2017年11月14日火曜日

記紀神話から消された歴史


とにかく日本の歴史ミステリー、歴史ロマンと言われるような話では、このことを除いては語れないほど注目度が高いのが「邪馬台国」であり、女王である「卑弥呼」の存在です。

邪馬台国が存在したと考えられる3世紀のことは、古事記も日本書紀も時系列として含まれているにもかかわらず、古事記には一切の記述はありません。日本書紀でも、備考としてそれらしきことが顔を出す程度の扱い。

にもかかわらず、その存在を否定しない最大の理由は中国の正史に記載があるからに他なりません。その書は、有名な「魏志倭人伝」と呼ばれているものです。

ただし、正確には魏志倭人伝という書物は存在せず、3世紀後半に当時の晋(しん)によって正史としてまとめられた「三国志」の一部である「魏志」の中に周辺諸国をレポートした「東夷伝」があり、その中の「倭人」について書かれたわずか二千文字程度の文章です。

江戸時代の儒学者、新井白石によって最初の研究が始まりました。新井白石は、魏志倭人伝に書かれた倭国への道程を当時の地名と対照させて、邪馬台国は大和国(奈良県)にあったととしました。しかし、晩年には、書かれた地名を中国語の発音で再度検討した結果、邪馬台国は筑後国山門(やまと)郡であると意見を翻しています。

「古事記伝」で有名な本居宣長は、邪馬台国は大和にあり女王もいたが、九州にいた卑弥呼が女王のふりをして中国から来た三国志編集者を騙したという説を持ち出しました。

その後、主に邪馬台国の所在地は畿内説と九州説に分かれた熾烈な論争は今に至るも続いており、さらに全国各地にここが邪馬台国と言い出すところが群雄割拠する事態が継続しています。

主として魏志倭人伝の書かれた中身を検討する歴史学者は九州説をとるものが多く、考古学の立場からは各地の遺跡からの出土品という「物証」より畿内説を主張する傾向があるようです。

特にキーアイテムとされるのが「三角縁神獣鏡」と呼ばれる物。魏国が卑弥呼に鏡を百枚送ったということが記されているため、中国から伝わったこの鏡の遺跡からの出土状況が議論の是非の根拠として持ち出されます。

いずれにしても、弥生時代後期、大和朝廷が確立する直前の人々の生活はどんな風だったのでしょうか。ある程度、まとまった集落を防衛的な目的の壁などで囲って「都市」とも言える共同生活の場を形成していたようです。当然、これは日本で最も古い国の前身と考えることができます。

魏志倭人伝の記載から、おそらく3世紀にそれぞれの集落が戦国時代に入り、30国を従えた邪馬台国が卑弥呼を担ぎ上げてのし上がってきます。邪馬台国では租税制度があり、身分階級制度が導入されていました。

卑弥呼は記載された時点では、すでに高齢で独身、弟が政治を補佐していたらしい。また住む場所は、一般人の住む囲いのある都市とは別の場所で、多くの警備人員を配していました。これはこの後の古墳時代の首長の住居に似ているのだそうです。

239年に卑弥呼は魏国へ特使を派遣し、外交関係を築き、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を得ることに成功します。その後邪馬台国は狗奴国(一般的には南九州と考えられています)との激しい勢力争いになり、魏国が加勢しおそらく邪馬台国の勝利になったのだろうと思われますが、その戦乱の半ばの248年に卑弥呼は死去したと記されています。

結局、邪馬台国はどこにあったのか、女王・卑弥呼とは誰なのか、その後の歴史の中で大和朝廷との関係はどうなっているのか、記紀に記載が無いのは何故なのか、とにかく興味は尽きませんが、現在までに誰もが納得する答えは見つかっていません。

2017年11月13日月曜日

記紀神話から見える現実


今の日本の国土は、ユーラシア大陸の端っこの一部だったことは確定している話です。つまり氷河期・・・更新世(こうしんせい)と呼ぶ時代のこと。大陸と北と南が陸続きになり、日本海は「湖」だったそうです。

少なくとも60万年くらい前、40万年くらい前、そして2万年くらい前の3回はつながっていたと考えられています。少なくともゾウは泳げないので、北海道で化石で見つかるマンモスはシベリア経由で、全国的に化石が見つかるナウマンゾウなどの朝鮮半島から歩いてこれたことは確実。

この時期にいろいろな動物が、大陸から歩いて、あるいはちょっと泳いで日本列島に渡ってきたらしい。その中にヒトがいたはずなんですが、現在わかっているのは4万年前くらいの石器(人が作った、つまり人がいた証拠)が最古とされています。

その頃の人は、おそらく狩猟による食物の確保が中心の生活で、気候のよい生活環境の場所に集中し、ある程度の集団で生活していたらしい。なんと、いろいろな資料から当時の人口を推計した話があって、西日本を中心に日本列島全体で約8000人なんだそうです。

当然、まだ国家というような概念はなく、ゾウのような動物を倒すために共同作業をするための共同体ということでしょう。気候の変化により、居住地域は動いていくはずですから、リーダー的な存在のヒトはいたかもしれませんが、定住生活が始まる縄文時代以後まで国の誕生は待たないといけません。

