2018年2月25日日曜日
古代終焉 (4) 最澄と空海
多くの日本人が「自分は無宗教」だと思っているそうですが、現実には神道や仏教は生活の中の基本的な思想を作り上げるのに大きく関与していることは否定できません。そもそも、大多数の人は「初詣」に行って神に、そして墓参りをして仏・先祖に手を合わせています。
まずは、日本の仏教の歴史をごくごく簡単におさらいしましょう。
仏教は、釈迦によって紀元前450年頃のインドで始まり、中国・朝鮮を経由して渡来した人々により日本に伝わりました。本当の最初がいつだったかは、当然不明。公式には、6世紀なかばの欽明天皇の時代に、百済の聖明王から仏像・経典が送られてきたのが始まりとされます。
神事に携わる役目についていた豪族(物部氏、中臣氏)は新興の宗教に対しては否定的な立場であり、一方蘇我氏は積極的に受容を推進し、しばらくは皇位継承とも絡んで両者のせめぎあいが続きます。しかし、推古天皇の時代になって、厩戸皇子、蘇我馬子ら崇仏派が圧倒的な力を持ち、ついに朝廷内での優位が明確化しました。
8世紀になって、聖武天皇は、仏教の拡大を積極的に進めました。全国に広めるため、全国に国分寺・国分尼寺を創設し、また東大寺大仏造営を行いました。急速な拡大は、僧不足という問題を引き起こし、なんちゃって僧が増えてしまいます。そこで、中国から鑑真を招き戒律の教えを受け、僧になるための制度を整えます。
仏教の力が拡大するにつれ、朝廷に対しても物事を左右する力を持ち出し、鑑真死去後に代わって登場した道鏡は孝謙上皇を操り自ら「天皇」になろうとまでしました。桓武天皇は、反対勢力をそぎ落とす目的で遷都を行った際、仏教の肥大化した力も良しとせず、既存の寺院の新都への移転を認めませんでした。長岡を経て平安京で、新たな寺院を建立し、いよいよ国民全体への仏教普及が本格化する平安時代になりました。
さて、ここで登場するのが、現在でも仏教界のスーパースターとして尊敬され続けている二人の僧、比叡山を本拠に日本の天台宗の開祖である最澄、そして高野山を本拠に真言密教の開祖である空海です。
二人は同時代人であり、同じ時の遣唐使船に乗り中国で修業を行い、帰国後にそれぞれが仏教の普及に尽力し、そして対立もしたことで対比されて論じられる機会が多い。
766年、最澄は近江で比較的裕福な家の子として生まれました。この年は道鏡が法王になり、全盛を迎えた年です。12歳で出家し、14歳で得度し僧侶となりました。19歳で東大寺で受戒し、朝廷が認める正式な僧になります。これで平城京での地位が約束されたにもかかわらず、その数か月後には比叡山に入りました。
人を導くためには、六根清浄(目・耳・鼻・舌・身・意が清らかなこと)の達成、仏法真理の解明、戒律を守り執着を絶つ必要があり、その修業のための入山であり、その結果得た功徳を広く世の人々に施すことを自ら書き記しています。当時の制度化した僧侶制度のもとで、僧になることだけが目的になっていて、世俗化した官僚的な僧が多かったことに対する反発があったことは間違いありません。
霊山に籠り寝食を惜しんで修業を行う最澄は、先達と仰がれ少しずつ仲間が増えていきました。また、いろいろな仏典を集め研究しているうちに、もともと鑑真が持ち込んだとされる天台宗に出会い自分の進むべき道を見出しました。
794年、桓武天皇が平安遷都を行うと、比叡山のことは天皇の知るところとなり、797年に天皇の身辺の諸事のために尽くす10人の内供禅師(ないぐぜんじ)の一人に任じられました。理想だけでは志を実現できないことも理解していた最澄にとっては、天台宗を広めるための絶好の機会を得たということです。定期的な勉強会を開催し、従来の宗派の僧侶たちへも講義を行い、ついに桓武天皇より許されて804年に遣唐使船に乗り込むことができました。
中国で天台宗本山で勉強した最澄は、1年に満たない期間でしたが、修業を認められ、密教と禅の戒律も学び翌年に帰国しました。翌年には、従来の各宗派の分担を改革することに成功しますが、この年、最大の庇護者であった桓武天皇が亡くなりました。
一方、空海は774年に香川に生まれ、幼少から読み書きに秀でており、15歳で都(長岡京)に出て官吏になる勉強を始めます。しかし、ある僧(誰かは不明)との出会いから密教に傾倒し、19歳で大学を辞め、公的制度とは関係ない私度僧として畿内や四国での山岳修行を始めます。何らかの開眼をした空海は、24歳の時に初めての仏教についての書物を著します。その後「空白の7年間」と呼ばれる時期がありますが、おそらく平城旧京であらゆる仏教経典を勉強し、804年、30歳で東大寺で受戒、正式な僧侶になりました。
空海は僧侶になりたてでまったくの若僧であり、理由は謎とされていますが、最澄と同じ遣唐使船団の船に乗ることができました。遣唐使として政府からの公式派遣だった最澄と違い、空海は基本的に私費留学でした。空海の乗った船は、やっとのことで唐に着きますが、長安の都についたのは日本を出て半年後のことでした。
空海は中国密教を確立した恵果の下で学び、異例の速さでその極意を伝授されました。そして806年に、今まで日本には伝わっていなかった大量の経典などとともに帰国すると、809年に平安京に入り、密教の伝道者として急速に頭角を現したのですが、これは「薬子の変」で天皇側について唐風文化を好んだ嵯峨天皇の信認を得たことが大きいようです。
