2014年9月14日日曜日

三位一体節後第13主日

三位一体節後第13主日です。

この日のために作られたカンタータは、3曲残っています。いずれも、比較的マイナーで、全集以外に録音を残している人は少ない。

BWV77 汝の主なる神を愛すべし (1723)
BWV33 ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ (1724)
BWV164 汝ら、キリストの者と名のる徒 (1725)

BWV77と翌年のBWV33は初めと終わりがコラール、間にアリアとレチタティーボを交互にはさむ典型的な構成。BWV77では、全体のポイントはトランペットの活躍でしょう。

バッハのトランペットの使い方は、いくつかあるオラトリオの冒頭が典型的で、ファンファーレのように華やかさを加えるために派手に鳴るものが多い。ところが、ここでは実にしっとりとした響きが印象的で、このような使い方は大変珍しい。

BWV33では冒頭のコラールとアンサンブルが見事ですが、3曲目のアルトのアリアが目玉。なんと10分以上のアルトの独り舞台です。ぽつん、ぽつんと弦をはじくゆったりとした伴奏も他にはあまり聴かないもの。

BWV164は、テノール、バス、アルト、テノールとソロでアリアとレチタティーボをこなしていき、ソプラノとバスのデュエット、最後に短いコラールの合唱という構成。ソプラノが登場したところが、急に華やかさが加わって耳に残ります。


バッハの宗教曲の録音史では、一般的にカール・リヒター(1926-1981)が神格化されていて、早死にしただけにカンタータが全集として完結しなかった事が残念でならないという意見が多い。

リヒターが70年代を中心として活躍したとすると、60年代にバッハを精力的に演奏したのがフリッツ・ヴェルナー(1898-1977)です。

ERATOレーベルら、多数のアルバムを出していましたが、今ではやや忘れられた存在。しかし、バッハの宗教曲、特にカンタータを精力的に録音した先駆者として記憶にとどめておく必要があります。

ヴェルナーは当然モダン楽器による演奏で、リヒターに比べれるとあっさりとした感じの演奏です。逆に、リヒターの「もったいをつけた」ような思いいれたっぷりの演奏が苦手という人には、むしろヴェルナーのほうがいいかもしれません。

演奏には、フランスの多くの後に著名なソロイストになる人たちがたくさん加わっているのも聴き所です。大多数がステレオ録音で、今はリマスターされ、全部でCD30枚にまとめられたボックスが発売されています。






2014年9月13日土曜日

バッハとラテン語

学生のときに、解剖学の講義の最初にラテン語の授業がありました。解剖学で使われる人体の各部の名称はラテン語、最低限の知識を学べということだったんですが、とりあえず「発音はローマ字読みすれば、当たらずとも遠からず」ということだけ頭に残っています。

キリスト教カトリックの典礼で用いられる言葉はラテン語です。キリスト教関連の音楽の歌詞も当然ラテン語で、Kyrie eleison とか、Gloria in excelsis Deo とか、作曲者は違っても、やたらと出てくる。

ところが、バッハのカンタータを聴いてみると、これがなんとドイツ語。あれ? キリスト教なのに、ドイツ語じゃ、やたらと俗っぽくなっていると、はじめは感じました。

ところが、ちょいと勉強すると、そこがカトリックとプロテスタントの違いとわかってきた。マルチン・ルターは、キリスト教をより民衆の身近にするために、人々が最も理解しやすい母国語を使ったわけです。

バリバリのプロテスタントであったバッハは、当然のことながら、自らのライフワークであった「整備された教会音楽」、つまりぼうだいなカンタータをドイツ語を用いて実現させていったわけです。

昔の日本の医学はドイツ式でしたから、今でも医学用語にはドイツ語から来るものが使われているとはいえ、自分たちの世代の頃には、アメリカに習えに完全に変わっていましたから、ドイツ語の授業もありましたが、知識としてはラテン語とたいして差が無い。

歴史的な時間差はあっても、遠い異国の言葉であることにはかわりなく、ドイツ語のカンタータを聴いても、特に違和感は感じません。

ところが、ドイツ語カンタータに慣れてくると、実はバッハの作曲した曲にラテン語歌詞のものが含まれていることに気がついて、逆にバッハがラテン語? ということが気になりだします。

