2022年11月13日日曜日
俳句の勉強58 落葉で苦心
寒くなって来ると落葉は、そこらじゅうで見ることでできます。当然、冬の季語になっていて、単独以外にも「落葉掃く」、「落葉焚く」、「落葉時雨」などの傍題も使われます。
まだ木に残っていて散りそうなのか、木からは垂れてゆらゆらと落ちているのか、あるいは地面に溜まっているのか、時間的な変化もあったりして、バリエーションがありそうなんですが、たいてい何かが終わる寂しさみたいな共通の感情を呼び起こすので、発想が固定化されやすい。
待人の足音遠き落葉かな 蕪村
落葉がたくさん道に落ちていて、人が歩くとカサ、カサっと音がする。人を待って耳を澄ますと、まだまだやってくる気配が無いなあというところでしょうか。人を待ちわびて、一人でいる寂しさが表現されています。
西吹けば東にたまる落葉かな 蕪村
これも蕪村ですが、何か当たり前感のある句。西から風が吹いて、東側に落葉が溜まっているということ。「菜の花や月は東に日は西に」のセルフカバーみたいな感じです。
焚くほどに風がくれたるおち葉かな 一茶
現代ではそこらで簡単に焚火をするわけにはいかなくなったので、落葉炊きというのは死語に近いものがあります。焚火の中でサツマイモを焼くなんていうのも、ほぼ消滅した風習なので、今さら俳句に盛り込んでも嘘っぽいだけになってしまいます。
野良犬よ落葉にうたれとび上がり 西東三鬼
陽だまりでうとうとしている野良犬がいて、ゆらゆらと落ちて来た落葉に「打たれ」るという大袈裟な表現が面白い。でも、そのくらい驚いてビクンとなるというのは、いかにもありそうな光景として納得できます。
雄鶏や落葉の下に何もなき 西東三鬼
戦後すぐに詠まれた句で、一生懸命餌を探して落葉の下をつついて回る雄鶏は、敗戦後の困窮した日本人を重ね合わせることができます。でも、そこには何もないという、辛さがにじみ出てくるわけで、人の生活の匂いが強く感じられます。
そこまで鑑賞に耐えることができる句が詠めなくてもいいんですけど、とりあえずいろいろ考えてみましたが、やはり同じ発想の中をぐるぐると回るだけの凡人の域をなかなか出られません。
停車場の落ち葉を連れて郷帰り
落葉連れ夜行のバスは故郷へ
どこからか落ちて来た落葉の一枚が、夜行バスにひらりと入って、一緒に故郷に帰るんだなぁ、ということなんですが、「停車場」というのがわかりにくいかなと思って、直接的な「夜行バス」を使ったものも考えてみました。停車場のほうがいろいろと郷愁を誘うと思いますが、落葉よりも目立ってしまう感じがします。
夜行バス旅のお供は落葉かな
切れ字の項かは絶大で、「かな」をつけるだけで一気に「落葉」が主役に躍り出る感じになりますが、どういじっても「だから、何?」という程度の俳句ですね。
末社にも吹き溜まりたる落葉あり
神社には主たる祀神をおさめた本殿以外に、別の神を祀る小さな末社が併設してあることがよくあります。たいてい端の方にあるので、落葉の吹き溜まりになったりしていますが、手入れが疎かになりやすいのかもしれないけど、落葉でくるまれて寒さもしのげているのかなぁという句です。
山に入り踏まれ踏まれし落葉路
山に入って道がわからなくなったけど、何度も誰かに踏まれて落葉が踏み固められた道があったので助かったという感じです。「踏む」を繰り返すことで何度も何度もという感じをだしてみました。ですが、相変わらず、駄句量産という感じですね。
2022年11月12日土曜日
俳句の鑑賞 42 石田波郷
石田波郷(はごう)、本名哲夫は、大正2年(1913年)、松山市の中心部から西の海岸沿いの町で農家の次男に生まれました。地元の尋常小学校を卒業すると、県下一番の県立松山中学へ進学。かつての教壇には夏目漱石が立ち、先輩には子規、碧梧桐、虚子、草田男などがいます。