縄文人になると狩猟による生活から、保存のきく木の実などを主食とする生活にかわってきます。住居は竪穴式となり、定住生活が始まりました。そうなると、一定の食物が手に入ることを願う・・・つまり祭り、そして宗教的な儀式が始まるわけです。

さらに縄文時代末になると、稲を含む穀物が食べられていたらしく、大陸から持ち込まれたものか、実際に栽培が始まっていた可能性があるわけで、しだいに集団の力が大きくなっていく・・・その中にはっきりとしたリーダーが登場することになる。

その各地に登場してきたリーダーの中の一組が、イザナキ・イザナミだった。そして、彼らは子を増やし、さらに力をつけていったのかもしれません。

当初の彼らの縄張りは淤能碁呂島(おのごろしま)と呼ばれていた淡路島で、人口の増加とともに海を越えて、紀伊半島、中国地方、四国、九州などへ勢力を拡大していったのが「国生み神話」の裏側だったのだろうと想像します。

縄文時代の呼び名の由来は、この時代を特徴づける土器についていた紐を回してつけた跡です。一方、この後に来る弥生時代は、明治時代に東京都文京区弥生町で縄文土器とは違う土器の発見からきています。

弥生時代は、朝鮮半島から渡ってきた人によって伝えられたと考えられてる稲作文化が最大の特徴。さらに布を織る技術、青銅、鉄などの金属製の道具を作る技術も流入してくることになります。豊かさが増えることは、争いと、人の上下関係の始まりでもあるわけです。

当然、朝鮮半島と最も行き来のしやすい、対馬経由の北九州、隠岐島経由の島根付近が、新しい文化発達の中心となるはずです。これらの地域には、強大な新興勢力が登場しても不思議はありません。

これは勝手な想像ですが、紀伊半島を中心としたイザナキ直系のアマテラス集団に加えて、この時代にそれぞれの場所でリーダー格として出てきたのが、オオクニヌシ集団とスサノオ集団だったのかもしれません。古事記の中で本来は同格のはずのツクヨミ集団は、おそらくアマテラス集団に吸収されてしまい消滅したのかなと思ってしまいます。

この辺りは本当に勝手な想像ですから、何の根拠もありませんから、読み飛ばしてもらっていい話ですが、例えばアマテラス国は、最初は仲良くしていた北九州のスサノオ国を併合しようとしましたが、抵抗にあって結局は南吸収に追いやって封じ込める。

さらに、アマテラス国は日本海側に進出し、オオクニヌシ国を吸収合併することに成功して最大勢力としての地位を確保する。最後まで抵抗をしていたスサノオ国はアマテラス国が派遣したニニギによって制圧され、国家としての初期形態が完成したのが3世紀頃の話・・・なんてストーリーを想像すると楽しくなってきます。

いずれにしても、3世紀になり弥生時代後期になってくると各地の部族間の争いは確実に激しくなり、その中で歴史上注目度の高い人物が登場します。それが「邪馬台国」を率いる「卑弥呼」ですが、記紀の中では明確な記述はゼロというのは驚くしかありません。

そして、4世紀半ばにその中から抜き出たのグループが大和朝廷となり、天皇制のもとに日本という国家を統一していったということだけは間違いないようです。

2017年11月12日日曜日

古事記の成立


古事記の原本は今は残っていません。今、古事記として読むことができるものは、後世に写本されたもの。一番古い物が、14世紀の真福寺本と呼ばれる物。

古事記が成立したのは712年と確定的に言われる理由は、この真福寺本にある「序」に「和銅五年正月二十八日に献上」と記されているからです。

さらに、著者は、稗田阿礼(ひえだあれ)が、記憶していた古い資料(「帝紀」と「旧辞」)の中身を語り、太安万侶(おおのやすまろ)が文章としてまとめあげたものと書かれています。

そして、「序」によれば(おそらく)天武天皇から指示されたとありますが、その後天皇の逝去、その後継をめぐるごたごたで政情不安定がしばらく続いたせいなのか、和銅5年の成立までに30年以上を要したと考えられています。

この「序」がいろいろな問題を含んでいるのですが、そもそも序というのは読む人に対する編者・著者の挨拶文ですが、内容は明らかに時の天皇に対しての「献上」されたもので「表」と呼びならわされるもの。

その結果、「序」は後世に後付けされたものであるとか、本文そのものも捏造された可能性も議論されることになりました。

次に「序」の書かれた口述者である「姓は稗田、名は阿礼、年は28歳」なる者はどんな人物かという問題。見たもの読んだものは一目で記憶してしまう天才ということが書かれているのですが、男性なのか女性なのか、稗の田が荒れているともとれる名前は誰かのペンネームとも考えられます。

さらに、太安万侶も実在の人物か疑われていました。しかし、なんと比較的新しい1979年に奈良県で太安万侶の墓が発見され、奈良時代に実在した文官であることが証明されたことで、さまざまな古事記の成立に関する疑いが晴れました。

とは言っても、古事記の内容についても、いろいろな諸説が入り乱れている状況には変わりありません。一般的には対外的な「正史」として編集された「日本書紀」に対して、「古事記」国内向けのものと言われています。

それなのに、江戸時代に国学者、本居宣長が注目する(「古事記伝」、1797年)まで、ほとんど国内では話題になりませんでした。以後は、積極的な研究が盛んになったわけですが、盛んになればなるほど謎が謎を呼ぶというわけです。