ラテン語作品は、バッハの最後の作品とされる、いわゆるロ短調ミサ曲 BWV232、そしてマニフィカトBWV243が有名ですが、それ以外に小ミサ曲と呼ばれるものが4つあります(BWV233~236)。

そして意外なことにカンタータに含まれるBWV191が、なんとタイトルがGloria excelsis Deoそのもの。唯一のラテン語カンタータであり、一連の教会カンタータとは別に分類する考え方もあります。それ以外には、細かいSanctusのみが数編ありますが、偽作もありそうで、あまりはっきりしない。

ルターも、ローマのやり方を一切合財否定したわけではなく、カトリックの作法を一部踏襲しているので、プロテスタントでもラテン語を使用する事は特に異なことではなかったようです。特に音楽に取り込まれる言葉は、キリスト教の中でも基本になるものが多いので、そのままラテン語が用いられても不思議ではない。

バッハのミサ曲は、バッハのパロディ手法が顕著にいかされているところで、多くのドイツ語カンタータからの転用が指摘されています。このあたりは、マニアックに突き詰めるとかなり楽しめる部分になっているわけです。

2014年9月12日金曜日

報道の自由

朝日新聞の社長が、自ら頭を下げて記事の誤りについて謝罪をしました。

記憶にある限り、こんなことは初めてではないかと思います。誤報をした場合、謝罪記事を載せるのが一般的で、細かいものについてはほとんど放置されているのが現状かと。

朝日は、最近だけでも「慰安婦問題」、そしてそれを巡る池上氏コラムの「掲載拒否」、「吉田調書」と立て続けに、読者が不信に思う記事を連発しています。

メディアは「報道の自由」を御旗にして、自分たちの正義を振りかざしますが、しばしば「ペンの暴力」となっていることを忘れがちです。

誤報は、ある程度仕方が無いものと思いますが、新聞の場合は毎日出されているものですから、記事を載せるのも訂正するものスピード感が大事。

今回も社長が謝罪したことは、一定の評価はされるべきとは思いますが、遅すぎるということが問題。当然、その間に社や個々の保身をしていたと思われてもしかたがない。

新聞社としての体質に疑問が投げかけられる結果となったことは、大変残念なことでしょう。さらに、朝日だけに留まらず、他の新聞、あるいはメディアに対しても疑惑の目が投げかけられたということです。

他のメディアは、朝日だけの問題として、他人事のような反応をしているのが気になります。テレビでのインタヴュー取材や、記者会見の様子などて、最初から色眼鏡をかけた質問や、記者が相手を批判するような質問が目立ちます。

メディア全体が、この期に自らを正す機会ととらえることが大切だと思います。もう少し、「報道の不自由」というものも考えてもいいのかもしれません。

2014年9月11日木曜日

iPhone6

今年の4~6月期の世界のスマートホンのシェアは、Androidが84.7%で圧倒的で、2位がiOSで11.7%、3位はWindows Phoneで2.5%だそうです。

パソコンと一緒で、アップルはまだまだたいしたことはない。昨日、iOSを搭載する新しいiPhone6が発表されました。またもや、こんなこともできる、あんなことだってできると新機能を大々的に宣伝したわけです。

が、・・・、実際のところ、アップルがテレビなどでも懸命にスタイリッシュな宣伝をする内容は、他のスマホではほとんどすでに実現できている内容。

実際のところ、デザイン以外であまりびっくりする革新ではありません。それでも、こういう発表会では、いかにもすごいことになったと思わせる手順はさすが。

つまり、アップルの宣伝の仕方が圧倒的に上手ということでしょうか。例えば、一頃やっていたXperiaのCMは、イメージ戦略的なもので、具体的なメッセージが伝わりにくいということは否めない。

具体性に走りすぎると、味気の無い広告になってしまうのですが、アップルは具体性とスタイリッシュなイメージを融合させることについては、パソコンの登場以来本当にうまい。

