥呼」が亡くなったのは西暦247年か248年です。日本書紀では、神功皇后が卑弥呼であることを強く示唆する記述があり、神武天皇とそれに続く欠史八代と呼ばれる天皇が創作であるなら、崇神天皇あたりから実在するとして、現実的な時間の流れは1世紀あたりで、紀元前60年、西暦1年、61年が辛酉の年になります。
いずれにしても、信頼できる確実なデータは無いので、根拠にする話そのものの信憑性がはっきりしないわけですから、全面的に受け入れていくか、逆に全てを疑って考えるかしかありません。
また、皇統の継続性で言うと、問題になるのは継体天皇の存在です。皇子がいないうちに第25代の武烈天皇が亡くなった時、事実上皇統は途切れたという考え方があります。現在の民法上は、親族というのは6親等までという規定があるようです。ただ、現実的には、普通に親戚と呼んでいるのは4か5親等くらいまでではないでしょうか。
じゃあ、武烈天皇と継体天皇との間の系図はどうなっているかというと、二人それぞれの高祖父(ひいじいさんの父)が異母兄弟というもので、あえて言うなら10親等となるんでしょうか。元を辿っていけば「人類皆兄弟」ですが、さすがにこれで「万世一系」の主張にはかなり無理があるというものです。王朝で考えると継体天皇の即位、つまり6世紀初めから約1500年続いているということになります。
つまり日本国は、最長で約2700年、最短で約1300年続いている国だということで、いずれにしてもギネス記録であることには変わりないようです。何月何日であっても、一年に一度くらいは自分の国の歴史、風土、文化などを少しだけでも考えることは悪いことではありません。
2018年2月10日土曜日
万葉集 (5) 代表的な歌
何しろあまりにたくさんありすぎて、万葉集をいきなりポンっと渡されたら、誰もがどこから手を付けていいのか悩むはずです。最初から一つ一つ順番に読み込んでいくのもありですが、相当な覚悟と忍耐を必要としそうです。
例えば、歴史の時系列を追って、その時々に詠まれた歌を拾い読みして、いろいろな事件の裏を想像していくという読み方もあります。または、名歌とされているものを中心に、有名どころをまずおさえておくのも、とっかかりとしては悪くはありません。
実際、人気投票のようなことはいろいろあるようで、その時代・風潮によって、選ばれるものに変化はありますが、定番とされている有名どころを紹介してみます。
山上憶良
銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
かき数ふれば七種(ななくさ)の花
額田王
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
柿本人麻呂
東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
東(ひむがしの) 野にかぎろひの 立つ見えて
かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ
志貴皇子
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
石走る 垂水(たるみ)の上の さわらびの
萌え出(い)づる春に なりにけるかも
大伴家持
春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立□(女偏に感)嬬
春の園 紅(くれない)にほふ 桃の花
下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)
小野老
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
あをによし 奈良の都は 咲く花の
にほふがごとく 今さかりなり
山部赤人
田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける
大伴旅人
和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
我が園に 梅の花散る 久かたの
天より雪の 流れ来るかも
他に当然たくさんの有名歌はありますが、最低このくらいは知っていて損はないようです。ここから掘り下げようと思えば、それは万葉底なし沼の始まりかもしれません。
2018年2月9日金曜日
万葉集 (4) 言霊の力