歴史、考古学、文学などさまざまな方面から学者が喧々諤々の議論をしてもはっきりしないことは、素人の自分がここで考えてもしょうがない。一般的な見解を素直にそのまま受け入れておくことにします。

つまり、時の権力者であった大和朝廷が、大なり小なり創作を交えつつ、いろいろな伝承を換骨奪胎して作り上げた日本の建国の歴史書の一つが「古事記」であるということ。

その目的は、天皇家が支配することの正当性を明示すること。とくに古事記では、「神代」と呼ばれる上巻が最も重要な部分で、天と地、山と海のすべての力を天皇家が持つことの理由付けがされています。

その中身はほとんどファンタジーの世界ですから、古典文学の作品として十分に鑑賞しうると同時に、その行間からは当時の人々の暮らしが垣間見え、日本の古代史を知るための資料としても重要だということです。

2017年11月11日土曜日

外苑の銀杏並木


銀杏並木道はたくさんありますが、都内でも特に有名なのは青山の神宮外苑。毎年、今の時期にはたくさんの観光客も集まります。

毎年、この時期、大学へ行くときに楽しみにしています。さて、今年の銀杏の葉の色づき具合はというと・・・今週は、70%くらいという感じでしょうか。

南側、つまり絵画館に向かって左側はほぼ黄色に染まっています。葉も落ち始めていて、黄色の絨毯とのバランスだとこの土日が一番の見頃かと。


北側はまだまだ。緑の部分がかなりある。日当たりの関係でしょうから、しょうがない。

そのかわり、今週は南側、来週は北側と2度楽しめるのかもしれないと思えば、まぁ、いいんじゃない?

2017年11月10日金曜日

神社の成立と社格


元々、何か祀り事をする時だけ、祭壇を用意したのが常設化したのが神社の始まり。弥生~古墳時代に整備されていったと言われています。

6世紀半ばに朝鮮半島を経由して大和朝廷に公式に仏教が伝来してくると、賛否両論を巻き起こしながら日本でも広まっていきました。特に仏教に肩入れしたのが豪族の一つである蘇我氏。仏教が、実際に民間に浸透するのは平安時代以降とされています。

時の権力者の考え方もあって、神仏は抜きつ抜かれつの状態から、しだいに両社が混在する神仏習合の時代が、なんと明治維新を迎えるまで続きます。この中で、例えば両者が合体した神宮寺と呼ばれるものも登場しました。また、仏が生まれ変わって神様になったと考える権現(ごんげん)もありました。

明治政府は神仏は異なるものという考えから、神仏分離令を出します。これによって、神社に中の寺、あるいは寺の中の神社は分離・整理されました。神主さんの一部は住職に、住職の一部は神主に専従することになります。

戦後は、GHQの指導により国家から宗教が切り離されることになり、それぞれが宗教法人として自由な活動を行うようになりました。神社を統括する組織として神社本庁が設立されますが、庁とついていても政府の機関ではなく、民間宗教法人の一つ。中には所属していない神社もあります。

現在は神社の格付けは無くなったので、実質的な分類としてはすべての神社の頂点にある「神宮」とその他のすべての神社という単純化されたものしかありません。単に神宮と言う場合は、いわゆる伊勢神宮のこと。つまり伊勢神宮は通り名であって、正式名称は神宮の漢字二文字です。

それまでは、神社には社格と呼ぶ格付けがありました。古くは大宝律令(701年)によって、公的に管理する(各種の祈念祭の運営費用を出す)神社を「官社」と規定しました。延喜式神名帳(927年)という神社リストが現存していて、ここに2861社が記載されています。

これらを式内社(しきないしゃ)と呼び、格式の高い重要な神社とされました。一方、リストにのらなかった神社は式外社(しきげしゃ)と呼ばれます。

式内社の中で、朝廷の直接の管轄下にある神社は官弊社、地方の行政単位である「国」ごとの管轄にあるものを国弊社と呼びました。それぞれ大小があり、官弊大社、官弊小社、国弊大社、国弊小社に分けられます。

さらに、それぞれの国で、最も有力な神社から順に、一宮、二宮、三宮・・・という順位が付けられました。国府(今で言う県庁所在地)の近くにこれらをまとめたものが総社です。11世紀初めに、特に重要とされる神社が選出され「二十二社」と呼ばれるようになります。

明治政府は新たに神社の格付けを行い、社格の対象外である(伊勢)神宮と官国弊社として218社、諸社(民社)として約5万社、無格社として約6万社を規定しました。

現在、社格制度は廃止され、伊勢神宮以外は同格となっていますが、
神社本庁は別表神社という制度を設けており、旧官国弊社に加えて、一定の基準を満たす重要な神社(約350社)を厳選しています。

意外なことに、有名な京都・伏見稲荷大社、石川県・気多大社、東京・靖国神社などは神社本庁組織には加入していません。

2017年11月9日木曜日

神様がいるところ


そもそも、神社って何? という話。

う~ん、端的に言えば、神様を祀って、神道にそっていろいろな祀り事を行う宗教的な場所・・・ということですかね。

あまり意識していなくても、こどもの時から夏祭、秋祭、そして縁日、神輿など、ずいぶんと関連行事では楽しませてもらったはず。

こどもが生まれて100日目には、お食い初めをして、たいてい神社で元気に育つように祈祷をしてもらう。七五三も神社。結婚式というと、神主さんに祝詞を上げてもらう神前だったりします。