それにはまったのが日本人。日本でのシェアは70%というから、世界の中で特異な状況になっています。アメリカで40%、イギリスでは30%、スペインでは6%しかない。

もともとアップルが嫌いな自分としては、まぁどっちでもいいことなんですが、Android勢にもう少し広告を何とかしてもらいたいものだと思ってしまいます。

2014年9月10日水曜日

錦織圭、準優勝

世界の中で日本人は7人に一人。でも、テニスの世界では、名を馳せたブレイヤーは数えるほどしかいません。

最初に知られるようになったのが、神和住純。この人は自分より一世代上。自分が大学でテニスをしていた頃の、唯一世界に多少は通用する有名人でした。

当時、伸びてきていたのが福井烈で、ほぼ同世代。そのあとは、男子だと松岡修三くらい。

グランドスラム大会では、1回勝っただけで「お~、すごい」と言っていたわけで、それを考えると、今回の錦織圭のU.S.オープン準優勝は、もの凄い飛躍と言えます。

ただし、準決勝までの粘りの戦いからすると、決勝戦でのあっけない敗戦をどう考えるかで評価がだいぶ変わってくる。

以前、錦織についてはブログでも取り上げた事があって、 当然注目株であったわけですが、今回評論家が一番褒めていたのが、「ボールのコース予想の向上」でした。

強烈なストロークやボレーは大事ですが、結局それを正確に打ち込むためには、いかにボールに早くに追いついて、体勢を整えられるかにかかっている。

パワーテニスの時代になって、強引に打ち込むほうが勝ってしまったような感じがしますが、やはり基本となることは変わってはいません。

ボールがどこに来るかを予想して、すばやく足を動かして、ベストな打点に達する事は、優勢に試合を運ぶことにつながります。

いずれにしても、錦織クンは、他の選手からも、そして我々一般人からマークが厳しくなります。次の大会で、どれだけのものを残すかが問われることになります。

「勝てない相手はいない」という発言に期待しましょう。

2014年9月9日火曜日

デング熱騒ぎ

医者の立場で言うのも何ですが、世の中にはまだ見た事が無い病気というのは山ほどあるもので、最近何かと話題になるデング熱という病気も、経験したことはありません。

原因は蚊を媒介とするウイルス感染症ですから、いろいろ蚊の棲息地域を消毒したり封鎖したりと関係者はさぞかし大変だろうと思いますが、完全にシャットアウトすることは難しい。

実際、わかっている発症数は近年増加傾向にあるそうで、人の動きがグローバルになって、今まで日本では稀だった病気が増えて、一般的という尺度も変わってきているわけです。

アフリカで注目されているエボラ出血熱ですら、輸入されてくるチャンスが無いとは言えない。

もっとも、リウマチ科や整形外科を専門とする立場ですから、そもそもそれらの病気を発症した患者さんが自分のもとに来院することはまずないわけですが。

それでも、どこで遭遇するかわからないわけで、こういう機会にある程度は勉強しておかないといけないわけです。

例えば、百日咳という病気。これも患者数が予防接種により激減したため、自分たちの世代の医者は直接見る事が少なくなった病気ですが、定期接種から外れた関係で増加傾向。

リウマチ患者さんでは、何かと咳を心配することが多いのですが、実は百日咳だったということが最近はあるんです。このあたりは、頭の隅にでも百日咳という病気がひっかかっていないと、ずっと悩み続けることになってしまいます。

泥などで汚れた傷に対して心配なのが破傷風。これも感染症の一種で昔はポピュラーな病気の一つでしたが、実は自分は医者になってから破傷風が発生したのを見た事も聞いた事も無い。

都会にいると、泥だらけのケガになる機会が減ったというのが、一番大きい理由かもしれませんが、正直もしも発症してもわからない可能性が高いだろうと思います。

 帯状疱疹は、けっこうよくある病気ですが、基本的には純粋に皮膚科のテリトリー。ところが、最初に激しい痛みで患者さんが病院に訪れるので、整形外科に初診する可能性がけっこう高い。

特徴的な湿疹が出現していれば、すぐに皮膚科に行くように説明できますが、そうでないと単なる神経痛として帰していることはけっこうあるかもしれません。

専門性は大事なのですが、少しでも広く浅くでも様々な病気の知識を持っていることは、医者と呼ばれる上で必須条件であることは肝に銘じておかないといけません。

2014年9月8日月曜日

今度は本気? 市営地下鉄

It will be the harvest moon tonight in  mid-Autumn.

