2022年9月30日金曜日

俳句の勉強 44 月百句 #61~#74


さすがに苦しくなってきました、月百句チャレンジ。

メジャーどころの月に関係する季語はだいたい使い尽くしたので、残りはほとんど聞いたことがないような言葉ばかりです。たださえ、語彙不足・知識不足のところに輪をかけて想像力そさえ湧いてこない。

作句のペースもだいぶ落ちましたが、最初に決めた立冬までという〆切は余裕でクリアできそうなので一安心。それじゃ、いきますか。

#61 沈魚月も傾く艶やかさ

季語は、月が沈もうとしている情景の意味で「月傾く」です。「沈魚(しずみうお)」は水底に棲む魚ということですが、「沈魚落雁」という四文字熟語があり、泳ぎが得意なはずの魚が沈んでしまい空を飛ぶ雁が落ちてしまうくらいの絶世の美人という意味になります。ここでは雁の代わりに月に傾いてもらいました。

#62 叢雲に白にじみたる薄月夜

「薄月」は雲に遮られて光を弱めた月の季語です。そのまんまのの句で面白味はないですね。

#63 記に薄く月読の悲喜不知なりき

季語は「月読(つくよみ)」で、天照大神の弟。単に「記」と言えば「古事記」のこと。古事記や日本書紀では、天照大神やもう一人の弟、須佐之男命についてはたくさんエピソードがありますが、月読命についてはほとんど記載がありません。

#64 居酒屋は月夜烏の庵かな

「月夜烏」は夜通し浮かれている人という意味を持った季語で、これもそのまんまの句。いくらでも類句はありそうです。

#65 幻月や酔ふて箸おく夢心地

「月の暈」と同じような、大気中の水分の影響で月が二重にみえるのを「幻月」と呼び季語になっています。月が二重に見えるようじゃ飲みすぎだと反省しているんだかいないんだか・・・

#66 万年の魅惑の光姮娥かな

月が入っていないのですが、「姮娥(こうが)」が月関連季語になります。中国の故事で、仙女の姮娥が不老不死の薬を飲んで月に逃げてカエルになったという話からきていて、俳句では月の別称として使われます。

#67 杵持つや疲れ知らずの月兎

「月の××」という季語は、文字数が中途半端に多くてとても使いにくい。開き直って、字余りにするか中七を埋め尽くすような作りになってしまいます。省ける物なら「の」を抜いてしまいます。「月の兎」はそんな季語の一つですが、まさに月の模様が兎が餅をついているように見えるということ。これは類想類句以外があったらお目にかかりたいくらいのものです。

#68 ひもすがら月の鼠は常ならむ

「月の鼠」も使いにくい季語。内容も難しくて、仏教の話です。虎に追われ井戸の中に木の根を伝って隠れたら、井戸の底には毒蛇がいて、根を二匹の鼠がかじろうとしていました。虎を罪業、鼠を昼と夜(時が過行く)、毒蛇を地獄に例えているそうです。

#69 月の桂倒れ地の果て現る

「月の桂」も中国古事に由来する季語で、月にはえている500丈、約1500mの高さがある桂の木のこと。切っても切っても生えてくるらしく、この木を切る人のことも季語で「桂男」といいます。

#70 盃の光箸立ての割り箸

「盃の光」は、月という言葉がはいっていませんが、盃に注がれた日本酒に反射する光が月に見たてられた季語。箸立てにたくさん突っ込んである割り箸が芒の代わりというところでしょうか。

#71 月の雪積もることなく路濡らし

「月の雪」は月光に照らされキラキラしている様子を雪に例えたもの。こういうのは、イメージが被りやすく、なかなか発想が飛ばないので面白いものになりません。

#72 灯に映える月の氷を踏んでみる

「月の氷」も雪とほとんど同じことをいいます。あー、面白くない。

#73 泣かれても月鏡に手は届かざる

「月鏡」は満月のこと。これは小林一茶の有名な「名月をとってくれろと泣く子かな」への相聞句です・・・ってかっこいいけど、ざっくばらんに言えばパロディ。実際は月を手に取れるわけがない。

#74 カメラ越し月の顔fオーバー

「月の顔」は月の光のことで、顔と書いて「かんばせ」と読みます。アルファベットを使うという意欲作・・・というか、月を撮影しようとするとけっこう明るいもので、スマホなんかじゃ露出(f)がオーバーしてしまいます。マニュアルで露出とシャッター速度を調整できないと無理。

2022年9月29日木曜日

俳句の鑑賞24 大正女流黎明期

 今でこそ、男性より女性の俳人の方が多いんじゃないかと思うくらいに、俳句の世界では女性が活躍していますが、俳句の原型である俳諧が男性の遊びとして広まった影響で、やっと女性俳人が活躍できる場が登場したのは大正時代になってからのことです。

正岡子規から俳句誌「ホトトギス」を継承した高濱虚子は、大正2年6月号に「自分の家族を中心に女性に俳句をつくらせたところ、なかなかのものだった」という内容の記事とともに「つつじ十句集」という記事を掲載します。