中学で俳句を作り始めた波郷は、当初は郷里の師に句作を教わっていましたが、卒業すると農家の仕事を手伝うようになります。しかし俳句の事は忘れませんでした。昭和5年、一時は中村草田男と共に注目されていた五十崎古郷と知り合い、彼の推薦で水原秋櫻子に師事することになります。俳号の波郷の命名は、古郷によるもの。
病弱だった古郷は、「ホトトギス」の草田男に対するライバル心もあって、「ホトトギス」を離反した秋櫻子につくことを決め、草田男に勝つための武器として波郷に期待していたようです。
秋の暮業火となりて秬は燃ゆ 波郷
昭和7年、「馬酔木」の巻頭に初めて載った若き波郷の句。「秬(きょ)」は黒いキビのことで、燃料的に燃やすと豪快に炎が上がったというもの。冬が近づき、日が暮れると急に寒さがこたえるということか。
バスを待ち大路の春をうたがはず 波郷
そして波郷はついに昭和7年、20歳にして単身上京することになりました。東京という大都会に出て来たばかりの青年が、疑い事もない大きな希望をいだいていたことがにじむ句です。
東京で波郷は、「馬酔木」の事務の仕事をしながら、最年少の同人になりました。昭和9年、秋櫻子の援助により明治大学に入学。しかし、女性とのいざこざ(?)などもあって2年で中退しています。
梅雨の空ひとが遺せし手鏡に 波郷
同棲した女性が去った後に遺された手鏡・・・ということか。梅雨空が切なく悲しいと思ったのか思わなかったか、回想を残していないので、本人曰くの「一箇の愛欲事件」の詳細はまったくわかりません。
昭和14年、記憶に残る座談会が開かれます。「俳句研究」誌の編集長だった山本健吉の企画として実現したもので、「新しい俳句の課題」というテーマでした。「ホトトギス」の中村草田男と共に「馬酔木」から出席した加藤楸邨と石田波郷は、近代俳句は自然諷詠から人間諷詠が重要で「人間の探究」が共通点であるという認識で一致しました。
霜柱俳句は切れ字響きけり 波郷
新興俳句の散文調に対する危機感を持った波郷が、自らの俳句のそのものを表すために詠んだとされます。
雁やのこるものみな美しき 波郷
昭和17年結婚、翌年長男誕生。しかし、その直後招集され、中国山東省に駐留。この句は、召集令状が届いたときに詠まれたもの。昭和19年に結核を発症、昭和20年1月帰国し家族と埼玉に疎開します。戦後は現代俳句協会設立に奔走し、「現代俳句」誌を創刊・編集するも、昭和44年、56歳で病没しました。
ひとつ咲く酒中花はわが戀椿 楸邨
酒中花は椿の古い品種の一つで、自宅の庭に波郷が植えていた物。句集のタイトルにもしているほど、波郷が愛してやまなかった花です。
基本的には伝統俳句の範疇を守り、新興俳句に対しては「新たなものを作るのではなく、伝統的なものを一歩進めることが重要」とし、私小説的な自らの生活そのものを詠みあげる句が多い。
山本健吉評。「今日の多くの俳句の中で、かくべついさぎよさに輝いている。(もともと俳句は文学ではない考えていたので)第二芸術論にたじろがなかったご少数の作家の一人で、俳句を作ることは波郷にとっては生きることそれ自体である」と述べています。
2022年11月11日金曜日
俳句の鑑賞 41 加藤楸邨
加藤楸邨(しゅうそん)、本名、健雄は明治38年(1905年)に東京で生まれました。父親が鉄道勤務で転勤が多く、楸邨も各地を転々として父親の定年により金沢に落ち着いたのは旧制中学の頃でした。大正14年、父親が病没し、一家は水戸に転居し、楸邨は水戸で代用教員の職に就きます。
しかし、翌年単身上京し苦学して東京高等師範学校に入学。昭和4年に卒業し、埼玉県春日部市の中学校教諭に採用されます。ここで仕事仲間からの誘いで句作を始め、俳号は当初「冬村」でしたが、「柊村」となり「楸邨」に落ち着きます。少年期より読書が好きで、古典、思想書などを愛読していたので、文学的素養はしっかりとしたものがあったようです。