と、いうわけで、今宵は「中秋の名月」です。ただし、天気予報はあまりよくありません。昨日の日曜日のようなぐずついた空模様が明日までは続くようです。

とりあえず、試しに窓をあけてみたら・・・

うちの近くにはすすき野という地名がありますが(札幌ではありません。あくまでも横浜の話)、昔はさぞかしススキがたくさん生えていたんでしょうね。

今年のはじめに、 横浜市営地下鉄ブルーラインが、現在の終点であるあざみ野から新百合ヶ丘まで延長される話が再浮上しています。

もともとの計画にあったものですが、川崎市の地下鉄計画とバッティングしたりで、ほとんど立ち消えになっていた感じのもの。

今度こそ本当にできるかもということなんですが、そうなってくると駅がどこにできるかで一喜一憂がありそうです。

東急が、剣山スポーツガーデンをあざみ野ガーデンズという商業地に変更したのはそのあたりを考えてのことなんでしょうか。

最近すすき野も再開発され始めていて、中心ともいえるすすき野東急SC(ここも東急)の周囲のだいぶ裏ぶれた商店街が整理されています。

東横線と田園都市線という東急電鉄の沿線地域は、ほとんど東急県と呼んでもいいくらい、その開発には東急の力が関与しているわけですから、横浜市も東急の意向を無視することはできないでしょう。

となると、あざみ野から1.2kmで「あざみ野ガーデンズ駅」、さらに1.2kmで「すすき野駅」、そこから川崎市にはいって2kmあたりで王禅寺あたりにひとつ作って、さらに2kmで小田急線の新百合ヶ丘につなぐというのが自然な感じでしょうか。

小田急線は新宿に出るしかない路線で、横浜に向かうのは大変で、直接出れるのは海老名まで行って相鉄線、町田から横浜線のふたつですが、いずれもややマイナー感は否めない。

ブルーラインが延伸すれば、小田急沿線住民は渋谷や横浜へ出かけることがかなり自由になります。となると東急グループの思う壺。

ただし、田園都市線の地獄の混雑には、さらに拍車がかかるかもしれません。小さい話ですが、地下鉄始発のあざみ野なら、絶対座れるという特典も無くなってしまうなあ。

2014年9月7日日曜日

三位一体節後第12主日

現世では9月となり、幾分かは涼しくなりましたが、昨日などは湿気も多くて蒸し暑かったですね。キリスト教の教会では、今日の日曜日は三位一体節後第12主日となります。

無宗教の人間からすると、多少イベントがないことには、なかなか興味の持続が難しい。ここらで、この先の暦を少しおさらいしておきましょう。

とりあえず、次の記念日は9月29日、大天使ミカエルの祝日です。その次が10月31日に宗教改革記念日というのがあります。そして11月の第4日曜日まで、三位一体節後が続きます。

11月最後の日曜日、11月30日からいよいよ待降節がはじまります。イエスの誕生日を祝うための準備期間というわけです。

というわけで、まだ丸3か月ほど比較的のんびりと過ごすことができるわけで、今からクリスマスから新年の怒涛の2週間のために、知識を整理しておくのも悪くはありません。

さて、今日のカンタータも3曲残されています。

BWV69a わが魂よ、主を頌めまつれ(1723)
BWV137 主を頌めまつれ、勢威強き栄光の主を(1725)
BWV35 霊と心は驚き惑う(1726)

先週の分は、いずれも比較的強い調子で、「ちゃんと信心しないとだめだぞ」みたいな曲調が多かったのですが、あまり脅かしすぎたと反省したのか、今週はいずれも優雅で慈愛に満ちた感じ。

BWV69aからして、王宮の祝典かと思うような出たしの合奏と、難易度の高そうな技巧的な合唱で始まります。これ番号付けは、バッハが作曲した最後のカンタータとされるBWV69の原曲という意味でaがついている。