これは、俳人としての虚子の正直な気持ちというより、雑誌編集者として購読者を増やすための今後を見据えた作戦という一面は否定できないと思いますが、それまで俳句を作るというと肩身の狭い思いをさせられていた女性に大きく門を開いたという業績は賞賛されるべきものでした。この女性俳句は好評を持って迎えられ、以後婦人欄はレギュラーの企画になっていきます。


婦人欄の最初の幹事に選任され、最初の女性俳人として活躍したのが長谷川かな女(1887-1969)です。

杓子動かぬ七種粥を恐れけり 長谷川かな女

俎板の染むまで薺打ちはやす 長谷川かな女

虚子は女性が俳句を作りやすいように、台所などの身近な場所を題材に選ぶことを推奨して、「台所俳句」と呼んでいました。この二句はまさに、台所俳句です。最初は、粥が煮詰まって来て、杓子でかき混ぜられなくなったとはすごいもんだということ。次は、薺(なずな)を調理してまな板に色が染み込んだというわけで、当時として男には思いつけないような内容です。

蝶のやうに畳に居れば夕顔咲く 長谷川かな女

西鶴の女みな死ぬ夜の秋 長谷川かな女

かな女の句は全体的に素直で、「ホトトギス」系らしい客観写生句だと思いますが、「西鶴の・・・」は、ほとんど唯一の攻め込んだ句と言えそうです。

秋の蝶死はこはくなしと居士は言ふ 長谷川かな女

死を急がず曼殊沙華見れども見れども 長谷川かな女

老境に入ってからの二句。いろいろと病や不幸も経験してきたのに、静かに達観したかのような静寂の句が印象的です。

阿部みどり女(1886-1980)も「ホトトギス」の黎明期の婦人欄を支えた一人。

小波の如くに雁の遠くなる 阿部みどり女

秋の蝶山に私を置き去りぬ 阿部みどり女

曼殊沙華暗き太陽あるごとし 阿部みどり女

生くことも死もままならず卯月空 阿部みどり女

比較的心情を込めた作風が特徴です。かな女と比べて、暗い雰囲気の句が多く、同じ言葉を用いてもずいぶんと印象が変わってくるものだと思います。

そして、「ホトトギス」婦人欄黎明期を支えたもう一人が、竹下しづの女(1887-1951)です。

短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉呼 竹下しづの女

しずの女の最も有名な句。「須可捨焉呼」は「すてっちまおか」と読むとしてあり、真夏の夜に乳を欲しがり泣く赤子は捨ててしまおうか、という強烈な内容ですが、でもそんなことはできるわけがないという愛情の裏返しの表現でしょう。漢文の須可捨焉呼は、正確には「すべからくすつるべきか」と読むところですが、かなりの教養が無いと使いこなせるものではありません。

処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け 竹下しづの女

曼殊沙華ほろびるものの美を美とし 竹下しづの女

黒き瞳と深き眼窩に銀狐 竹下しづの女

同じ時代人とは思えないほど、作風の違いが際立ちます。「台所俳句」とは対極にあるような女性としての自立が目立ち、力強い句調に息を飲むような感じがします。

彼女たちのような先達に導かれて、女流俳句はしだいに時代と共に活況を呈していくことになります。

2022年9月28日水曜日

国葬


昨日、安倍晋三氏の国葬が執り行われました。

多くの議論を引き起こし、国民の理解が得られたとはとても言い難い中で、「強行」された国葬であったと言えます。

岸田総理は、ここまで比較的安定した政権運営によって一定の支持を得られていましたが、今回の「思い付き」の国葬の決定・実行によって失ったものは少なくないようです。

岸田総理にとって、宗教団体と政治の不透明な関りに答えを出さないどころか、疑念が膨らむ一方の中、イギリスのエリザベス女王の国葬が「あるべき姿」をみせることになったのもマイナスになったと言えます。

安倍氏に対して、結果として素直に弔意を示せなくなった方も多かったことでしょうから、今後は国葬を行うためのはっきりとした基準を示すことが大事だと思います。

2022年9月27日火曜日

俳句の鑑賞 23 捨女と千代女


平安の世に広まった和歌は女性中心に嗜まれたのに対して、江戸時代になると連歌という形式で庶民、特に男性中心に発展しました。連歌の最初の「発句」のみを独立させたものが俳諧と呼ばれ、特に松尾芭蕉(1644-1694)によって短詩として文学のジャンルとして確立した・・・というのが、ごく簡単な歴史です。

主として男性のものだった俳諧ですが、ごく少数ですが女性で俳諧師として名を遺した方々もいます。芭蕉とほぼ同じ時代に生きた田ステもその一人。俳号は田捨女、一般に捨女(すてじょ)と呼ばれています。

1634年、現兵庫県丹波市の庄屋に生まれた捨女は、わずか6歳で詠んだとされる句が有名です。

雪の朝二の字二の字の下駄の跡 捨女

読んでそのままですが、雪がうっすらと積もって嬉しくてしょうがない雰囲気がしっかりと伝わります。ただし、6歳で詠めるのか? あるいは本来の捨女の作風と違うなどの疑念もあるようです。