昭和6年、仕事で春日部に来た水原秋櫻子と会う機会があり、以後「馬酔木」に投句をするようになります。 昭和10年、「馬酔木」同人となり、俳論の寄稿も積極的に行うようになりました。昭和12年、教諭職を辞し「馬酔木」に就職すると同時に東京文理科大学に入学します。
棉の実を摘みゐてうたふこともなし 楸邨
冬に没る金剛力に鵙なけり 楸邨
第一句集冒頭句。初期の作品であるので、自然諷詠ですが、歌うこともないとは間違いなく人の営みであり、棉の実を摘むことが楽しいわけではないということでしょうか。次の句も難しい。「冬に没る(いる)」は「冬になって」ということ。金剛力は木々の葉が黄色くなり、まばらになっていく様子だと思いますが、そこを弱々しさではなく力強さで表現し、鵙(モズ)が確信をもって鳴くということだと思います。
昭和14年、「俳句研究」誌の座談会に中村草田男、石田波郷らと出席し、発言内容から彼らは「人間探求派」と呼ばれ、その俳句は難解と言われるようになります。昭和15年に大学を卒業した楸邨は、俳誌「寒雷」を刊行し主宰となりました。創刊の巻頭言に「俳句の中に人間の生きることを第一に重んじる」とし、誌名は前年に秋櫻子の序を頂いた第一句集から来ています。
鰯雲人に告ぐべきことならず 楸邨
代表句とされる有名な句で、鰯雲が見える秋の空を眺めながら、いろいろと心の中で思っていることを口に出すものではないと考えている作者がいるということです。
つひに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど 楸邨
知人の戦死の知らせを受け、地面を見ると一匹の蟻がひたすら這っていく様子が目に入った。ただ進んでいく蟻に知人の姿を重ねた思いを詠んだものでしょう。
十二月八日の霜の屋根幾万 楸邨
昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を仕掛けアメリカに対して宣戦布告しました。朝、ラジオで「我が国は戦争状態に入れり」とニュースが流れます。それを聞いた作者は、家々に降りた霜がきらきら輝くのをどのように見たのでしょうか。
戦後は戦争協力者という非難を受けることがありましたが、次第に俳壇での活動を活発化させます。昭和29年、青山学院女子短期大学教授に就任し、俳壇の多くの受賞、受勲を成し遂げ、平成5年、88歳で亡くなりました。
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 楸邨
病床にあった時に、落ちて散りゆく木の葉に向かって、「急ぐな急ぐなよ」とつぶやく自分を詠んだもので、それは自分に向かって発せられたものでもあったのでしょう。
人間探求をテーマに俳句革新の中心となり、輩出した多くの多様な門下の俳人は「青邨山脈」と呼ばれ、戦後俳壇の中心となっていきました。
山本健吉評。「楸邨はカオスを含んでおり、話しているうちに新しい問題に突き当たり、考え込みさらに前進する」と人柄を表現し、その作品は「庶民的な凡愚の生活感情」が根本にあり、「暖かい人間的な善意に満ちていて、求道者的魂が貫ていいて感動の振幅が人一倍巨大である」と述べています。
2022年11月10日木曜日
オリーブ・オイル・ドレッシング
日本の自家製オリーブ・オイルを使った高級ドレッシング・・・をいただきました。
小豆島にある井上誠耕園が作っているもので、それなりの値段です。それなりの値段だと、それだけで美味しく思ってしまうのが、小市民的なところですが、少なくとも普通に使うものよりは間違いなく高級です。