BWV69は1748年の市参事会交代式のためのもので、確かにこの雰囲気なら世俗用途への転用はいかにもという感じです。

BWV137は10分ちょっとの短めの曲ですが、これも合唱はかなり難しそう。伴奏も管楽器が入って華やかです。

ライプツィヒにおける、カンタータ年巻の第2年にあたる1724年のものが無いのはめずらしい。楽譜が消失した可能性もありますが、バッハは明確に欠落していることを意識していたと考えられています。

第2年巻は、すべてコーラル・カンタータで埋め尽くすという明確なバッハの意図があり、コーラル・カンタータにこだわっていなかった翌年に、この欠落していた分を埋めるようにBWV137が作られているのです。

BWV35は、オルガンが大活躍するのが印象的。2部構成で、それぞれの冒頭シンフォニアは、完全にオルガン協奏曲です。そして、歌はすべてアルトの独唱のみというのも珍しい。

このシンフォニアは、失われた協奏曲(オーボエ?)が原曲と考えられていて、これがもとになってBWV1059のチェンバロ協奏曲(第8番)が復元されたそうです。

2014年9月6日土曜日

浜なし

浜なしは、横浜で栽培される梨という意味のブランド名で、梨の品種ではありません。

このあたりの事は、横浜市のHPに詳しく紹介されていますが、要するに戦後から自分のテリトリーである横浜市北部地域で栽培され、直売のみで流通するおいしい梨のこと。

去年9月はじめ、月に数回通りかかる場所に直売所があるのに気がついた。次に通ったときは、もう梨の販売は終わっていました。

今年は、絶対に買うぞという意気込みで通りかかったら・・・売っていました。わざわざ、そこまで行けばいいのですが、必要があってたまたまとおりかかるタイミングで、「偶然に」売っているというのがラッキーな感じがするところ。

開業したてのころに患者さんが、浜なしの栽培農家の方で、一度いただいたことがある。いやぁ~、確かに美味しい。採りたてで新鮮なものだけが販売所に並ぶわけですから、一番食べごろなわけです。

今年も、そろそろ終わりでしょうから、気になる方は急いで直売所めぐりをしましょう。

2014年9月5日金曜日

傘とライター

傘やライターは、特に男性では装飾品の定番で・・・というのは昭和までの話。ほんと、昔は何か贈り物をするというと、この辺にしておけば間違いがありませんでした。

傘は昔から、忘れ物のトップを守り続けていますが、ビニール傘が登場したのは、20年くらい前でしょぅか。ほとんど使い捨て感覚になって、なおさらどこかに置いてきても惜しくないものになってしまいました。

多少おしゃれっぽいものでも1000円、だいたい500円程度が主流でしょうか。ずいぶんと、物の価値がさがってしまいました。

自分の場合、ほとんど車通勤ですので、傘を必要とする時間はすごく少ない。折りたたみの小さいものを、車に一つ入れておけば事足りる。

それでも、最近は特殊な用途のものが話題になったりしますし、女性の日傘の需要は増えている。さらに、男性も日傘を使うなんて話もあって、それなりに必需品として生き残っています。

ところが、ライターは完全に終末を迎えた文化かもしれません。もともと煙草に火をつけるのが目的で、高級品もかなりありました。卓上ライターなどは、ずいぶんと凝った作りだったりして。