密教についても唐で学んだ最澄は、台頭してきた密教スペシャリストの空海に対して身を低くして教えを乞いました。空海から借りた書物を勉強し、法の伝授の儀式を受けています。
しかし、実は根本的な部分で二人の密教の解釈は異なっていました。最澄は、いろいろな考え方を取り込み最も優れた仏教である天台宗へ統合していくことが目的で、密教も無視できない含有されるものの一つと考えていました。しかし、空海は、密教は通常の大乗仏教と一線を画すより優れた仏法であると考えていたことが決定的な差になっています。
最澄は、そもそものスタートから「万人が仏性を宿した尊い存在で仏になれる」とし「法華経」が真理の教えとしています。空海は、密教以外は言葉で説いた釈迦の教えであり、密教は仏の悟りであり言葉にできないものであり、何かと経典を借りて読みたがる最澄の姿勢に対しては疑問を持っていたようです。最終的には経典を貸すことを止めたことで、最澄との関係に亀裂が入りました。そして、密教を学ばせるために空海の元に派遣した最澄の弟子が、再三の要請に応ぜず空海の弟子になりきってしまったことで、完全に決裂したようです。
最澄は、それまで3か所しかなかった戒壇院(正式な僧侶になるための受戒をする場所)を4か所目として比叡山に作るように働きかけを始めました。しかも、出家・得度の過程が無くても仏の道に進みたいと思う誰にでも受戒をできるようにするというものでした。しかし、その許可が下りる直前の822年に56歳の生涯を終えます。
空海はその後に、平安京の東寺、平城京の東大寺に修行道場を開設し、高野山に念願の本拠地造営に着手します。人間は死後に仏になるという通常の仏教の教えと異なり、空海は生きた身のまま修行により仏になれる(即身成仏)と説き、835年、自ら一切の食事をとらず永遠の禅定に入り(入定)、約2か月後に62歳で亡くなりました。弘法大師の諡号は、921年に醍醐天皇より送られたものです。
2018年2月24日土曜日
Bluetoothが切れやすい
なにも、Bluetoothが短気で怒りっぽいわけじゃない。
Bluetoothはデジタル機器の無線接続規格の一つで、2000年頃から知られるようになり、近距離で常時接続する比較的速度は遅くてもかまわないものに向いているといわれています。
最近は、何でもBluetooth接続になり、各社の独自のワイヤレス・レシーバーを別個に用意する必要が少なくなりました。
ノートPCなどでは、USBの接続口の個数が限られるので、できるだけBluetoothで繋ぐ方が便利だったりします。
デスクトップでも、キーボードやマウスは一度無線に慣れてしまうと、有線は使いたくなくなるので、利用価値があります。
ところが、BluetoothのマウスやキーボードをPCで使おうと思うと、ちよっと時間がたつと接続がすぐに切れてしまい、次に動かしたときになかなか反応しなくていらいらするということはよくあります。
また、接続も必ずしも安定していなくて、一度ペアリングに成功して接続が登録されているのに、次にPCの電源を入れたときに自動で接続されないことも珍しくありません。
これは、しょうがないので、一度デバイスを削除して再登録するしかありません。
使用中に途切れてしまうのは、けっこう困ることが多い。原因はいろいろ考えられますが、多くの場合、PCでは省エネの目的でデバイスの電源をオフにする設定があるのが原因です。
マウスやキーボードについては、この設定を変えることで、たいてい無事に使うことができるので、あらたなPCを使い始めるときには、必ず確認した方がよさそうです。
デバイス・マネージャーを開き、Bluetoothの項目の中から"Generic Bluetooth Radio"または、それに準ずるもののプロパティを開きます。
電源の管理というタブがあるので、そこから「電力節約のためコンピュータでこのデバイスの電源をオフにできるようにする」の□のチェックを外すだけです。
たぶん、ほとんどの場合はこれでOK。ただ、毎月のように新しいPCに触れるわけではないので、いつも忘れていてイライラして、あっ、そうだったと気が付くの繰り返しなんですよね。
2018年2月23日金曜日
2018年2月22日木曜日
更科 @ すすき野
近いので一番よく利用する蕎麦屋が、横浜市青葉区すすき野にある更科です。
いわゆる、こだわりの手打ちの名店とかではない街の普通の店ですが、毎度登場するだけの「バカにできない」旨さがあります。
まず、更科というだけあって、蕎麦の実を磨き上げた「吟醸」作りの白い麺が美味しい。細くてもしっかりとしたこしを感じます。
そして、冷たくても温かくても汁が絶品です。昆布・鰹中心の当たり前の出汁なんでしょうが、醤油と砂糖のバランスが最高です。ついつい飲み干したくなる。
今回は、あまり注文したことがないのにしようと・・・鴨汁つけそばにしてみました。
せいろについては文句なし。ポイントは「鴨汁」です。当然、ちゃんと鴨肉が入っています。香りを引き立てるため、汁は温かくしてあります。
大変美味しくいただきました。ただ、強いて言うなら、ざっくり切った焼いた長葱も入っていたら・・・最高です!!