事霊 八十衢 夕占問 占正謂 妹相依
言霊の 八十(やそ)の巷(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問う
占(うら)まさにのる 妹(いも)は逢い寄らむ
言霊のはたらくあちこちに通じる辻で、霊力の強い逢魔が時の夕刻に占いをしたら、その答えはまさに思った通りで、あの子はきっと私に気があるとなった
この歌の作者は柿本人麻呂です。出だしの言霊について考えてみましょう。
万葉集では、その時代を生きた人々の心情が浮き出てくるのですが、その基本には「たま」があり、時によって「玉」、「珠」、「霊」、「魂」となって登場してきます。
今でも、特別な根拠があるわけでもなく、魂の存在を何となく信じている日本人は少なくありません。でも、魂は何かと聞かれても、はっきり説明はできない。人に限らず、自然現象も含めて万物に内在している何かであって、出たり入ったり、別のものにくっついたりして自由自在な存在で、これがあることが力を持つことになると考えています。
例えば、天之日矛伝説では、天之日矛が朝鮮から渡来し神功皇后の祖先となった説明がなされますが、そもそも日本に来た理由が「玉」です。天之日矛の奥さんは、太陽がさして生まれた玉が女性に変身した姿。つまり日本という国の分身としての「たま」だったりするわけです。
玉を集めたりして「たま」を身に着け、より自らの力を増やすのは「魂振り」、離れてしまいそうな「たま」を落ち着かせるのは「魂鎮め」、名を呼んだりして離れた「たま」を元に戻すのは「魂呼ばい」と呼ばれます。
万葉の時代、つまり古代の日本では口から出る「言(こと)」と物を指す「事(こと)」は区別されず、言の端が「言葉」で口から出ると現実の事になると信じられていました。それが、言葉そのものにも「たま」があり、霊力があるという言霊信仰です。
ですから、女性は簡単に名を明かすようなことはしません。名を知られるということは、相手に「たま」を取られて言いなりになるということ。名を尋ねるのは求婚であり、名を教えるのは承諾だそうです。
万葉集は、ちょうど記憶からの口承に頼っていた言葉を、文字に書いて記録に残す転換期に作られました。ただし、言葉が持っていた言霊を文字に書き文章にすることで、逆に「たま」の力はむしろ弱まっていくことになったのかもしれません。
2018年2月8日木曜日
2018年2月7日水曜日
生きていた信ちゃん
全国に信用金庫がありますが、大企業相手の大手都市銀行に対して、中小企業への融資をメインに高度経済成長期を支えたという印象があります。
自分が子供の頃は、近くにあったのは渋谷信用金庫、たぶん通称で「しぶしん」と呼ばれていたと思いますが。
しぶしんの営業の方は家にも来ていたようで、いくつかのアメニティグッズを置いていったようです。
中でも、記憶に残るのは貯金箱。当時使われていた信金オリジナルの「信ちゃん」のキャラクターを用いていました。
その後、大手銀行が知れ渡っている有名キャラクターを使用するようになったのを真似て、信用金庫も信ちゃんをやめてしまったようです。
さらに、大手が中小企業や個人へも営業を拡大したので、信用金庫はだんだん存在価値が薄れてしまったように思います。
ところが、最近たまたま通りかかった場所に地域の信用金庫があって、しかもその窓には懐かしの信ちゃんが並んでいました。
お~、生きていたのか!! という感じです。自分と同じくらいの年を重ねているはずなんで、還暦間近のはずなんですが、まだまだ若々しく少年のたたずまいです。
いろいろなところに懐かしさというものがあって、なんか嬉しくなった昭和おじさんでした。
2018年2月6日火曜日
まくり家 @ 祐天寺
都内の店を紹介するのは珍しいのですが、たまにはこういうところにも顔を出すことがあるということ。
場所は祐天寺。駅前から駒沢通りに出る、細いけどバスも通るメインの繁華街。何軒かラーメン店はあるので、多少の選択は可能です。家の近くでは、歩いて行ける範囲での選択はかなり限定的ですから、さすがに都内というだけのことはある。
ここは、いわゆる「家系」の豚骨醤油の店。味はというと、可も無し不可も無しというところ。横浜が家系の本場でたくさん店がありますから、この手の味には慣れているのかも。
これは、標準のメニューですが、例えば横濱家に比べれば、チャーシューは大きいし、海苔もたくさんついています。そういう意味では頑張っているのかもしれません。