今でもライターの老舗、デュポンなどでは数十万円もするものが売られているんですね。

使い捨てライターが出てきたのは、40年くらい前。それでも、まだまだ高級ライターは使われていたし、安価なほうがよければマッチの存在が大きかった。

ところが、使い捨てライターが100円になって、しかもけっこう無料でおまけとして配布されるようになってから、まずマッチが消えていきました。

そしてこの20年くらいで、通常の高級ライターもほとんど見かけなくなって、ほぼ100円ライターが市場を独占しているんじゃないでしょうか。

一部のコレクター向けに、ZIPPOのオイルライターが今でも根強い人気がありますが、通常花火でもなんでも、着火したい場合は100円ライターでOK。

現在でも必要品ではありますが、高級品である必要がなくなった代表的な物ということでしょうかね。


2014年9月4日木曜日

15歳

15歳というと、義務教育が終わって高校に進学したころで、こどもと呼ぶにはふさわしくない年頃・・・なのは、あくまでも人間の話。

うちのわんこは、種類はミニチュア・シュナウザー。1999年生まれで、ちょっと前に誕生日を迎えて15歳になりました。

犬で15歳というと、もう人間なら80歳くらいという年齢です。こどもたちの成長を、一緒に見守ってきたわんこですが、さすがにだいぶよれよれになってきた。

主治医の獣医さんからは、もうちょっとしたことで体調を崩して、ころっといっちゃうことがあるよと言われています。

トリミングにだしたりすると、ストレス。一緒に遠出すると、疲労困憊。今年の夏は、熱中症になって、点滴されて一命を取り留めたことも。

目は白内障気味、耳や鼻もだいぶきかなくなっているかんじ。ふだんも、なんとなくぼーっとしていることもよくあります。

それでも、年からすると比較的元気なようで、見た目だけはそれほど年を感じさせません。いつまで、帰った時に、一応元気に出迎えてくれるでしょうか。

2014年9月3日水曜日

OVPP

以前はオーケストラは個性が出にくいとか、声楽はどうしても苦手とか、古楽にこだわるのがわからないとか、まぁ好き勝手なことを散々書いてきたんですが、何故かそれなりに開眼してしまいました。

手の平返したようなところですが、さらにごく最近にOVPPについても、あまり面白くないみたいなことを書いてしまいました。これについても、いくらか認識を新たにしないといけないと思い始めています。

OVPPとは、One Voice per Partの略で、各声部について一人が歌うというもので、さらに突き詰めると楽器もそれぞれの楽器が一人ずつというようなもの。

1980年代末に、アメリカの音楽学者リフキンが発表した学説で、当時はバカバカしい話として相手にされませんでした。何しろ、当時はリヒターの重厚なモダン楽器によるバッハがスタンダードとして認知されていたわけで、ピリオド奏法についてはまだ黎明期でした。

そんな少ない人数で、ぺらぺらの演奏ではバッハの荘厳さや偉大さは伝わらないと考えられていたんでしょうね。しかし、古楽器の研究が進み、バッハの時代の音がしだいに明らかになってくるにつれて、リヒターの演奏は、バッハが実際に耳にしていた音より遥かに厳粛すぎると考えられるようになったのです。

学説の真偽はともかく、リフキンが凄かったのは、すぐにその学説にもとずいた演奏を行いCDをだしたことでした。それがロ短調ミサ曲のCDで、人数が少ないために各声部がはっきりして、風通しのよいことはすぐにわかります。

リフキンは、カンタータも何枚かCDにしています。いずれも、OVPP方式を採用した、かなり軽いバッハです。古楽器は楽器の特性上、共鳴が弱く音の減衰が早いといわれているので、どうしてもモダン楽器に比べて早めの演奏になります。

リヒターの演奏は、カンタータ一つでも合唱と楽団だけで50人以上はいるかという、まるでカラヤンとベルリンフィルのような重戦車みたいなバッハ。ビブラートをきかせて、どうだ、これで心に響かないはずがないだろうみたいなところがあることは否めない。

もっとも、それはピリオド奏法によるバッハに慣れた耳から感じることですが、現代に音楽を聴く上では一つの表現方法としては圧倒的な存在感であることは疑いようもありません。

ただし、リフキンのロ短調、あるいはカンタータの演奏は、残念ながらとにかくOVPPでやってみたという程度。OVPPが実際に可能であることを証明するための音楽であり、軽さばかりが目立つ。それぞれの歌手がばらばらという印象で、音楽全体としてのまとまりが感じられません。

早くからOVPP説を実践していたのがパロットですが、パロットの方が音楽としての完成度は高い。やや地味な存在で、あまり話題にならないのですが、同じロ短調でもパロット盤は各声部や楽器が聞きとりやすく、かつバランスがいい。

OVPPはそれなりに認知され、確かにバッハがそんなにたくさんの人数を用意できたわけがないという考え方が浸透してくるにつけ、実践する演奏も増えてきています。

最近、特にOVPPに力をいれているのがクイケン。カンタータのシリーズも順調にリリースされています。ただ、そこまで裾野を広げるのは大変なので、自分は未聴ですので、コメントできません。