2018年2月21日水曜日
古代終焉 (3) 平安京を棄てろ
時の天皇の息子は「箱入り」で育てられるのは当然ですし、ましてや774年に生まれから病弱ともなれば、桓武天皇の息子、安殿(あて)親王はかつての平城京で大切に育てられたことでしょう。長岡京に移り、安殿親王は785年に立太子します。
当時、天皇や皇太子の護衛についていた、今でいうSPみたいな役職が帯刀舎人です。793年に、桓武天皇の帯刀舎人が皇太子の帯刀舎人に殺された事件があり、天皇は激怒して犯人を捜索・処刑しています。事件は、安殿親王がやらせたという噂ありと、わざわざ日本後紀には書かれています。
桓武天皇も、女性に対してはけっこう出自を気にせず妃にしてしまう方だったようですが、皇太子も親を見て育ちますから似た様だったみたいです。新しい宮仕えの娘に伴ってやってきた母親の色香にやられてしまいました。その人物こそが、桓武天皇の右腕、長岡京造営責任者であった藤原種継の娘、薬子(くすこ)でした。
薬子は生年不詳で、当時何歳だったのかはわかりませんが、すでに既婚者で5人のこどもを生んでいたようですから、若くても20歳代後半だと思います。おそらく皇太子は二十歳前後。この関係には、さすがに桓武天皇はダメだしをして、薬子を皇太子の起居する東宮から追放しました。
805年、桓武天皇は体調を崩し、自分の余命を覚悟します。後事を託すため皇太子と政府重鎮を呼び出しました。しかし、安殿皇太子は当初これを拒否して参内せず、周囲から説得されてしぶしぶ出かけた様です。そして翌年桓武天皇崩御により、第51代の平城(へいぜい)天皇として即位しました。平安京になったのに、なんで平城に戻った諡号なのか不思議ですが、それには深い理由がありました。
とりあえず、新天皇は政治には意欲的に取り組む姿勢をみせたのですが、自由になって薬子を宮に呼び戻し、薬子の夫を九州へ左遷したことで話は歪んだ方向へ進み始めます。この頃、続日本紀には種継暗殺の記述は削除されていたのですが、薬子の意向もあって平城天皇はこれを復活させました。
種継暗殺および早良親王廃太子のエピソードは、祟りとなって様々な凶事の根源にあると考えられたため、桓武天皇は早良親王に祟道天皇という敬称を与え、追善法要を行い、そして続日本紀の記述を削除していたのです。薬子からすれば、父親の業績が抹殺された思いだったのでしょうし、平城天皇からしても自分の皇位継承の妥当性を明らかにするための記述の復活だと考えられています。
薬子にすれば、天皇の皇太子時代に引き離され、父の業績の記録は消され、そして何よりも父が命を懸けた長岡京が棄てられたことにより、桓武天皇に対しての恨みは相当な大きさになっていたのだろうと想像できます。
808年、天皇の弟の一人であった伊予親王が、藤原北家の藤原宗成に謀反を勧められます。このことは密告により露見し、首謀者とされた伊予親王は母共々幽閉され抹殺されました。これは藤原式家の薬子、その兄である仲成の陰謀だったようです。翌年、病弱な平城天皇はわずか34歳、在位3年ちょっとで薬子の反対を押し切って弟の神野皇子に譲位し、平城上皇となって平城京に移り引退したかのように見えました。
即位した第52代嵯峨天皇は、当初平城上皇にだいぶ気を遣っていたようで、平城上皇の高岳親王を皇太子に立てています。しかし、平城上皇の政策の見直しから対立が始まり、810年に、ついに平城上皇は「貴族たちは、平安京を棄てて、皆平城京に戻れ」と平城京還都の詔を出しました。
嵯峨天皇は、還都に従う態で自分の腹心である坂上田村麻呂らを平城京に派遣し、まず藤原仲成を捕らえ追放・処刑、薬子の官位を剥奪します。これに対し、平成上皇はついに挙兵し力づくでの皇位重祚を画策しますが、素早い嵯峨天皇の対応に万事休す。上皇は剃髪して出家、薬子は服毒し自害、高岳親王は廃太子されました。
この一連の流れは、「薬子の乱」と呼ばれます。嵯峨天皇は、続日本紀から再び種継暗殺の経過を削除しました。平城上皇は、その後についてはほとんどわかりませんが、824年にひっそりと亡くなりました。
鴨長明は「方丈記」の中で、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにける」と書いています。つまり、平安京が都として定まったのはこれらの事件の後からという認識でしょう。悠久の古都は、やっとスタートについたということです。
2018年2月20日火曜日
雨水
雨水は、気温が上昇してくるのにつれて、雪が雨に変わってくる頃ということ。
山々では雪解け水が増えだすので、川の水量が増してきて、農耕を始めるのに適した時期になった知らせとなります。
今年は北陸を中心に大雪が続き、いろいろな記録を塗り替えていますので、大変な地域では、まだまだそんな雰囲気ではないかもしれません。