実は、高校生の時に通っていた塾が祐天寺にあったんです。今回、祐天寺に足を踏み知れたのは40数年ぶり。当時がどうだったかは、まったく思い出せず、塾があった場所もわかりません。
ただ思い出されるのは、帰りは毎回、友人と渋谷まで歩いて戻ったこと。何故かというと、途中の中目黒で、1杯100円のラーメン屋があって、そこでごく普通の醤油ラーメンを食べるのが楽しみだったんですよね。
それから考えると、ラーメンは「日本食」として、ものすごく進化した文化になったものだと感心してしまいます。
2018年2月5日月曜日
万葉集 (3) 歌の形式と種類
君之行 氣長成奴
山多都祢 迎加将行
待尒可将待
君が行き 日(け)長くなりぬ
山たづね 迎へか行かむ
待ちにか待たむ
あなたが旅立ってからずいぶん長い日が経ってしまった
あの山道をたずねて迎えに行こうか、やっぱり待っていようかな
これは、万葉集に収録されている最も古い時代のものとされていて、仁徳天皇の磐媛皇后が、亡くなった天皇を偲んだ歌です。万葉調の短歌形式による相聞歌です。
万葉集に含まれる歌の形式は、短歌が最多で9割以上を占めます。短歌の基本形は五七五七七の三十一音からなり、五七五を上の句、七七を下の句と呼び、上の句の三句の後ろに区切りがあります。
万葉集では五七・五七・七という具合に、二句と四句の後ろに区切りがある(二句切れ、四句切れ)ものが多く、三句切れより重厚感が増すと言われ「万葉調」と呼ばれています。
いずれにしても、形式内に収めるために、一文字が多くの意味を含有しているので抒情性が強くなり、裏の裏まで読み込むことで芸術性も高くなります。
それに対して長歌(ちょうか)は、五七・五七・・・を繰り返し、最後を五七七で結ぶのが基本で、短歌に対して叙事性が強いものになります。ただ、初期には不規則な句を含む場合も多く、形式をが確立させたのは柿本人麻呂と言われています。しばしば、短歌形式の「反歌」が付属していて、本編のテーマを反復して強調したり、不足を補完・発展させます。
短歌と長歌でほぼすべてですが、後はごくわずかに旋頭歌、仏足石体歌、連歌体と呼ばれるものが含まれます。
内容的には、主として宮廷関連の公的色彩の濃い「雑歌(ぞうか)」、主として恋歌を中心とする個人的な手紙のようなやり取りのような「相聞(そうもん)」、死者の追悼・哀悼を表す「挽歌(ばんか)」の3つに分類されます。
一部に集中的に収載されている東国方面の民謡は「東歌(あずまうた)」と呼ばれ、また九州での対外防衛に駆り出された防人、またはその家族によるものを「防人歌(さきもりうた)」と云います。
2018年2月4日日曜日
立春
節分です。節の分かれ目だから節分。節は季節の節。今回は、冬から春に変わるということ。
当然、冬から春、春から夏、夏から秋、空きから冬と年に4回の節分があるわけで、それぞれ立春、立夏、立秋、立冬と呼ばれています。
中でも立春は、古来から節分の豆まきという行事、または近年、恵方巻を食べるという習わしが周知され、一番盛り上がる節分です。
豆まきは、もともと中国の鬼の面を被った人を弓で追い払う「追儺(ついな)」という厄払いの行事が奈良時代に伝わったもので、これに節分の際に行われていた「豆打ち」という日本の行事が合体したものらしい。
先週の雪が溶けきらないうちに、今週も雪が降りましたが、水を多めに含んでいたのか、むしろ先週の雪をうまく溶かしてくれた感じ。寒を寒で制して、春の気配に間に合ったというところ。
これからは、各地から少しずつ春の便りが増え始める・・・といいんですが、実際はもうしばらくは寒いのは覚悟しておかないとね。
2018年2月3日土曜日
万葉集 (2) 成立事情
籠毛與 美籠母乳
布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒
家吉閑名 告紗根
虚見津 山跡乃國者
押奈戸手 吾許曽居
師吉名倍手 吾己曽座
我許背齒 告目 家呼毛名雄母
ぎょぎょぎょ、こりゃ一体・・・と思いますが、実は万葉集はすべての歌が漢字だけで書かれています。話し言葉に読みが同じ漢字を当てているので、本来の漢文ではありません。これが膨大な歌を収載する、万葉集の最初の歌。奈良県桜井市付近の森で、通りかかった雄略天皇が、美人に一目惚れして詠んだ歌とされています。
訓読分はこんな感じ。
籠(こ)もよ、み籠持ち
掘串(ふくし)もよ、み掘串持ち
この岳(をか)に菜(な)摘(つ)ます兒(こ)