宗教、とくに神道というと、何か思想的なことを考えてしまいますが、日本人の生活の中には、文化として深く定着しています。右だ左だと言わなくても、日本人は独自の神仏混合文化によって、日々の生活を動かしている。

神社で祀る神様の定義というのも、わかったようでわからない。

たぶん、神様は3種類に分類できそう。一番は、記紀に登場する「~神」、「~命」、「~尊」などがつく人(?)で、これはわかりやすい。記紀の中で日本の国の創建に関わったということ。

西洋的な神(god)というのは、万物の創造主ですから、これらを超えたその上の存在。キリストも、基本的には「神の子」であり、記紀に登場する日本の神も同じレベルなのかなと思います。

ギリシャ神話では、一番の大元にゼウスがいて、その下にたくさんの神が登場します。記紀神話では、大元については言及されていなくて、いきなり「神の子」的な神様が次々と登場する。

2番は、各地の伝承・伝説などで語られる神様。いわゆる民間信仰の対象になるもので、 実質的な存在としてはよくわからない。

3番は、実際に存在して、偉人として崇め奉られた人。亡くなって神様に昇格して、人々の心に残っている場合。今どきの表現では、生前「神ってた人」というところ。

実際に祀っていて、礼拝の対象になる物はご神体と呼ばれる神が宿ったもの。これも様々。

皇室の印である三種の神器(鏡、剣、勾玉)にあやかったものをご神体としている場合が多く、中でも丸い鏡はよく見かけることができます。これはほとんどの神社では天照大御神(アマテラスオオミカノカミ)が祀られていることに関係しているようです。

鏡は、天岩屋戸で、隠れた天照大御神を引っ張り出すのに用いられ、天孫降臨の際に日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)に授けられたもの。高天原の中心である天照大御神と、天皇家の始祖となる邇邇芸命を象徴します。

ただし、ご神体は物質的なものに限りません。大国主命(オオクニヌシノミコト)が国造り推進のために大物主神(オオモノヌシノカミ)を三輪山に祀ったことが由緒される奈良県・大神(おおみわ)神社は、山ぜんたいがご神体とします。4か所に拝殿を持つ信州・諏訪大社も、それぞれが山や木をご神体としています。

少し話はずれますが、大相撲は神事とされており、最も優秀な大関は生き神様としてご神体の扱いを受けます。ですから注連縄(しめなわ)をつけることができるわけで、横綱と呼ばれるようになりました。

2017年11月8日水曜日

青葉餃子 @ 青葉台


餃子です。

店の名前からしても、いかにも餃子専門店。田園都市線 青葉台駅前を北へ5分くらい、桜台交差点の近くにあります。

店としてはあまり大きくなく、縦長の鰻の寝床みたいな店内は、レトロな昭和のディスプレイがたくさんあって、昭和のおじさんには居心地のよい雰囲気です。

さすがに餃子のメニューはたくさんあって、どちらかというと夜にお酒を飲みながらというのが似合うかもしれません。

今回は開店の時間を目標にお昼に行ったのですが、すでに何組かが行列を作っていました。店は狭いので、開店と同時に満席です。

一番の餃子へのこだわりは、たぶん注文を受けた分だけ調理する直前に皮に包むことみたいです。ラーメン店なら、先に包んで用意しておくところです。

できるだけフレッシュなものをという・・・ことなんだと思います。そのせいか、皮の美味しさと餡の美味しさが生き生きとしていて、何種類かたべましたが、どれも大変素晴らしい。

そのかわり、たかが餃子と思っていると、出てくるのにけっこう時間がかかります。お店の回転は良好とは言えないかも。余計なお世話ですが、経営的にちよっと心配してしまいました。

ちなみに・・・というのも何ですが、担々麺も美味しかったです。

2017年11月7日火曜日

立冬


いよいよ暦の上で冬。立冬です。

ちょっと、そこのあなた。扇風機がまだ出ていませんか? いいかげん、しまいましょうよ。

・・・って、自分の事じゃん!! 何故か(って、掃除が面倒だから気がつかないふりをしているだけなんですが)、いまだに扇風機が室内にあり、ヒーターがいつのまにか登場している。

本格的に寒くなるにはもう少し時間がかかりますから、立冬の合図で忘れていた夏物はいっせいに片付けましょう。

去っていく季節はゆっくりですが、近づく季節の足並みは早いものです。灯油の準備はOKですか? 温かい布団は出してありますか? 降ってから買いに行くのは大変ですから、雪かきの準備も・・・

まぁ、そこまでしなくてもいいんですが、寒さが厳しくなってきますので、体調を崩さないようにしたいものです。


2017年11月6日月曜日

記紀のおすすめ本


古事記、日本書紀の原典については、現代語訳も含めて直接読みたい方には、岩波書店版が一番普及しているようです。



似たような主旨であれば、小学館版もあります。



原典だけを見たい、読みたい場合は、ネットでは全文検索が可能なサイトが見つかります。制作者の詳細は不明ですが、よくぞ作ってくれましたという感じ。

古事記全文サイト(http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html)
日本書紀全文サイト(http://www.seisaku.bz/shoki_index.html)