首都圏では、今日あたりにまた雪が降るという天気予報でしたが、近づくにつれて結局雨か曇りに変わりました。
朝の冷え込みは多少緩んできていて、手袋は無くてもいいかなと思えるくらいになっています。いろいろなところで、冬の終わりを感じるようになってきました。
ついこの前、蕾だった盆栽の梅も数日前に開花して、見頃を迎えてきました。
2018年2月19日月曜日
古代終焉 (2) 平安京遷都と藤原氏
桓武天皇は、即位と同時に皇太子にしていた弟の早良親王を、藤原種継暗殺に連座したとして流刑に処し憤死させました。そして新たに立太子したのは、自分の長男である安殿親王でしたが、その時まだ12歳。
そして794年に桓武天皇は詔の中で、「自然の地形に守られたこの場所は、平安が続く都にふさわしい」と延べ遷都を敢行しました。ただ、そのど真ん中を東西に分ける大きな賀茂川があるのは、長岡でも水害に悩まされた経験からも、水路は必要ではあるが困りました。
現在の京都の地図を見ると、二条城のすぐ東を北から南へまっすぐ細い堀川が通っていますが、実は、これが本来の賀茂川の流れで大方を埋めて流れを人為的に東寄りに移動させたもの。当時の技術からしても、相当大きな土木工事だったと思われます。遷都後の都完成を推進するための機関として組織されたのが「造営吏」で、そこに登場してくるのが和気清麻呂、菅野真道らの重要官僚たちでした。また秦氏、物部氏らの氏族も技術系集団として登用されています。
ここで、少し藤原家のことを整理しておきたいと思います。藤原家といえば、その祖は中臣鎌足。中大兄皇子、後の天智天皇の最大の参謀でした。亡くなる直前に藤原姓を天智天皇からもらったことから始まります。
鎌足の次男の不比等が藤原家を継ぎ、文武天皇からは不比等直系のみが藤原姓を名乗ってよいとされました。娘の宮子は文武天皇夫人で、聖武天皇の母親です。不比等には4人の男子がいて、武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家として藤原四家を興します。しかし、四人とも737年の天然痘の流行で相次いで亡くなりました。
南家の武智麻呂の次男、仲麻呂は、力をつけて孝謙天皇の最大の片腕となり、孝謙天皇も仲麻呂私邸に住むようになりました。聖武上皇崩御により、天武系皇太子の道祖王を廃して大炊王を皇太子にしたのは仲麻呂の暗躍によるものです。757年、橘奈良麻呂の乱では、殺される対象にされました。その後、孝謙天皇は道鏡にのめりこんでしまい、764年、自ら藤原仲麻呂の乱をおこしますが失敗し斬首されました。
式家長男の広嗣は、次第に反藤原勢力が台頭してきたことで、740年に反乱を起こし処刑されました。次男の良嗣は、兄に連座して一度流刑になりましたが、数年後に許され地方官僚に回されます。762年、当時最も力を持っていた南家の仲麻呂暗殺計画が露呈し失脚しました。
そして八男が百川で、天智系の光仁天皇即位の裏でかなり暗躍したらしい。772年、光仁天皇が井上内親王の廃皇后、他戸親王の廃太子し、翌年、山部親王、後の桓武天皇を立太子したのも、すべて百川が裏で天皇を操ったといわれています。長女、旅子は桓武天皇夫人になり、次女、帯子は安殿親王皇后になっています。
三男清成の息子が、長岡京造営最高責任者で暗殺された種継です。桓武天皇の信頼が厚く、天武系を切り捨てるために長岡遷都を進言しました。長男は仲成、娘に薬子がいます。薬子は自分の娘が安殿親王の妃になった時に、一緒に宮仕えに上がったところ、安殿親王の寵愛を受けることになり、これに合わせて兄の仲成も出世しかなり傲慢な振る舞いをしたようです。ここで、仲成、薬子にとって父親の種継が命を懸けた長岡京から平安京遷都はかなりのショックだっただろうということが後の事件の伏線です。
2018年2月18日日曜日
King of Ice
平昌冬季オリンピックが開幕して1週間。前半最後の華、男子フィギュアスケートで、日本の羽生結弦選手が金メダルを獲得し、ソチでの前大会に続いて2連覇を達成しました。
もう、散々言われていることですから、あらためてここに書くほどのことはありませんが、ケガのために出場すら危ぶまれ、ぶっつけ本番で臨んだ大会での結果ですから、驚異としか言えません。
心より祝福します。日本人として誇りに思えます。
整形外科医として、別の視点から羽生選手のケガについて考えてみます。
メディアで報道されているケガは「足首の靭帯損傷」というもの。足首の靭帯損傷というのは、軽い言葉で言えば「捻挫」のこと。一番多いのは足を内側に捻ってしまうことで、外くるぶしから前下方向に向かう靭帯を伸ばして傷めます。
靭帯を少し伸ばしただけというものだけではなく、靭帯が断裂するもの、あるいは靭帯付着部の骨の剥離骨折を伴うものなど、いろいろなパターンがある。
ところが、足首は比較的安定度が高い関節なので、痛みが我慢できるなら平地を歩く分には何とかなることが多いので、けっこう無理してしまう人が多いケガです。