艸よ木よ汝に示すけさの露 捨女

いつかいつかいつかと待ちしけふの月 捨女

「艸」は「くさ」と読み、草の総称、草が並んで生えている様子を意味します。もう一つは、「いつか」を三回もリピートして、名月を待ち望む気持ちが強烈に伝わります。

花や散らん耳も驚く風の音 捨女

夕立に洗いて出るや月の顔 捨女

女性らしい句。突然の強風を「耳も驚く」と表現。月を「顔」と言い、雨で洗って涼し気になるという発想。これらの感性は、男ではなかなか思いつかないもので、捨女の知性を感じさせます。結婚し二児をもうけますが、40歳で夫を亡くし、54歳で出家、1698年、65歳で死去しました。

もう一人、加賀の千代女として知られた与謝蕪村(1716-1784)と同時代の女性俳諧師がいます。加賀の国、今で言う石川県白山市で、1703年に表具師の家に生まれ、幼少のころより俳諧を嗜みました。

朝がほやつるべ取られてもらひ水 千代女

俳句史の中でも最も有名な句の一つと呼んでもいいようなくらい、誰もが知っているものです。最初は「朝顔に」としていましたが、後に「朝顔や」に推敲しています。多くの俳諧を芸術的に否定した正岡子規が、この句も俗っぽいと断じたため俳句としての評価は高いとは言えません。

ほととぎす郭公とて明にけり 千代女

エピソードとして面白い句。「郭公(かっこう)」も「ホトトギス」と読みます。芭蕉門下の俳諧師がやって来た時に、17歳の千代女が弟子入りを志願しました。その際、「ホトトギスの俳句を詠め」と試されたため、一晩中読み続けた最後の一句とされています。

世の花を丸うつつむや朧月 千代女

ともかくも風にまかせてかれ尾花 千代女

千代女の句はわかりやすい。「丸うつつむ」や「風にまかせて」などは女性らしいふんわりとした表現かと思いますが、逆に俗っぽいと評される部分なのかもしれません。

起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな 千代女?

とんぼつり今日はどこまで行ったやら 千代女?

この二つの句は、とても有名です。しかし、いかにも千代女が詠んだという雰囲気はありますが、一般には千代女の作ではないと考えられています。結婚したかについては諸説ありで、52歳で仏門に入り、72歳の時に蕪村の「玉藻集」序文を書きました。1775年、73歳で亡くなっています。

2022年9月26日月曜日

俳句の勉強 43 品詞のいろいろ

俳句作りが上手くなるためには、文語を知らないといけない。文語を知るためには文語文法を勉強すべし・・・と言うのは簡単ですが、いったいどこから手をつければいいのか。

とにかく日本語の言葉一つ一つは、文法的にはその機能から品詞と呼ばれる分類があります。どんな品詞があるのか知っているのがイロハのイ。まずはそこんとこを確認しましょう。

まず、大分類ですが、それだけで文として成立できる自立語と、単独では文にならない付属語に分けられます。付属語は自立語の後ろに接続して使われます。

自立語と付属語の両方に中分類として、語尾変化をしない、つまり活用しないものと、語尾変化をする、つまり活用する物に分かれます。

自立語の活用する物(用言と言います)には、動詞形容詞形容動詞の3つがあり、活用しない物は、名詞(体言といいます)、副詞連体詞接続詞感動詞の5つがあります。

そして、付属語には活用しない助詞と活用する助動詞があり、全部で10の品詞があります。

まず名詞。いわゆる体言は活用しない自立語で、品詞の中では唯一主語になることができる。名詞は細分類され、一般名詞、固有名詞(人名、地名、商品名など)、代名詞(人、場所、方向など)、数詞、形容名詞の5つがあります。

副詞は何かの程度、状態を表し、主として用言を修飾します。連体詞は体言を修飾するもの。接続詞は文と文をつなぐもので、感動詞は独立して詠嘆、応答などを表します。俳句では、接続詞と感動詞は基本的に使うことはありません。

活用する自立語、いわゆる用言は基本的に述語になります。ものの動作、作用、存在を表すのが動詞、形容詞や形容動詞は物の性質・状態を表し、言い切る場合に形容詞は「し」、形容動詞は「なり、たり」で終わります。

付属語で活用がある助動詞は、打消・過去・完了・受身・可能などの意味を付加します。活用しない助詞は、さらに細分類され格助詞、接続助詞、副助詞、係助詞、終助詞、間投助詞の6つがあります。


雪降れり時間の束の降るごとく
 石田波郷

この句の品詞を確認してみます。「雪」一般名詞、「降れ」動詞、「り」完了の助動詞、「時間」一般名詞、「の」助詞、「束」一般名詞、「の」助詞、「降る」動詞、「ごとし」比喩の助動詞ということになります。

これ以上続けると頭がパンクするので、ここではとにかく品詞の種類と呼び名だけ覚えることにして終わります。

2022年9月25日日曜日

俳句の勉強 42 月百句 #47~#60


何と言っても仲秋の名月が月の俳句の主役ですけど、それとは直接の関係の無い「月」もたくさんあります。それらを拾い上げていきたいと思いますが、いずれも秋の季語になります。まずは、シンプルに「月」で始めます。