家聞かな、告(の)らさね
そらみつ大和の国は
おしなべてわれこそ居(を)れ
しきなべてわれこそ座(ま)せ
われにこそは、告らめ、家をも名をも
現代語訳するとこんな感じ。
籠よ、美しい籠を持ち
箆(へら)よ、美しい箆を手に
この丘に菜を摘む娘よ
どこの家の娘か、名は何という
広い大和の国は
すべて私が従えている
すべて私が支配している
私こそ教えよう、家も名も
「万葉集」は全20巻、4516首の歌を収録しています。ちなみに、万葉集以後を集めた「続万葉集」と言えるのが「古今和歌集」です。
そもそもタイトルからして、いろいろと議論があるようです。昔の仮名書きでは「まんえふしふ」と書いたので、現代では「まんようしゅう」と読むのが一般的ですが、「まんにょうしゅう」かもしれない。
その意味は、何代にもわたる万代(よろずよ)から集めたもの、あるいは多くのという意味で万(よろず)の言葉(ことのは)を集めたものと考えられています。「葉」は、言葉以外に、歌の例えとしての木の葉(このは)、あるいは歌を書いた紙を数える単位としての葉(よう)など様々な意見があります。
編纂の経緯についてもほとんど確定的なことはわかっていませんが、天武紀に国家形成が進む中で、宮廷への服属の印の一つとして、諸国の歌を献上させていて、その折りに集まってきた宮廷讃歌を中心に編集が始まったとことが想像されます。
そして少なくとも、主たる編集は天平時代、天武系の聖武天皇の時で、何らかの指示があったと思われます。つまり記紀と同じく、神格化した天武天皇の威光を高めることが目的としてあることは間違いなく、天武・持統天皇を中心として、父親の舒明、母親の皇極からの皇統礼賛の意識があるわけです。そして、諸国を巡ることが多い大伴家持が関わるようになって、最終的に自らの歌を中心にまとめあげられたとみられています。
家持が亡くなるのは785年のことで、ほぼ完成したものが家持の手元にあったはずなんですが、何しろその直後に「藤原種継暗殺事件」が発生します。家持はこの事件の犯人の仲間として扱われ、万葉集も一度表舞台から消された存在になります。桓武天皇が806年に亡くなったのをきっかけに家持の罪が許され、平城天皇が即位した後に、万葉集はやっと公開されたと考えられています。
2018年2月2日金曜日
万葉集 (1) 記紀歌謡を受け継ぐ
桓武天皇の時代、783年頃に現存する日本最古の歌集である「万葉集」が完成しています。このことは、日本書紀、続日本紀のいずれも触れられていないため、正確な成立については不明な点が多い。
もともと、古事記、日本書紀には登場人物が、その時々に「・・・とお詠いなさった」という記述がたくさん出てきます。これは彼ら、彼女らの素朴な心情を歌に託して記載していたもので、一番最初に出て来るのは須佐之男命が作ったとするもの。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
八重垣作る その八重垣を
というのが、日本初の短歌とされています。須佐之男命は八岐大蛇を退治し、櫛名田比売を妻としました。そして、出雲の国にすがすがしい場所を探し、須賀宮を作り、宮から立ち上った雲を見ての一句だそうです。
短歌形式が確立するのはずっと後のことですし、もちろん、本当の作者は後世の誰かでしょう。しかし、この他にも200首あまりの歌が詠われていて、歌の中には素直な心情を発露することがしばしばあり、直接に書けない裏事情を匂わせてあったりすることもあるので、なかなか侮れません。
これらは、通常は記紀歌謡と総称されていて、多くは長歌と言って、特定の形式に縛られていません。キリスト教の聖歌なども似たような発展を遂げているのですが、もともとは何かを伝承していく過程で、原始的な節をつけることで、印象を深め記憶に残しやすくなります。おそらく記紀歌謡は、実際に口に出して詠っていたのかもしれません。
文字文化が入ってくると、歌謡も文字として記録するようになり、ここから形式が整備されて、文学として和歌の形態が出来上がってきます。和歌は通常「わか」と読んでいますが、「やまとうた(倭歌)」と読めることは重要な意味がありそうです。ここにも中国の漢詩をライバル視して、張り合っている構図が浮かび上がってきます。
6世紀末の推古朝以後、国家の基盤としての律令体制が整い始めると、優雅な芸術文化もしだいに盛んになりました。和歌(厳密には現代の短歌とは区別されるらしい)は、五七五七七の形式が決まり、全部で三十一文字(みそひともじ)から作られるようになりました。