全部載っている物は内容量が膨大で、分厚く重たい。文庫版は紙面の都合上見にくいし、当然文字が小さくて(老眼には)読みにくい。それに分冊になると、持ち歩いて時間があるときに行きつ戻りつ的な読み方をするには不便。

特に、日本書紀は長大ですし、事実らしきことの羅列みたいなところがあるので、原典にはあまりこだわらなくてもいいように思います。

そこで、原典はネットの世話になることにして、読み下しと現代語訳が一冊にまとまっているものがおすすめかと。これは、山ほど見つかりますが、前に書きましたが現代語訳は訳者の主観が入りやすい。

古事記で一番手に入れやすく、売れ筋なのは、天皇の親戚筋である竹田恒泰のもの。そして、三浦祐之版「口語訳」というのもあります。竹田版は読みやすいのですが、その分主観的。三浦版は、「・・・でした」がすべて「・・・だったのじゃ」という語りことばになっていて、余計な文字が多すぎて「じゃ」がじゃま。

自分が用意したのは、マイナーなんですが、雑誌の歴史読本の特集を単行本にした「古事記 ~ 神話と天皇を読み解く」というもの。10年くらい前のものですが、評論集もセットでかなりお買い得。

そして、そもそも最初に古事記が面白いと思わせてくれたのが、「愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記」です。まんが版は数あれど、中途半端な挿絵程度のものが多い。これは、絵も楽しくて、文字数も適量で入門には最適です。

そして、おそらく次のベストセラーになっているのが「ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語」で、もう神様たちのキャラが抱腹絶倒に立ちまくっています。しかも、素晴らしいことにネットでも公開していて、さらにラジオドラマ版の音声データまで公開している。

日本書紀については、まだまだ探したりないかもしれませんが、古事記に比べるとあまり本の数はない。コンパクトにまとまったものを探すと、本当に項目の羅列だけになってしまって、古典文学的な雰囲気がまったく無いただの歴史ノートみたい。

でも、できれば一冊にまっとまったもの・・・と探したら今年7月の最新刊で、「解析 日本書紀」というがあった。書評が見つからないので不安だったのですが、取り寄せてみると、程よい解説と程よく整理された現代文で、なかなかの優れものでした。

解説書や研究書はたくさんありますから、気になるタイトルがあれば、それぞれの方の気の向くままどうぞ、という感じ。ただし、思想的な誘導が目的のものもありそうなので、ちよっと気にした方がいいかもしれません。

その中で、「あらすじとイラストでわかる古事記・日本書紀」はコンビニで売っている500円のワンコイン本ですが、紙質はよくありませんが、なかなかの優れもの。これ一冊で記紀すべてのあらすじがわかって、もう最低限の知っているとより深く理解しやすい解説がついています。

ちょっと注意したいのは、成立や内容について偽っている偽書というもの。そもそも古事記そのものさえ偽書論争があるわけですが、記紀については特に「竹内文書」、「ホツマツタエ」という2つのキーワードが深く関係してきます。いずれも記紀より前に作られた編纂資料であるとされたくさんの書籍が見つかりますが、基本的には多くの学者さんからは否定されているもの。

神代の話を、純粋なフィクションとしてだけ楽しみ、そこからスピンオフ作品が生まれれば、それも追いかけたい場合はかまいません。しかし、事実としての古代史を意識するからには、簡単に手を出すことは大変危険なことだろうと思います。

あと、記紀の世界に実際に出かけてみたいという方向けのガイドもいろいろあります。歴史物に強い洋泉社MOOKのシリーズがお勧め。昨年の「古事記 神話を旅する(完全版)」、「日本書紀 古代大和を旅する」が情報が新しくて、それぞれのあらすじも含みますし、写真も綺麗。文字だけ見ているより、こういう本を手元に置いてヴィジュアルに想像するのは楽しみを倍増させてくれます。

2017年11月5日日曜日

記紀の楽しみ方


これは、もう人それぞれ。日本建国とか、天皇論まで含まれてしまうので、単なる歴史だけでなく、政治的、宗教的、または哲学的など思想論まで行ってしまう内容を含んでしまいます。

とりあえず、日本の歴史を知る上で最古の書物である「古事記」上巻を読み飛ばしてみました。今さらですけど、自分の立場を明確にしておく必要を感じました。

自分の場合は、半世紀以上日本人をしていますから、天皇制度については、特に疑問を感じることもありませんし、ほぼ無批判に受け入れている。

また、宗教的には、生活の必要上、仏教を中心にした形式は排除できませんが、だからと言って特定の宗教を信奉しているわけでもない。

例えば、以前キリスト教について、けっこう突っ込んだ勉強をしたんですけど、キリスト教徒になりたいわけではなく、バッハの音楽を深く知るうえで必要不可欠だったからという理由です。

古事記の勉強をしてみると、資料となる本やネットの情報は、ほぼ上巻の部分、つまり神話と呼ばれる部分(神代)に集中しています。中巻、下巻は初期の天皇の話で人代と呼ばれています。