#47 逆さ月一つの波紋水鏡

湖でも池でも、あるいはそこらに置いた水のたまった盥(たらい)でもいいんですが、月が逆さまに映っている。そこに、ちいさな一つの波紋が生じて水面が揺れました。小さな虫のせいかもしれませんね、くらいの感じです。

#48 若き日に獣にならん月に吠え

狼男が月に向かって吠えているでもいいんですけど、若いうちは獣のように貪欲にいろいろなことを吸収してもらいたものだと思ったということ。

#49 茜夜に月をのせたる坊主かな

これは花札の話。「月に雁」の札は、まさに仲秋の名月の満月を表した葉月(8月)の札。空が真っ黒じゃなんだかわからないと思ったのか、空は真っ赤なんですよね。下半分は黒っぽい坊主頭のような山なんですが、実はこれは芒原らしい。

#50 サンルーフこの夜ばかりはムーンなり

自動車の天井が窓になっている車・・・いわゆるサンルーフと呼ばれているオプションですが、主たる目的は太陽の光を取り込むことと、眺めをよくすること。ただし、名月の時には、月を見ることができるのが便利です。

#51 赤毒蛾螻蛄翻弄月夜哉

「月夜」という季語を使った、ちょっと攻めた句です。どこが攻めているかというと、見ての通り全部漢字だけ。「あかどくが、おけらほんろう、つきよかな」と呼んで欲しい。小学校の学芸会で「月夜のおけら」という演目がありました。赤色のタイツに身を包んだ悪役の毒蛾の役が自分。主役のオケラをいじめちゃうという話で、細かいストーリーは忘れました。赤いタイツが嫌で嫌で・・・

#52 山裾に草の浮き立つ月代や

「月代」を「さかやき」と読むと武士の丁髷のこと。ここでは「つきしろ」と読む月の季語で、月が出る頃に、東の空が明るく見えてくるという意味。

#53 夕月や淡い影追い帰路急ぐ

「夕月」は、厳密には仲秋の上弦の半月までの最初の1/4の月のことで、月の出が早いので薄明るい頃に見ることが多い月。普通に買いやすい蒲鉾の銘柄にもありましたね。光も弱いので、なおさらできる影は薄いということ。

#54 月光に金の彩色穂先揺れ

月光と言えば、月光仮面と来るのは団塊の世代。自分の場合は、忍者戦隊月光です。月の光で稲とか芒の穂先がキラキラしている様子。

#55 無垢纏う月下の艶香待ち侘びる

何か難しい事を言よるなぁ、こういうところが初心者なんですかねぇ。「月下」は「つきのした」なら秋の月の季語なんですが、最初に思いつくのが「月下美人」で、これだと晩夏の植物の季語です。この句だと、どうみても月下美人のことなので、純粋な月からはそれてしまいますが、めったに花を咲かせない白い花と月の白い光を混ぜ込んだらこうなりました。

#56 月の蝕誰が食べたか怪奇なり

「月蝕」も季語です。いついつ月蝕ありますとニュースになると、一瞬でもみたいなと思います。月が欠けてきたのは誰かが食べちゃったせいかもしれない。何て怪奇(皆既)なことよのぉ・・・

#57 月影に言霊浮かび諷詠す

季語は「月影」ですが、昭和人なら千昌夫の「月影のワルツ」を思い出します。月影と言うと、ちょっとロマンチックで、急に言霊が降りてきて素晴らしい句ができた(らいいなぁ、無理だけど)という句です。

#58 隠れたるアルデバランに月の暈

月の周囲に淡い光の輪が見える天文現象を月暈(つきがさ)、ハロー、白虹と言い、季語としては「月の暈」を使います。月暈が出来るとおうし座α星であるアルデバランが、そのハロー
の中に隠れてしまいそうになっている・・・写真をネットで見ました。

#59 落月の余韻を映す眼かな

月の入り、月没のことを季語では「月落つ」あるいは「落月」と言います。太陽の日没ほど印象的ではないのですが、眼に余韻を残すこともあるだろうということ。

#60 月さやか水せせらぐや山のやど

月が鮮やかな様子を「月さやか」と季語で表現します。都会で見るよりも、どこか山の温泉に出かけて澄んだ空気の中で見ればいっそう鮮やかです。

月百句、あと40句。まだまだ続きます。

2022年9月24日土曜日

俳句の鑑賞 22 秋分


昨日でした、秋分の日。

暦の主な事柄は、ほぼ季語になっていますから、俳句の題材として忘れてはならない・・・なんですが、実は「秋分の日」については困った。

何がって、歳時記を見ていても、「秋分の日」あるいは「秋分」を季語として使った例句がすごく少ないんです。講談社の新日本大歳時記では、「二十四節気の一つ。昼夜の長さが同じ」という型通りの説明のあと収載された例句は一つだけ。

嶺聳ちて秋分の闇に入る 飯田龍太

飯田龍太は飯田蛇笏の息子で後を継いだ俳人ですが、「嶺」は山の頂上付近の事で、「聳つ(そばだつ)」は山のへりが角張ってそそり立っている様子のこと。秋分の日に歩いていると、山影に隠れる日の当たらないところに来た、という意味でしょうか。夏と違い、太陽が真上にこないということ。それとも、今日から夜が長くなっていくということかもしれません。父親譲りの格調高い俳句です。