そして、もう一人OVPPを採用しているのがジョン・バット。この人は、かなりマニアックな録音をすることで有名です。初演版とか、復元版とか、通常使われているスコアとは違う楽譜を採用することが多い。

バットのヨハネ受難曲は、なんと実際の礼拝の進行に乗っ取って、入場のオルガン前奏からはじまり、会衆が歌うコラールのあとに本編が始まる。第一部が終わると、説教になるのですが、これはさすがにCDに入れるのはどうかと思ったんでしょう。聴きたい人は、無料でダウンロードするようになっています。

バットのロ短調は、元祖リフキンがOVPPのために校訂した譜面を用いています。これはほかの古楽系の録音と比べても、けしてひけを取らないなかなかのもの。少ない人数が嘘のように、各声部が有機的に融合して、迫力もあり細かいところも描き切るところが気持ちいい。

これは、さすがにOVPPというのを認めざるをえないかと思いました。ただ、音楽として歴史の中に埋もれさすだけならいいのですが、「音を楽しむ」ための一つの方法論であって、必ずしもそこにこだわるだけではだめかなとも考えます。




2014年9月2日火曜日

延長50回

いやぁ、驚いた。
夏の甲子園大会が終了して、高校球児の夏はとっくに終わっていたと思ったら、なんとまだやっていました。

ただし、硬式野球ではありません。軟式野球です。日曜日に決勝戦が行われて、中京高校が優勝したんですけど、驚いたのはこの決勝戦ではなく、決勝前に行われた準決勝の話。

中京高校の準決勝が始まったのは、実は8月28日のこと。15回までやって点が入らず、翌日に続きます。ところが29日どころか、30日も点がはいらない。

なんと4日目の日曜日にやっとのこと、延長50回でやっと決着したというから、これを驚かずに何を驚くのかという感じ。しかも、そのままダブルヘッダーで決勝戦だったわけですから、もう凄すぎです。

軟式といえど、野球の記録としては前代未聞ではないでしょうか。高校野球では、同日の試合は体力を考慮して15回までとされていて、決着がつかない場合は翌日に持ち越しという決まり。硬式の場合は25回が最長記録。

プロ野球は、回数や時間の制限で引き分けになりますが、過去にのんびりしていた時代に28回というのが最長らしい。アメリカでも33回が最長、日本の社会人軟式での45回というのがこれまでの最長記録だったみたいです。

もう、お疲れ様でしたとしか言いようがない。なんて充実した夏をすごしたことでしょう。選手たちは、社会に出てからも、きっと大いに活躍できるんじゃないでしょうか。

2014年9月1日月曜日

栗の木は残った

9月です。先週から灼熱と豪雨の夏が、急転直下に幕が降りて、いきなりの秋の到来という風情でしたが、カレンダーをめくって、9月という文字を見るとなおさらです。

いつも自宅からクリニックまで通勤する道の途中に、けっこう立派な竹林がありまして、その一番端に栗の木があるんです。

以前にも、ここで栗の写真を撮ったりして、ブログにものせたことがあります。いかにも秋らしいですよね。

ところが、8月なかばに急に重機が入って、どんどん竹をなぎ倒していました。数日で更地になって、砂利を敷き詰めて、宅地にするんだか、マンションでも建つんだかわかりません。

まぁ、土地の権利者の方の自由ですから、ただの通りすがりの自分が文句を言ってもしょうがないわけですけど、何とももったいないことをするもんだと思わざるをえません。

少なくとも自分がこの場所を知ってから10年弱は、まったく手つかずでほったらかしてあったのですから、そのままでもいいじゃんと勝手に思ったりするわけです。

それにしても竹ももったいないのですが、それにもまして残念なのは栗の木が無くなってしまうこと・・・と、思っていたら、よく見たら工事の壁の立てられて、すぐ外側に残っているじゃありませんか。

さすがに、これだけは残してくれたようです。なんか、ちょっとだけ嬉しくなりました。季節を大事にしたいという気持ちを持っている方が、土地の所有者なんでしょう。