人代については、同時期の日本書紀が日本の公式文書として詳しいので、どちらかというと古事記はあまり顧みることは少ないようです。

いずれにしても歴史は勝者の文書ですから、勝者の主観が働いて、都合の良い書き換え、思い込み・・・悪く言えば捏造が含まれていることは当然のこと。

ですから、すべてをそのまま信じるわけにはいかないのですが、そのあたりは古いことで事実を最終的に確認することは誰にもできません。いろいろな説が入り乱れて、どれもが自分が正しいと主張はしているものの、決定的証拠を提示することは不可能な話。

となると、古事記・日本書紀について、歴史学者ではない一般人としては、古典文学として作品の面白さに注目して楽しむ方が気楽というものです。当然、いかにも歴史を羅列した感がある日本書紀よりも、ファンタジー満載の古事記の方が読んで楽しい。

その面白さは、一見荒唐無稽なSF的な話の中から、実際のあったことを想像することにあります。つまり、古事記が口頭伝承を文字にしたものとしても、まったくの作り話ということではない。

何か実際に起こったことをほんの少しだけヒントにしている話から、一から十まで事実に基づいたものまで、いろいろな程度の脚色が含まれているのだろうと思います。

そう考えると、書かれていることから基になった事実を探して、どうやって伝承されてきたのか、自分が納得できる答えを見つける。その中から、日本という国がどんな感じで出来たのか、朧気にわかればいいんじゃないかと思っています。

さて、参考にする資料はどう選択するかということなんですが、基本となる原典については、文学作品としては本来はそのままずばりがいいわけです。

しかし、如何せんほとんど漢字だらけの世界ですから、超苦手だった古文・漢文をもう一度勉強しないといけない。そこは妥協が必要で、原典を参考にしつつ、その読み下し文、そして現代語訳の3つの形式を往きつ戻りするしかありません。

特に重要なのは一番ストレートに内容を理解しやすい現代語訳ということになるのですが、山ほど書籍が出版されているので、注意が必要なのは、訳した人の主観がかなり混在するという点。

現代語訳は、行間を理解するための解釈が追加されてしまうので、訳者の一方的な考え方が含まれる可能性があるので、できるだけ淡々とした文章を選びたい。

原典、読み下し、現代語訳の3つが揃っていて、客観性がありそうな物は意外と少ない。岩波書店版の単行本・文庫くらい。単行本は高いし重たいし、文庫は見ずらい。

いっそのこと記紀をもとにした主観入りまくりの小説的な作品までいけば、記紀の世界観を知るための入門編としては、それはそれでありなのかもしれません。それらのおすすめ本の紹介は、また次の機会ということにしたいと思います。

2017年11月4日土曜日

古事記(10) 火照命者爲海佐知毘古、火遠理命者爲山佐知毘古


葦原中国を治めるために高天原から降臨したニニギは、サクヤヒメとの間に3人のこどもをもうけました。長男は火照命(ホテリノミコト)で、またの名を海幸彦(海佐知毘古)といいます。次男は火須勢理命(ホスセリノミコト)、そして三男は火遠理命(ホオリマミコト)で、またの名を山幸彦(山佐知毘古)といいます。

弟の山幸彦が、ある日兄の海幸彦にお互いの道具を交換してみようともちかけます。山幸彦は兄から借りた釣針を使ってみますか、魚は釣れないどころか、釣針を海に落としてしまいました。

山幸彦は謝って、自分の剣からたくさんの釣針を作って償いますが、海幸彦は許さず「元の釣針を返せ」と責め立てます。

山幸彦が浜辺で泣いているとも塩椎神(シオツチノカミ)が現れ、竹籠のの小舟を作り、この船に乗って行けば美しい綿津見宮殿(わたつみのきゅうでん)に着くからそこで相談するとよいと教えてくれます。

このくだりは、すぐに思い起こすのは浦島太郎の話。竜宮城に行ったきり楽しくて時が経つのも忘れた浦島の話は、確かにこのくだりがヒントになっていることは間違いありません。

綿津見宮に到着した山幸彦は海神の綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉毘売(トヨタマヒメ)とお互いに一目惚れ・・・さすがに古事記のこのパターンには、もう驚きません。そうなると思っていましたとも。

トヨタマヒメと結婚して楽しく過ごしていた山幸彦は、3年経って急にここに来た目的を思い出しました。海神が魚を集めて調査するとすぐに失くした釣針が見つかり、兄より優位にたつ方法を教えて遊馬幸彦を葦原中国に返します。

海神の言うように兄は次第に貧しくなり、攻めてきましたが海神にもらった潮の満ち引きを操れる珠を使って降参させ、以後海幸彦は山幸彦の護衛として仕えることになりました。

でも、よく考えると、本来使うべきではない道具をねだったのは山幸彦。その大事な兄の道具を失くしたのも山幸彦。それなのに、基本的に何も悪くはない兄を虐めて降参させたのも山幸彦・・・って、何か理不尽じゃない? 所詮、勝者が正義という理屈なんですかね。

そうこうしていると、トヨタマヒメがこどもができたと言って山幸彦の元にやってきます。ここで、またしても繰り返される「絶対見てはいけない」パターン。

出産するところを見てはいけないと言われたのに山幸彦は覗いてしまい、トヨタマヒメが鮫の姿をしていたことに驚きます。トヨタマヒメは見られたからにはここにはいられないと言って、玉依毘売(たまよりひめ)に後を託して子を置いて海に帰ってしまいました。