角川俳句大歳時記(第4版)でも、次の二つだけ。

秋分の灯すと暗くなっていし 池田澄子

秋分やもみづりはやき岩蓮華 那須弥生

池田澄子の句は、灯りをつけると、外は思いのほか暗くなっているなぁという感じ。那須弥生という俳人については情報が見つかりません。「もみづり」は脱穀のこと。「岩蓮華」も初秋の季語で、藁などに生えてきやすい植物。脱穀したあとの藁にもう岩蓮華が出てきたということのようです。

講談社の旧版である日本大歳時記には、傍題で七十二候にある「雷声を収む」というのが出ています。秋分の頃になると雷が鳴らなくなるということでしょう。これは春分の頃の「雷声を発す」と対になっている。ただし、これの例句は見つけられませんでした。長いし、秋分と言えばその中に含まれるということでしょうか。

春分の俳句も少ないのですが、この少なさは、季語にまつわる、特に暦がらみの言葉は農耕と密接に関係したものが多く、秋分だからといって特にやらないといけないという作業があまり無いということかもしれません。

ネットでは、もう少し見つけられますが、ここはもう自分でつくるしかない。というわけで・・・

秋分におきていようかねてようか

あー、しょうもな。あえて披露するもんじゃありませんな。

2022年9月23日金曜日

俳句の勉強 41 口語俳句

 口語というのは、いわゆる話し言葉。口語を制定するにあたって、細かい違いを全部同じ言い表し方に統一してしまったため、微妙なニュアンスがわかりにくくなりました。

俳句の場合は、文語を使った方が格調高くなりますが、やや古臭さもあって馴染みにくい人もいるかもしれません。現代に生きている我々としては、普段使わない文語体の言葉は敷居が高いのも事実です。

話し言葉を積極的に俳句の中に取り入れるというのは、やはりホトトギス系から分離独立した新傾向俳句の顕著にみられるようになり、使い方さえうまければ独特の妙味を生み出すものと認知されるようになりました。ただし、口語と文語の混在は、原則としてやってはいけないとされています。


どうしやうもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火

戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

例えば、これらの以前にも紹介した句は、まさに口語俳句の名句とされています。もっとも時代が戦前ですから、旧仮名使いにはなっています。

今の感覚として違和感が全く無いもので、口語俳句の定番の名句としてしばしば出てくるのが、池田澄子の作品。

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子

1980年代、作者50歳頃のもの。季語は夏で「蛍」。蛍の短い一生を、蛍の気持ちになって詠んだ句です。何に生まれるかじゃんけんで決めることになって、私は負けちゃったので蛍になったのよ、という何とも切ない心情が込められています。「~たの」という女性言葉の柔らかな着地によって、印象的な余韻を残すことに成功しています。


ピーマンを切って中を明るくしてあげた
 池田澄子

蓋をして浅蜊をあやめているところ 池田澄子

池田澄子は、もちろん文語調の俳句も作りますが、やはり口語の絶妙な使い方にはほれぼれします。ピーマンを切るというだけの行為なのに、「明るくする」という発想は秀逸。アサリを蒸すも、生きたまま殺していると感じるのも作者のオリジナリティ。文語で作ったら、殺伐としてしまったと思いますが、口語で表現が重くなり過ぎない効果が出ています。

一般に、口語は女流俳人の方が、無理なく雰囲気を出して使えるケースが多そうです。勝手に師と仰がせていただいている夏井いつき氏にも、口語調の良いなと感じさせる句があります。

ここでもないわここでもないわとつぶやく蝶 夏井いつき

居留守して風鈴鳴らしたりもして 夏井いつき

口語調の俳句は、短くするのが難しい。どうしても、五七五に収めるのは無理がありそうで、ある程度は柔軟に考えないとダメそうです。ただし、「今」にしっかりと寄り添える内容でないと浮き上がってしまうので、そこらのセンスを磨かないとダメ句にしかなりません。

カンバスの余白八月十五日 神野紗希

若手の女流の注目株筆頭が神野紗希。高校生が出場する俳句甲子園で2001年に優勝し、その時最優秀句に選出された句で、審査員全員を唸らせたという伝説を残したもの。

さて、本来、意識して作るものじゃないんですけど、口語俳句に挑戦してみました。

新小豆さやからポンっと飛び出した

季語は「小豆」で晩秋です。秋に実を付けた小豆(あずき)は、採れたてを新小豆(しょうず)と呼び、乾かすとさやから実が飛び出てくるそうです。口語では、漢字は少な目にして、カタカナも積極的に使うと雰囲気が出るように思います。

新小豆さやよりはじけ飛び出でし

これを文語調にするとこんな感じでしょうか。まぁ、堅苦しいことこの上ない。たぶん口語の方が、雰囲気が楽しい感じで良さそうに思います。

都会ではオリオン座しかわからない

都会に住んでいると冬になって、空を見上げて星座として確認できるのはオリオン座くらいのもの。小学生の時は、確か北斗七星、カシオペアとかの観察日記を作った覚えがあるんですけどね。句としてはまったく面白くありませんね。