捻挫でも、ギプスを巻いて固定し、松葉杖で体重をかけないようにして3週間我慢してもらえるなら、重症の捻挫でも歩行についてはほぼ問題ないくらいに回復します。
しかし、スケートではジャンプを中心に足にかける力は相当強いはずですから、それに耐える程度に回復するにはさらに数週間は必要だろうと思います。
ケガをした時の映像を見ると、ジャンプの後、着氷の角度がややつきすぎたのか、エッジが引っかかって滑らなかったのか、ケガをした右足を捻っていることは間違いない。
スケートシューズは足首を保護できるようになっているはずですが、より大きく高くジャンプするために、足首の自由度を損ねないようなシューズを使っているのかもしれません。もしもそうなら、高得点とリスクは表裏一体ということです。
2か月間まったくスケーティングしなかったそうですから、靭帯損傷ではなく、外くるぶしの骨折だったのかもしれません。
スケート選手にとって、長期間氷に立たないということは、おそらく最も苦痛なことでしょうけど、完全に治すにはどうしても時間が必要です。
ですから、これは最良の選択で、ちょっとよくなったからと早くにスケートを再開していたら、いつまでも痛みが続いて結果はついてこなかっただろうと思います。
実際、スポーツのケガで、目の前のやりたいことを我慢できずに無理して痛みを長引かせるお子さんは多い。また、それを頑張りと評価してむしろ無理させてしまう親御さんもいます。
レクリエーション、あるいはアマチュアのレベルなら、それもいいかもしれません。しかし、それなりの結果をきちんと出したいと本気で思っているなら、まずケガをしっかり治すということを優先すべきということを、今回の羽生選手のケースでも見えて来たと思います。
羽生選手が登場して以降、男子フィギュアは300点以上が当たり前になり、4回転ジャンプは当たり前になりました。その流れはたかだか数年間のことです。
羽生選手は、フィギュアスケートの残っていた伸びしろを発見し解放した先駆者の一人であり、そしてそれを実践して進化させた唯一のスケーターと言えます。
技術的な面だけでなく、精神的なことも含めて、まさに"King of Ice"の称号に相応しい存在になったと日本人だけでなく、世界中が認めた今回の大会でした。
2018年2月17日土曜日
お伊勢橋
港北ニュータウンから江田駅に向かって行くと、国道246号のすぐ手前に「お伊勢橋」という歩道橋があります。
この写真では、正面に246、その向こうが駅です。
なんで、こんな名前なのかと以前より多少は疑問に思っていました。実は、もともとは両側は山でその切通がこの道になったもの。
山から山へ渡るための橋だったわけですが、この橋を右から左にわたった先に伊勢社という神社がありました。
現在は荏田総鎮守である劔神社合祀されたため、伊勢社は無くなってしまったのですが、その名残りとして橋があるというわけらしい。
たまプラーザ駅近く、ちょっと南に行ったところにも伊勢社があり、こちらは今でも健在。他にも全国各地に伊勢社はあるようで、日本全体を見守る伊勢神宮の天照大神に対して、狭い地域を守る村の鎮守として大切にされてきたということですね。
2018年2月16日金曜日
古代終焉 (1) 長岡京遷都と棄都の謎
続日本紀は、桓武天皇の治世の途中で終了してしまいます。その続きは日本後紀、続日本後紀に記録されていくわけですが、ほぼ一般向けの書物はないに等しい。実質的には平安時代になるわけで、通常の歴史書か、平安時代の様々なテーマに沿ったものならたくさんありますが、ここまでの天皇を中心とした「国史」を手軽に勉強するのはなかなか難しい。
実際のところ、日本後紀は編集に携わった藤原緒継による「序」が存在するにも関わらず、第1~4巻が現存せず、あるのは第5巻から。そのため長岡から平安遷都にまつわる、多くのあったはずのごたごたが記録にありません。意図的な削除の可能性も否定できません。
それでも、ここまで来ると、さらにこの先はどうなったのか興味津々で、何とかあらすじだけでも追っかけてみたい気持ちがおさまりません。実際、古代から中世への切り替わりは、平安時代の荘園制度がポイント。続日本紀が終わっただけでは、まだ古代を制覇したとは言えないわけです。そこで、いくつかの資料を参考にしながら、もう少し歴史を追いかけてみたいと思います。
続日本紀の最後のエピソードとかぶりますが、長岡京についてのいくつかの問題点を整理するところから始めてみたいと思います。
桓武天皇は782年に「冗官整理の詔」し呼ばれる勅を宣じ、その内容は「官民疲弊しているので宮殿造営はやめ、倹約し蓄えを増やそう。今の暮らしに不足は無い」というものでした。