ニニギ以降寿命ができたはずなんですが、山幸彦のホオリノミコトは高千穂の宮で580年の生涯を閉じたそうです。トヨタマヒメの間に産まれた子は鵜葺草葺不合命(ウガヤブキアエズノミコト)で、タマヨリヒメと結婚し、そして二人の間に神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が誕生します。

このカムヤマトイワレビコノミコトこそが、初代天皇である神武天皇その人なのです。ここに古事記の上巻(かみつまき)、いわゆる神代(かみよ)編が閉じられます。

山神の娘と結婚したニニギ、海神の娘と結婚したホオリとウガヤフキアエズを日向三代と呼び、山と海を全て支配できる理由付けが完了したと考えられていて、その子であるイワレビコの権力の正当性を明らかにしたということ。

宮崎・鹿児島近辺にその関連する場所が見つけられます。霧島神宮鹿児島神宮鵜戸神宮などには、日向三代の話の登場人物が数多く祀られています。ただし、綿津見宮の旧跡と言われる和多都美神社は長崎県対馬にあります。

宮崎県の西都原古墳(さいとばるこふん)は、日本最大級の史跡で、3~7世紀のものと推定されています。何らかの関係性が考えられていますが、まだはっきりしたことはわかっていません。少なくとも、相当大きな勢力が存在していたことは間違いないようです。

2017年11月3日金曜日

古事記(9) 故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位


地上を外交戦略で平和的に手に入れたアマテラスは、実質的な葦原中国の運営を長男、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)に命じます。しかし、オシホミミは天下る準備中に子供が生まれちゃったので、そっちを遣わせましょうと提案。

どうも、オシホミミはオオクニヌシとの交渉の時も一番手でいながら、途中で戻ってきてしまうし、今回ももっともらしいけど、釈然としない理由で任務放棄した元祖日和見族という存在です。

オシホミミのこどもの名前は日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)で、母親はアマテラスのお目付け役の高木神の娘であり、またアマテラスの知恵袋である思金神(オモイカネノカミ)の妹です。

タカギの孫ということですが、アマテラスからしても孫にあたるに少年ニニギが地上に降りるということで、この一連のエピソードは「天孫降臨(てんそんこうりん)」として知られています。

とりあえず高天原オールスターズで下っていくと、途中に高天原から葦原中国まで照らす者がいる。アマテラスは天宇受売神(アメノウズメノカミ、日本初のストリッパー)に調べてくるように命じます。

すると、名前は猿田毘古神(サルタビコノカミ)で、天孫降臨の道案内をしたいと言っているとわかります。そこでアマテラスは、オールスターズの中から選りすぐりをニニギの御伴に指名して、三種の神器を授け見送りました。

この時サポートチームに選抜されたのは、オモイカネ、手力男神(タヂカラオノカミ)、天石戸別神(アメノイワトワケノカミ)、そして天岩屋戸事件で活躍したウズメら五柱神でした。そして、ニニギ一行は、竺紫(つくし)の日向の高千穂の霊峰に降り立ちました。

高千穂は「高々と稲が積みあがる」場所であり、日本人の主食が稲であることを示しているようです。高千穂が、現在の宮崎県の高千穂峡なのか、鹿児島の高千穂峰なのかは意見が分かれています。

さらに、福岡にも日向という地名があって、後の話の展開を考えると、宮崎・鹿児島は無理があると考える学者も少なくありません。

・・・って、よく議論の対象になるようなんですが、別に基本的な問題があると思うんですが、あまりそのことに答えた文章が見つからない。こっちの勉強不足なのかもしれませんが、国譲りで手に入れたのは出雲なのに、なんで降臨したのが九州なのかという点が不思議です。もっとも、そのあたりを素直に受け入れないと、全編にわたって矛盾だらけですから、とても読んでいられませんけどね。

高千穂峰には、いつ誰がやったのか不明の逆さに立つ剣(天逆鉾)が有名。イザナキ・イザナミが天浮橋から地表を掻き回した天沼矛(あめのぬぼこ)のことと言われていますが、国譲りの際にオオクニヌシから送られ、ニニギが山肌に突き刺したともいわれています。

天逆鉾は奈良時代からあったようですが、霧島の噴火により折れて現存するのはレプリカだそうで、いつ折れたかもわからない。折れた部分は行方不明で、一説では伊勢神宮にあるとも言われています。なんと、坂本竜馬がこれを引っこ抜いたことがあるなんて話もあったりします。

ニニギの命により、ウズメ改め猿女君(サルメノキミ)は役目を果たしたサルタヒコを送っていきます。ところが、伊勢の阿邪訶(あざか)で、サルタヒコは貝に手をはさまれ海に沈んでいました・・・って、溺れたんかい!!