まぁ、作ろうと思って作る口語俳句は、やはり難しい。言いたいことの半分も込められないという感想です。自然にできたらいいんですけど、相当に修業が必要そうです。

2022年9月22日木曜日

俳句の勉強 40 ありにけり

俳句って、現代の話し言葉・・・口語で作ってもいいんですけど、意外とこれが難しい。我々凡人は、好むと好まざるに関わらず、ある程度は昔ながらの文語表現を使った方が俳句らしく仕上げることができる。となると、ある程度は文語の知識も整理しておかないといけない。

俳句の「切れ」を作り出すのに重要な働きをしている、「けり」、「や」、「かな」などは頻出の文語表現ですが、いろいろと問題含みなのが「ありにけり」です。

木枯らしの果てはありけり海の音 池西言水

言水は芭蕉と同時代の俳諧師。冬の寒々とした木枯らしにも行き付く先が海の音として聞こえるんだなぁ、という内容の句です。

ここでは「ありけり」が使われていて、一般に江戸時代には「ありにけり」という間に「に」が入る表現は無かったと考えられています(もっとも、明治に近い一茶にはいくつか登場していますが)。「あり」は「存在する」という意味の動詞で、「けり」は過去を表す助動詞で、その一つ前の動詞または名詞と連用形接続をするとされています。

いや、もう、これだけでお手上げ感バリバリなんですが、我慢してもう少し先に進みましょう。俳句では「けり」とくれば、もっぱら終止形の詠嘆の表現。


帚木に影といふものありにけり
 高浜虚子

帚木(ははきぎ)は、信濃国園原伏屋にある伝説上の木で、遠くから見れば箒を立てたように見えますが、近寄ると見えなくなるといわれています。昭和5年の虚子のこの句は、見えなくなる帚木でも、影はあるんだよなぁ、という内容。

「といふもの」とか「ありにけり」で10文字も使っているんですが、かなり曖昧な表現で凡人的には音の無駄遣いみたいに思えてしまいます。例えば「帚木は影はあり葉の摺れ聞こえ」みたいにたくさんの情報を詰め込みたくなるものです。

しかし、虚子は潔く帚木の幽玄なイメージを強調するため、よけいな言葉をバサっとそぎ落としたということ。だったら「帚木に影あり」で終わりでもいいんじゃないかとなる。ある意味、有季定型にこだわる虚子が無理矢理に五七五に引き延ばしたかのようです。実際は、この句では希薄な空虚さが見事に表現されていると評価されています。

明治になって「である」という口語が登場し、これに「けり」が付いて「でありけり」から「で」が省略され、語感をやわらかくするために完了の自動詞「ぬ」の連用形の「に」がはさまった・・・らしい。実務的には、5文字にして音数を整えるという目的もかなりあるとのことです。つまり本当の古語ではなく、なんちゃって文語ということ。

この時期の虚子は、積極的に「ありにけり」を多用し始めました。単純に「あったなぁ」というより、もっと強い詠嘆を柔らかい印象で作り出せることを発見したようです。その影響が広まって、一般化したといわれていますが、単純にこれを真似ることは、中身が薄くなることにつながる可能性を理解しておかないといけません。

秋簾日焼けしたままありにけり

練習のつもりで一句。夏に活躍する日よけの簾(すだれ)ですが、ついつい仕舞わずに秋になっても軒下にぶら下がっている状態を「秋簾」と呼び仲秋の季語になっています。日焼けしてだんだん色あせて、埃もだいぶついていますから、なかなか片付けようという気にならないのかもしれません。


2022年9月21日水曜日

俳句の勉強 39 月百句 #37~#46


基本的に俳句の世界では「月」と言えば秋。空気が澄んでより美しく見えるということですが、月は1年中空にあるので、他の季節でも月を題材にしたくなることはあります。そこで、秋以外の季節の月関連季語を集めてみました。

まずは春。この時期の満月は、やや赤みがかって、にじんだような重たい感じに見えることが多くなり、「春の月」、「春月夜」、「春満月」などの季語があります。

#37 薄紅のゆるり舞い散る春月夜

「薄紅」は、まぁ、桜ですかね。もしかしたら、梅とか桃とかでもいいんですが、月明かりに照らされてゆったりと舞う感じにしてみました。

ぼんやりとして不明瞭な状態を「朧(おぼろ)」と言い、主として雲、霞、霧などの天文現象に使われます。朧にぼやけた月を「朧月」、あるいは「淡月」です。そのような夜は「朧月夜」で、唱歌としてもよく知られた言葉です。月明かりも弱まります。

#38 朧月人の歩みも霞みけり

#39 朧夜のサティに睡魔指もつれ

朧月夜にピアノの練習。課題曲はエリック・サティの「ジムノペデイ」だったりすると、頭の中にも霞がかかってきて睡魔に襲われるかもとれません。

夏になると、夜が短いので月を眺めるチャンスは減りそうです。ただ、月の白く静かに光る様子は、一服の清涼剤と考える人が多かったようです。季語としては、「夏の月」、「月涼し」があります。また、月明かりで地面が白く見えて霜が降りたようだということで、「夏の霜」という言葉もあります。