ところが、784年には長岡京造営を開始し、半年を待たず遷都を敢行したことは、先の詔で述べたことと相反する思うのが当然で、歴史学者からも謎の一つとされています。しかも、大急ぎでばたばたと未完の家に引越しする様は、まるで夜逃げのようだとも言われています。
しかし、詔の内容は、あくまでも平城京についてはこれ以上金をかけることはしないという宣言であって、逆に平城京は捨てる、遷都するぞという意気込みの表れというように解釈できるものです。
784年は六十年干支が一巡してスタートの年である甲子の年で、物事がうまく始まる最良のタイミングと考えられていました。この年を逃すことなく、天武系の色濃い平城京にかわる天智系の新しい都を作り出すことは、天智天皇の曾孫にあたる桓武天皇にとっては大きな意味を持っていたと考えられます。
地理的な要因として、淀川に隣接しているところが重視されたようです。瀬戸内海に直接出れることは平城京にはできないことで、この利便性は経済効率の良い都運営を可能にします。長岡京の突貫工事に際しては、難波京の建物が解体・移設されたそうです。
しかし、長岡京造営は簡単にはいきません。遷都翌年、まだ工事が続く中で、藤原種継が暗殺されました。種継は長岡京造営工事の最高責任者で、この事件により都完成の遅れは必至となります。そして、天皇の側近だった和気清麻呂の進言もあり、793年に天皇は再び遷都することを宣言し、1年後の794年に引越しをしてしまいます。
長岡京は、10年の歳月を費やしてもいまだ完成せず、日照りによる飢饉、疫病の大流行、さらには皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病などが続発し、種継暗殺に関与したととして処罰された早良親王の怨霊によるものと言われるようになります。おそらく、決定的だったのは利便性を考えた淀川近接が仇となり大雨にる川が氾濫が大きな被害をもたらしました。
長岡京は、発掘された遺跡から完成間近までたどり着いていたと想像されていますが、わずかに10年で放棄せざるをえない状況になったわけです。造営を任せていた種継を失ったことで失敗に終わったことを教訓した桓武天皇は、今度は自ら遊猟と称して頻回に視察に繰り出し、積極的にかかわることになります。
しかし、これらの激動の中で、反対勢力も登場し、造都に目が行き過ぎる天皇に多くの隙が生じたことも、様々な問題を噴出させていくことになるのでした。
2018年2月15日木曜日
第22回田園都市リウマチフォーラム
今回から、共催はファイザー製薬から中外製薬に変更になりました。もともとは、ファイザーが企画主催していた、元聖マリアンナ医科大学の山田先生の連続講演会を引き継ぐ形で始まったのですが、昨今のいろいろな大人の事情で、ファイザーが手を下したということです。
この手の会を行うことは、透明性・公平性などのいろいろな条件が求められるようになり、なかなか厳しい時代になってきたのですが、こちらもやるからには自分たちが勉強したいテーマをはずしたくはありません。
とは言っても、完全に自立して運営することは難しいので、ある程度の妥協はしかたがない。中外は何とかこちらの希望も最大限くみ取ってもらえて、初回としてはけっこう実のある会にできたように思います。
講演は昨年4月に聖マリアンナ医科大学に新しく着任した川畑教授による、「高齢リウマチの治療戦略」というもの。地域の中では、リウマチ関連では最寄りの大学ですから、聖マリアンナ医科大学との病診連携は重要で、川畑新教授には、ぜひこの会の存在を知ってもらい、今後もいろいろと協力をしていただければ嬉しいかぎりです。
超高齢化社会となった日本では、病気の発症も高齢化してきており、リウマチも例外ではありません。治療戦略は高齢になるほど限定的にならざるをえず、その選択は苦慮することが増えました。
問題点と、その対応について突っ込んだ話を聞くことができて、大変勉強になりましたが、同時に今日からの診療での疑問・悩みも増えたかもしれません。今後も、勉強を怠れないテーマの一つです。
さて、この会の重要な部分が「症例検討会」です。医学の知見は一つ一つの症例の積み重ねです。一つの症例が、全体に適応するとは限りませんが、その一つを疎かにしては医学そのものが成り立ちません。
今の製薬業界は、お互いに「一定の統計学的に妥当な知見」に拘って互いにけん制しあう状況にあります。これは、いろいろなデータ捏造問題などが発覚したためですが、少しでもコンセンサスが得られていない、あるいは根拠が明らかになっていない話は一切してはいけないということらしい。
たった一つの症例で、診断の妥当性、治療の方針などを語ることはもってのほか。ましてや、この手の会で、記録として文書に残すことは絶対にだめで、視覚的に見せたりするだけでも厳しい条件がつきます。
そんな難しい制約がありますが、今回は新横浜整形外科・リウマチクリニックの菱山先生に「妊娠希望のコントロール不良患者さん」の症例を提示してもらいました。