万葉集の最初の歌は、5世紀半ば頃の雄略天皇の長歌から始まります。古事記でも、雄略紀はやたらの歌謡が出てくるので、よほど好きだったのかもしれません。以後、多くの天皇、皇室、貴族らの歌が登場してくるのですが、第1期の開花期である「初期万葉」と呼ばれているのが、舒明天皇の時代から壬申の乱までの40数年間。
続いて天武朝から平城京遷都までの40年余りが、まさに和歌の確立する第2期の「白鳳万葉」。特にこの時期に注目されるのは、宮廷歌人の登場です。代表は、持統天皇をパトロンに持った柿本人麻呂。プロとして、より芸術度を高めることに成功しました。
そして、その後が第3期の円熟期である「平城万葉」で、遣唐使による中国からの風潮が入って来て、山上憶良、大伴旅人を代表とする自発的な心情を個性的に歌い上げる歌人が登場してきます。新しいものが入ってくると、古いものとの間で摩擦が生じたり、また逆にうまく混ざりあったりします。
そして聖武天皇から始まるバブルな時期、まさに華麗な天平文化が熟成する数十年間は「天平万葉」と呼びますが、一方で疫病の流行や政局の混乱が相次ぎ、大伴家持、大伴坂上郎女らによる鬱積して繊細な抒情的な世界が広がります。
もちろん、天皇周囲の人々の歌だけではありませんが、これらの収集・編纂の目的には、天皇を讃え、中央集権確立に役立てようという意図があることは明白です。登場する皇統歌人らは、実は古事記の続きの人々です。つまり、日本書紀には続編となる続日本紀があるのに対して、万葉集は古事記の続編たる性格を秘めているということは定説となっています。
2018年2月1日木曜日
Total Eclipse
今日は、何と云ってもこれ。
皆既月食。天気が心配でしたが、しっかり天体ショーを観察できました。
少しずつ、いかにも地球の影が月にかかっていく感じが、実感としてわかりました。
影が覆い尽くすと、月は赤く浮かび上がってきて、"Blood Moon"をちゃんと見れたのは初めてだと思います。
ただ、写真に撮るのはけっこう大変。普通の満月を撮影するときの基本は、マニュアル・モードで、ISO400, F8.0, SS:1/800秒。
欠け始めは、満月条件からスタートして、少しずつ調節。3/4くらいまで欠けるまでは、それほど難しくはありませんでした。
ところが、暗くなるにつれて光がどんどん減ってしまうので、"Blood Moon"の写真はISO感度は最高まで上げています。何しろ手持ちの500mm望遠を使用していますから、SSも手振れしない限界までゆっくり。Fも可能なだけ広げてます。
そのためノイズも多いし、暗くてピントも合いにくい。これで精一杯です。
2018年1月31日水曜日
柿の種 わさび
♪亀田のあられ、おせんべい・・・というフレーズは、全国的になじみがあると思います。
ただし、通常の柿の種については、浪花屋の味にはかなわない。むしろ、亀田が頑張っているのは「変わり種シリーズ」でしょう。
変わり種の元祖は「柿ピー」。一緒にピーナッツを入れたら美味しかった、というのが亀田の功績という説もあります。
チョコレートでコーティングしたものは、人気商品で定番化したものですが、自分の中で変わり種の定番中の定番と言えるのが「わさび」です。
もはや、通常の味は滅多に買うことはなく、柿の種と言えばわさび味と言いたくなるほど♡。
セブンイレブン独自のものも実は亀田製で、亀田ブランドよりもピーナッツが多めなのかな。それはそれで美味しいのですが、まずはこの緑の袋です。
ツーんとくる味が癖になりまくりです。我が家の常備品と言っても過言ではありません。
2018年1月30日火曜日
遅れがちな雪準備
降った量の割には、翌日はけっこう溶けてくれたのですが、そこから毎朝の氷点下の冷え込みで、路面は凍結した状態がまだまだ続いています。
雪だまりもまだまだあって、ところどころで道幅が狭くなっていますから注意が必要です。
雪慣れしている地域でも、今回はかなりの大雪で大変のようですが、自分のテリトリーは、滅多にない降雪に対しては日常的な対策はほとんどありません。
そもそも雪かきの道具だって、降ってからあわててホームセンターに買いに行く始末ですから、そりゃ売り切れで手に入れることもできないことも珍しくありません。
仕方がなく、去年使って割れているもので我慢。雪かきスコップは軽量化のため、プラスチック製がほとんどなので、数回使うと壊れてしまうことが多い。