#40 静まりて天幕照らす夏の月

#41 白玉にこし餡からみ月涼し

#42 夏の霜節電しよう野菜室

夏といえばキャンプ。都会よりも月はきれいに見えて、皆が寝静まったキャンプ場で、テントを白く照らしています。後は苦し紛れの句ですが、夏に霜というと冷蔵庫しか思いつきませんでした。

#43 びちょびちょとびちょりの間梅雨の月

梅雨の時期になって雨天が続き、雨と雨の間に一瞬の雲の切れ目に月が見えると、何か嬉しくなる。とは言ってもじめじめした空気は、必ずしも爽やかとは言い難い。

冬は、寒々と冴えた月というイメージ。「冬の月」、「寒月」、「月冴ゆる」、「月氷る」などの季語があります。

#44 筮持つ易者の震え冬の月

#45 寒月や手套はずせず懐中に

#46 冴月に吐く息曇る眼鏡かな

筮(めどき)は占いで易者が使う筮竹(ぜいちく)のこと。寒さのせいか、それとも何か物凄い占い結果が出たせいなのか、易者の手が震えている。占ってもらう側としては、ちょっと不安になりますね。寒すぎて手袋をつけたままポケットから手を出せないし、吐息で眼鏡が曇って前も見えません。

季節変われど月は月。空を見上げたら月があるという光景は、一年中それなりに人の心情を揺り動かすもの。いつでも、月の変化を敏感に感じられるようになっていたいものです。



2022年9月20日火曜日

台風14号


今回の台風14号は過去最大級と言われ、厳重な警戒をするように言われていました。

昨日九州を南から北へ縦断し、進路を東に変えて、今度は本州の日本海側を西から東へ縦断しています。3連休という方もたくさんいるとは思いますが、とてもゆっくりできなかったことでしょう。

関東は直撃ではありませんが、ドバーっと雨が降ったかと思うと、急に晴れ間が出たりを繰り返し、湿気がすごくてかなり過ごしにくかったですね。

どうも昔のように、過ぎれば天気回復、いわゆる台風一過というのは最近あまり感じなくなりました。この数年は、台風が過ぎても、ずるずると悪天候が続くような印象です。

最近では1967年に台風の年間発生数は最多の39個というのがあり、上陸数だと2004年に最多の10個という記録があります。発生時期も年末までいつまででも可能性はあるので、なかなか安心はできません。

2022年9月19日月曜日

俳句の勉強 38 子規忌


明治35年(1902年)9月19日は正岡子規の命日。

著名人の命日は、俳句では季語として残されています。正岡子規の命日は、「子規忌」あるいは「糸瓜(へちま)忌」、「獺祭(だっさい)忌」という季語になっています。

まずは子規の二人の門弟、虚子と碧梧桐の句を見てみましょう。

門葉の乱れもすこし獺祭忌 高濱虚子

天下の句見まもりおはす忌日かな 河東碧梧桐

「門葉」は血縁関係の一族という意味。そこから家臣、一門という意味合いでも使われます。虚子は、子規亡き後碧梧桐との確執が生じていますので、ちょっと意味深な感じ。一方の碧梧桐は、まさに「らしい」句で、季語無し、「おはす」という当時の尊敬語で、「皆のことを見守っておいでになる」という感じ。

「子規忌」という季語は、3音というところが俳句にしづらい。「子規の忌」という使い方をしている句もありました。また「し、き、き」とイ段の音が続くのも語感がきつく成ります。そういう意味では、子規の別名の「獺祭」とか、好きだった「糸瓜」の方が使いやすいかもしれません。

いずれにしても、忌日を詠むからには、対象となる故人に対する思いを感じさせるところが無いといけません。直接に子規と面識のあった虚子や碧梧桐と違って、「伝承」でしか知るすべがない現代人は、なかなか本質的な部分で難しいのは当たり前・・・という言い訳をしておいて、まずはボヤキ系の句を作ってみました。

子規の忌に眼明くこともなかりけり

月並みと言はれるだらふ子規忌なり

少しずつ勉強しているので、子規忌までにはましな句が作れるようになるはず・・・だったんですが、まったく開眼する気配もなく、おそらくどれをとっても月並みの言われてしまうだろうなというところ。

ちょっとでも俳句っぽくするために、文語表現を使うという姑息な技を知ったかぶりで出してみたものの、目糞鼻糞耳糞の域ですよね。

獺祭忌酒に変わりて三十年

姿消す獺祭残す裾野かな

獺祭は子規が使っていたペンネームの一つに獺祭書屋というのがあったことから。獺祭は、1990年代以来、日本酒の人気銘柄として知られています。これも子規の名前が命名のヒントになったそうです。獺祭は本来は動物のカワウソのこと。ただし、ニホンカワウソは絶滅危惧種、あるいは絶滅したとされています。1970年代末に目撃されたのが最後らしい。子規もカワウソも姿を消しましたが、その裾野はひろくひろがっています。