当然、妊娠・出産年齢も高齢化してきている現状では、今まで以上に問題となるケースが増えてくるテーマだと思いますので、リウマチ診療をしていると他人ごとではありません。
当然、正解は簡単には決められないのですが、いろいろな考え方がディスカッションされ、患者さんと治療の方針を決めていく際に参考になる話がたくさんあり、大変有意義な検討会にできたと思います。
おかけで、今後もこの流れを死守して、会を継続していくことが大変重要だなと再確認できました。
2018年2月14日水曜日
梅蕾
梅は蕾より香あり、という諺があります。
梅は蕾でもよい香りを漂わせることから、才能のある人や大成する人はこどもの時からその雰囲気が漂っているということ。
一昨年の夏の落花後に手に入れた豊後梅盆栽なんですが、2度目の蕾を付け始めていて、春が間近になっている気配を感じさせてくれるようになりました。
けっこういい加減な管理しかしていないので、成り行きまかせの結果なので、あくまでも梅の木の生命力だけが頼りみたいなところ。
雪が降っても、ほったらかしで外に出っぱなしだったので、ほとんど路地植えとおんなじです。でも、鉢の中で土の量は少ないので条件悪いですよね。
花が終わったら、植え替えに挑戦したいと思います。
2018年2月13日火曜日
キーボードをけちるな
アナログは、文字を手書きしていた時代。タイプライターが登場して、文字入力はメカニカルに変わり、そこへ電子回路が組み込まれキーボードと呼ばれるデジタルの時代が始まったのは・・・かれこれ、40年近く起ちましたね。
今は、キーを打つことから、タッチの時代だという方が大勢いるとは思いますが、コンピュータ入力の方法が変わるほどに、最初から知っている人間にとっては、実は作業効率が悪くなっていくようです。
クリニックや病院で電子カルテが導入され始めたときは、かえってカルテを書くことが遅くなり嫌がる医者が多かったことは間違いありません。
自分は開業した時、ある程度慣れていた自信があったので、抵抗はありませんでしたし、むしろ完全ペーパーレスを目指しました。でも、現実には、すべての紙を無くすことは不可能で、今になっても実現はしていません。
電子カルテに書き込むのは、確かに手で書いていた時よりも記録する量は減ってしまいます。最低限必要なことは漏らしたくないとは思っても、患者さんと向き合う時間を減らさないようにするには時間が足りません。
そこで、誤字脱字については気にしないことにしています・・・が、わざわざ、それを指摘する患者さんもいますけど・・・後で、読み返したときに意味が理解できるなら良しとする方針です。
さて、去年電子カルテパソコンの総入れ替えを行い、その時にできるだけコンパクトで安価な無線キーボードを新たに使い始めました。
ところが、ところがです。これが、困ったことに、打ちにくいなんてものじゃない。コンパクトにまとめるために、それぞれのキーが近いのはまだいいとして、キーの配列が独特すぎた。
これは慣れの問題だろうと、使い続ければ何とかなると思ったのですが、決定的なのはDELキーの位置。ENTERキーの右上に遠いところ。BSだけ使えばいいだろうと思うかもしれませんが、キーの間隔が狭いので、BSやDELを使おうとすると普段ほとんど使わないキーを触ってしまいぐちゃぐちゃになるんで、半年我慢しても、イライラがおさまりません。
しかも、キーがときどき引っかかるのも問題。そのまま床に叩き付けたくなることが多くなってきました。こりゃ、もうダメとあきらめざるをえない。
そこで、いろいろ探した結果、値段はけっこうするんですが、MicrosoftのSurfaceキーボードを購入しました。フルサイズにしては、比較的コンパクト。Bluetoothで接続は安定していて、何といってもキーの配列が標準的です。
ENTERとBSキーが小さめというレヴューはありましたが、これはノートパソコンのキーボードと比べれば許容範囲の大きさです。
今までより、やや指を広げないといけないのですが、これこそ慣れの解決が期待できることですから気にしないで行きたいと思います。打鍵感は、言うまでもなく素晴らしい。しっかりとした感触があり、打ち損ねはほぼなさそうです。
文字入力はデスクトップでの使い方としては、情報入力の基本中の基本ですから、やはりけちってはいけないところなんでしょうね。
2018年2月12日月曜日
記紀から知る建国の思想
一般に、日本の歴史の中で古代と呼ばれる時代を、古事記、日本書紀、そしていくつかの信頼される史書を通して勉強してきました。それらのあらすじから見えて来たものは、基本的に現在は「天皇」と呼んでいる、大王(おおきみ)の系譜をたどることでした。