サルメはちゃっかり帰ってきますが、「魚たちはみんな天孫に仕える」とだけ報告しています。これは魚が食材になることを了承したということで、伊勢の隣、志摩の豊富な海産物ほ指しているようです。

ただし、海鼠(なまこ)だけ返事をしないので小刀で口を切ってきた。ナマコの口が裂けているのはそのせいだと・・・そんなことよりサルタヒコが気になるんですが、その後どうなったという話は出てこない。とりあえず、伊勢神宮内宮近くで専用の神社に「道開きの神」として祀られました。

さて、成長したニニギは笠沙の岬で大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と出逢い、またも繰り返される一瞬で惚れてプロポーズする事態。

オオヤマツカミは喜んで、姉の石長比売(いわながひめ)をセットにして嫁入りさせました。ところが美人のサクヤヒメに対して、イワナガヒメは超がつくブス。ニニギはイワナガヒメを送り返します。

頑丈な命を保証するイワナガヒメを返したことで、天皇の命は木の花のようにもろくはかなくなった・・・寿命に限りがあることになった、つまり「人」と同じ理由の起源になりました。

サクヤヒメはやがて妊娠しますが、ニニギは妊娠が早過ぎで、元彼の子じゃないかと疑います。サクヤヒメは不貞の子なら無事には生まれないと言い、出入り口を塞いで火を放った御殿の中で出産し身の潔白を証明しました。でも、もしも元カレの子の場合は、結婚前で「不貞」ではないから、どっちにしても無事に生まれるんじゃ・・・

サクヤヒメは安産と火消しの神として祀られ、さらに富士山の頂上から桜の蒔いて全国に広めたということになっています。一方、イワナガヒメは妹を呪って引きこもり人生を送ったとの話もありますが、永遠の命の象徴として祀られたりすることになりました。

2017年11月2日木曜日

古事記(8) 此葦原中國者、我御子之所知國


さて、大国主神により出雲が豊かな国として発展したところで、久々に登場してくるのが高天原の天照大御神。

アマテラスは、「そもそも葦原中国は天つ神が治めるはずのもの。国つ神から返してもらう」と言い出した。長男の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を派遣するも、地上が騒がしいという理由で天浮橋から引き返してきてしまう。

そこで、今度は次男の天菩比神(アメノホヒノカミ)を下らせるのですが、オオクニヌシに丸め込まれて3年たっても戻ってくる気配がない。

三人目は天津国玉神(アマツクニタマノカミ)の子、天若日子(アメノワカヒコ)なんですが、これもまた地上に降りた途端にオオクニヌシの娘、下照比売(したてるひめ)と恋に落ち結婚。8年たっても音信不通という事態でした。

しびれを切らしたアマテラスは鳴女(なきめ)という雉を偵察に行かせたところ、怪しんだアメノワカヒコは、アマテラスに授けられた弓矢でこれを射殺してしまい、その矢は高天原にまで届きます。

高木神(タカギノカミ、高見産須日神の名前が、何故かこのあたりからこう呼ばれる)が、「アメノワカヒコが命令を守っているなら大丈夫だが、もしも寝返ったのならこの矢で死ぬ」と言って矢を投げ返します。すると、矢はアメノワカヒコの胸に刺さって、彼は命を落としてしまいました。

アマテラスは生ぬるい交渉では埒が開かないと考え、いよいよ武力行使も辞さない気持ちで体育会系の建御雷之男神(タケミカズチノオノカミ)を出動させます。

タレミカズチは出雲の伊那佐の小浜に降り立ち、剣をぐっと浜に刺しました。出雲大社の西側の浜を、今でも稲佐の浜と呼んでいるので、きっとその辺りのことでしょう。

そしてオオクニヌシに「国をよこせ」と詰め寄りますが、オオクニヌシは息子の事代主(コトシロヌシ)の意見を聞いてくれと返答します。しかし、情ないことにコトシロヌシは「どうぞ差し上げます」と言って隠れてしまいました。

オオクニヌシは、もう一人の息子である建御名方(タケミナカタ)の意見も聞くように言います。そこへ登場したタケミナカタは、タケミカズチに劣らない武闘派。早速、力比べが始まりますが、これが日本初の相撲の試合ということ。

タケミナカタは圧倒的なタケミカズチに敵いそうもないと恐れをなして、信濃国の諏訪湖まで逃げていき、平謝りで命乞いをしてしまいました。そして、信濃国から出ないと約束してしまったので、現地で祀られることになってできたのが諏訪大社

オオクニヌシは、国を譲ることを了承し、ここに有名な国つ神から天つ神への平和的な「国譲り」の神話が成立しました。ただし、オオクニヌシは自分が引きこもるのに、高天原に届くくらい大きな宮殿を作ることを条件にします。

これが出雲大社の起源とされていて、でかい建物ですから注連縄のやたらと太くなった。当初本殿の高さは100mくらいある高層建築と言われていましたが、2000年に直径1.4mを3本束ねた宇豆柱が地下から発見され、現在の本殿よりもかなり高かったことは間違いないようです。

2017年11月1日水曜日

岩四手


今日から11月。

出雲に集まっていた神様も、それぞれの地元に戻るんでしょうか。

さて、こちらは、イワシデの小盆栽です・・・って、うちには小盆栽しかないんですけどね。

街中の樹々も少しずつ紅葉が始まっていますが、こちらも緑の葉が黄色くなって、空きらしくなっています。

ただ、色づくとすぐに落葉しやすく、全体のボリュームも急速に減っている感じ。

盆栽の小世界も、秋深まり、寒くなってきました。