糸瓜忌に手元にあるのは茘枝かな

糸瓜忌や黒珈琲と三句の挙

瓜科の野菜では、糸瓜は最近はあまり見かけません。うちの冷蔵庫にあるのもゴーヤ(茘枝)だけなので、これで子規を偲びたいと思います。さて、最後はちょっと深みがある句になりました。子規の糸瓜を詠んだ絶筆三句は、執念の作品です。糸瓜そのものも当然なんですが、子規の生き様の最後のこだわりみたいなものが伝わってきます。そこで、自分のこだわりである砂糖・ミルクをいれないブラック・コーヒーを中に挟んでみました。

出来はともかく、俳句を作り楽しむ上で、正岡子規の功績は忘れることができません。少しでも子規にあやかってみたいところで、じたばたするのもトレーニングです。

2022年9月18日日曜日

終わってこそブーム


たぶん、去年くらいから・・・せいぜいここ2年くらいで、雨後の筍の如くに増えた「生食パン」の店。

港北ニュータウンにも数軒が登場しそれなりに話題になっていましたが、今年の春頃から急速な縮小傾向にあるという話が、ネットニュースなどにしばしば登場するようになりました。

センター南にあったこの店も、いつのまにかひっそりと営業を停止して、この店のホームページの店舗リストから消滅していました。

はっきり言って、この「生食パン」というものに対しては、自分は初めて耳にしてからずっと懐疑的に考えていました。

そもそも必ず「焼く」という工程が入るはずのパン作りで、「生」という言葉を使うのは嘘っぽい。一斤が1000円近い値段の「高級パン」で、しかも売り物としては多少の混ぜ物の違いはあってもも基本は一択というのは必ず飽きられるのは必至。

米中心の食事が減ったと言っても、それがパン食文化に取って代わられたわけではありません。炭水化物が全体的に避けられる傾向が強まったもので、パンの原料の小麦粉も炭水化物であることに変わりはありません。

日持ちしないパンを、それも一斤丸々買って、一回で食べきれる家はそうはありません。ましてや、毎日のように買いに来る客がいるはずもなく、たった一つの商品だけで勝負するにはあまりにも危ういと思うのが当然です。

そこに急激な店舗数の増加、原材料の高騰、コロナ渦の制限緩和による自炊減少などの社会的な要因も、業界縮小の原因に加わっている思います。

まさに、急速に拡大し「ブーム」と言える活況を呈していた業界ですが、人々の注目を集めるのが一過性であるから「ブーム」なんですよねという絵に書いたような状況です。

2022年9月17日土曜日

俳句の鑑賞 21 月を詠む


昔から風流な物、美しい物と言えば「雪月花」、あるいは「花鳥風月」という表現があるわけで、詩歌の題材として「月」はありふれたものかもしれませんが、大変重要な要素であることに間違いはない。

月に関する名句とされるものを探してみましょう。

浴して我が身となりぬ盆の月 小林一茶

盆の行事をいろいろやった夜に風呂に使って疲れが取れ、やっと自分に戻ったよという内容。お坊さんの接待とか、いろいろ気を使うことが多い一日です。

初月や影まだしまぬ地のくもり 溝口素丸

溝口素丸は江戸中期の俳人。「しまぬ」は「染みてこない」という意味なので、まだ月の明るい所が見えていないので影もできないということ。仲秋の名月を待ち焦がれている思いを詠っています。

三日月や影ほのかなる抜菜汁 河合曽良

曽良は芭蕉の弟子で、「奥の細道」の行程の大半を共にした人物。菜っ葉や大根の葉を生育を助けるためときどき間引いたものを間引菜、あるいは抜菜(ばっさい)と呼び、汁物に入れたりするそうです。

待宵や水をうごかす白き鯉 長谷川かな女

かな女は大正期の「ホトトギス」の女流最初期の一人。月光を浴びて白く光る鯉の動きで、池に映る満月まであと一夜の月がゆらゆらと揺れている情景が浮かんできます。

名月や兎のわたる諏訪の湖 与謝蕪村

諏訪湖に映る満月が、まるで兎が水面にいるかのように見えたということ。諏訪湖と言えば真冬の「御神渡り」が有名ですから、ここでは兎を神の使いに見立てたのでしょうか。

枝豆を食へば雨月の情あり 高濱虚子

雨が降って月見もできないので、枝豆でも食って寝ちまおう。食べようと思って殻を割ったら中身が無いことがあるので、空っぽのことを雨で見えない名月に例えたのかもしれません。

いざよいや五十年目の新表札 丸山佳子

丸山佳子は、2014年に106歳で亡くなった京都の俳人。名月が過ぎてほっとした時期の「十六夜」と、家の古くなった表札を取り換えた気持ちをかぶせた句です。

木曽の痩もまだなおらぬに後の月 松尾芭蕉

1か月前に木曽まで行って名月を鑑賞した時の句。まだその疲れも取れていないのに後の月の時期になってしまった。痩(やせ)と言っても辛い疲れではなく、まだ名月のすばらしさの余韻にひたっているのにというところでしょうか。

歳時記を見ながら、ちょっといいなと思ったものをいくつか選んでみましたが、とにかく膨大な量の月俳句がありますので、他にいくらでも名句とされるものがあります。これらを少しずつ吟味しながら、自分の作句にいかせたらいいんですけどね。