明後日あたりには、またもや関東平野でも雪の予報が出ています。今日、明日のうちに準備は万端にしておきたいものです。
2018年1月29日月曜日
長屋王の平城京の暮らし
奈良時代、平城京の住人はどのような生活をしていたのかは、国史たる続日本紀では多くは語られていません。当時の人々の息遣いに実際に触れることができるのが、実は木簡(もっかん)です。
文字を書くために使用するものとしては、紙は高級品でしたから、とっときの場合にしか使わず、日常的な連絡とか、メモ、荷札、あるいは文字を書く練習などには木の札が用いられていたのです。木の札は一度用が済んでしまえば、表面を削ってリサイクルできたので、また新たに文字を書いて使用することができました。
古くなった使用済みの木簡は廃棄されるのですが、一定のゴミ捨て場所が決まっていたらしく、一度見つかるとつるべ式に発見されることが多く、貴重な歴史を紐解く一次資料として有用性が高いとされています。
もともと正倉院の宝物に荷札として数十点の木簡が使用されていたことは知られていましたが、本格的に注目されるようになったのは1960年代の平城京から出土した数十点からで、特に1989年に平城宮のすぐ南東から偶然発見された大量の木簡により、その場所が非業の死を遂げた長屋王の住居であったことが判明し、その数は3万5千点にも及びました。
現在までに発見された木簡の数は40万点近くもありますが、その多くは細かい断片であったり、削った薄い破片だったりで、もちろん書かれた文字の解読が不可能であったり、読めても一定の意味づけができないものです。しかし、それらの中にも、見る人が見れば宝の山のような情報が詰まっているものです。
もう一度、長屋王について整理してみましょう。長屋王は天武天皇の孫、高市皇子の息子です。妃は吉備内親王で、同じく天武天皇の草壁皇子と天智天皇の阿閇皇女の間に生まれました。つまり、阿閇皇女は後の元明天皇であり、兄は文武天皇、姉は元正天皇です。天武系の主流は皇太子だった草壁皇子の系譜ですが、皇位継承権利者としては十分すぎる血筋を引いていました。
朝廷内では異例の速さで大納言に昇進し、太政大臣・藤原不比等に次ぐ地位を得ます。政治家としては、実務的な才覚はあったようで、不比等も目をかけていました。720年に不比等が死去すると、藤原一族を抑えて朝廷のトップになり、実質的に長屋王政権が誕生します。
724年、藤原家との関係が深い聖武天皇が即位すると、長屋王は対立姿勢が明らかになり、729年に藤原一族の陰謀により天皇が許可した兵に私邸を囲まれ、妻子ともども自決しました(長屋王の変)。
そんなわけで、長屋王は、当時の貴族の中でも、抜きんでた貴族であったことは間違いありません。出土した木簡には、全国から天皇並みの扱いで贈答された品々の札が見つかったりしています。また、魚介、獣肉、果実、野菜などもふんだんに記載されていて、まさに「奈良時代のグルメ王」とでも言えそうな食生活が想像されます。
近隣地域からは、毎朝新鮮な野菜がふんだんに運び込まれていたようで、そのための菜園をいくつも用意していたらしい。また、いくつかの野菜は粕漬けか、または醤油漬けの漬物になっていたこともわかっています。氷の貯蔵庫があり、夏には氷を運ばせていますし、牛乳なんかも仕入れています。
また主の長屋王と、奥方の吉備内親王にはそれぞれ別の付き人がいて、日常をかいがいしくお世話をしていました。こどもの一人が飼っていた犬のために、餌を仕入れた木簡も見つかっています。また、鶴も少なくとも2羽はいたらしい。邸内には、多くの専門職人を抱え、たいていのことは邸内で解決していたようです。
当然、天皇も含めて、他にもたくさんの貴族と呼べる人たちがいたわけですから、彼らも長屋王と似たような生活をしていたことは容易に想像できます。一般庶民は一汁一菜が基本だったことを考えれば、相当贅沢な暮らしぶりが浮かび上がってくるのも木簡の存在があるからです。
でも、そんな暮らしをしていても、基本的にはサラリーマンですから、毎朝家を出て、真っすぐ北上して徒歩10分程度のお役所へ通勤していたんでしょう。家は近いから、昼ご飯時は家に戻っていたのかもしれませんが、きっと奥さんには、いろいろな仕事の愚痴を言っていたのに違いありません。
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