ただし、特に記紀の目的は、繰り返しになりますが「歴史」であると伴に、大王が君主として支配し続けることの正当性を明らかにし、大王に対して尊敬の念を持ち服従すること迷いをなくすことにあったことは明白でした。それまでの語り継がれてきたいろいろな伝承があるにせよ、それを文字に残し記憶から記録に変えたのは天武天皇の時代です。
天武天皇は、国家の形成に対してそれまで以上に意識の高い天皇でした。観念的な部分よりも、理論的な合理性を重視した天皇であったという気がします。しかし、自らの絶対的な支配者としての立場を明白にするために、記紀の中におそらくは多くの創作、あるいは口承の改変が行われました。
しばしば言われることですが、「歴史は勝者が作るもの」ですから、記録された時点での勝者、あるいは支配者にとって都合の良いものが中心になるのは避けることはできません。つまり、その実務的な編集作業は、勝者の一角として天皇家に匹敵するほどの力を持っていた藤原氏が深く関与していたことは間違いがありません。
時代の流れの中で刻々と発生するエピソードを、その事象のみを淡々と記録することができれば、作為のない真っ新な「歴史」になるのかもしれませんが、おそらく歴史学は、それらの事象の生じた理由と、その後にどういう影響を与えたか明白にすることで成り立ちます。そのためには、「勝者」だけに偏よらない事実を見つけ出すことが重要ですが、古代史においては史料に乏しく様々な憶測が発生します。でも、そこが「謎」であり魅力があるところです。
今一度、記紀にみられる神代の世界に立ち戻ってみます。
縄文時代以後、日本は農耕民族として発展してきました。縄文時代と呼ばれる時期は、その後の時代区分と比べるとやたらと長い。時を遡るほどわからないことは多くなりますから、やむを得ないことではあります。稲作は縄文時代に始まっていたことはわかっていますが、国土全体に広がり文化として形成されるのが次の弥生時代であり、それは個人行動から集団行動、つまり「国の始まり」につながります。
自然発生的な植物採取から、意図的に栽培し収穫を得るという変革は、貧富の格差を発生させ、それが支配者を誕生させるきっかけです。また、植物栽培という観点からは、太陽の光と熱が重要であることが理解されるようになりました。世界中の農耕民族にとって、太陽が照らす昼間の重要性は、当然のように太陽信仰という考え方を発生させることはごく自然なことです。
つまり太陽がすべての恵みの根底にあり、そのことをイメージ化したものが「神」という存在であり、日本ではそれが最高神としての天照大御神に凝縮されたといえます。
古事記では「天地開闢後、造化三神が現れる」ところから始まりますが、日本書紀では「初め世界は混沌であったが、澄んだものが上に登り天、濁ったものは沈んで地を造り、その間に神が生じた」と書かれています。太陽がある空をより高貴なものとし、すべてのことの始まりから天の支配性と地の従属性を変えようがない真理としています。
天から地に最初に降り立つのは伊邪那岐(イザナギ、日本書紀では伊弉諾尊)と伊邪那美(イザナミ、日本書紀では伊弉諾尊)で、二人(二柱)は、まず国土を産み作ります。人間の周囲にある自然環境すべてが同じところから発生し、すべてのものに霊魂、もしくは霊が宿っているという宗教の根源的な考え方(アミニズムと呼ばれる)を示しています。
たとえば現代でも食事の始まりのあいさつとして、無意識のうちに「いただきます」と言うことが定着しています。これは、神への供え物などを頭上に「頂く」ことが語源とされています。しかし、その意味は人とその他の生命、自然そのもののすべてが同じところから生まれたもので同胞であることから、その命を自分のために「頂く」という気持ちが込められているそうです。
最後に生まれるのが、天にいて世界の頂点を支える天照大神、太陽が消えている夜の時間を密かに守る月読尊、地を支える須佐之男(素戔嗚尊)の三神です。月読尊の話題がほとんど無いことを不思議に思っていましたが、あらためて考えると人の活動は太陽が出ている昼間が主であり、夜は静かに何事も起こらないことが望まれているわけですから、月読尊の話が少ないことは当たり前なのかもしれません。
須佐之男命が天に上がって、大暴れして再び地上に追放されることは、天と地の決定的な上下関係を示し、一度地の者とされればどんなに抗っても無駄であることを意味しています。そして、天孫降臨の話によって最も高貴な太陽神の血統を引くもののみが地上を支配することができるとしました。
だからこそ、時にかなりの無理をしてでも天皇の「万世一系」に対するこだわりがあり、それを守ることが支配階級の安定につながったわけです。第二次世界大戦の敗戦後、天皇は自ら「天皇は神ではなく、人である」ということを明らかにしましたが、それでも意識するしないにかかわらず日本人の民族意識の根底に深く根付いているところなのだと思います。
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