オリーブ・オイルの話は以前に書いたんですが、日本の場合はJAS規格が基準です。ところが、この規格は世界的には怪しい所があって、正真正銘まともなオイルかどうかはわかりにくい。
井上誠耕園のオリーブ・オイルは、HPで見ると標準的なエキストラ・ヴァージンで約10円/gなの、国際的な価格からすると最高級品の値段と肩と並べます。
ところが、ちょっと気になったのは、小豆島で自家栽培・自家製をしているようなんですが、スペインからもオリーブの実を空輸しているらしい。となると、実を採取してから最低でも1日以上のタイムラグが生じるというところが、どうなのかなぁ・・・
それとHP上では、国際規格で重視されるオイルの酸度の表記がまったく見つけられなかったことも、どうなのかなぁ・・・
もっとも、今回賞味したのはドレッシングですから、そんなところをあまり気にしてもしょうがない。野菜や肉にかけてみて美味しければ問題ないわけで、普段使いにするにはもったいないとは思いますが、贈答品としてはバッチリでした。
2022年11月9日水曜日
月蝕
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いや、月蝕の前に11月7日は立冬だということを忘れちゃいけない。暦の上ではここから冬だということ。
毎年、いつの間にか過ぎる立冬に比べて、やはりセンセーショナルなのが昨夜の月蝕。それも皆既ですよ。しかも、442年ぶりの天王星蝕も同時に見られる・・・
相当、天気が良い空気の澄んだ場所で、しっかりとした天体望遠鏡があれば天王星もわかるかもしれませんが、首都圏の当たりじゃどうせわかりっこないので、そこんとこは聞かなかったことにします。
月蝕とは・・・太陽の光を遮る地球の影に月が隠れる現象ですが、綺麗に全部隠れる場合は皆既月食ですよね。
真っ暗になって月が見えなくなるわけじゃなくて、ほんのりと赤みを帯びた月が見えました。写真を撮るにも、相当露出を開いて、シャッター速度も遅くして、感度もあげて、その上でノイズ・リダクション機能を使って、やっとこの写真が精一杯。
ちなみに右下ふきんに天王星が・・・・見えません。
2022年11月8日火曜日
俳句の勉強 57 第二芸術論
第二芸術論とは、は、岩波書店の「世界」誌の昭和21年(1946年)11月号に掲載された桑原武夫の論文のタイトルです。その挑発的な内容によって、戦後間もない俳壇に大きな衝撃を与え、論争を巻き起こしました。
現在も文庫本として論文集は手に入るので、本来はしっかりと読了した上で書くべきタイトルなのですが、なかなか敷居が高い感じがするので、ネットを探していろいろな意見を読んだ上での感想を書きとどめておきたいと思います。
桑原武夫(1904 - 1988)は、フランス文学・文化研究者、評論家で京都大学名誉教授。受勲もしており、一定の見識を持った学者であると言えます。ただし、同じ文学界からは研究姿勢に批判的な意見も少なからずあるようで、本テーマについても冷静に考えると論点に疑問が残るように思います。
1. ヨーロッパ、ことにフランスの芸術は最も高い位置にある
2. 明治以降、日本の小説、とくに俳句は社会的思想的無自覚であるがゆえに面白くない
3. 俳句は同好の集まりで楽しむ芸事である
4. 芭蕉を崇拝し続けたことで俳句は堕落した
5. 俳句は芸術ではなく、強いて言うなら第二芸術である
まぁ、その他にもずいぶんと過激な意見が述べられているようですが、桑原氏は有名俳人と素人の句を並べて、被験者にブラインド・テストで優劣を評価させたところ、必ずしも大家の句が優秀であるという一定の評価が得られなかったことから、上記のような結論を導き出しています。
15句の例句のうち2つだけ紹介します。
防風のこゝ迄砂に埋もれしと ???
さて、どっちが大家の句でしょうか。正解はも前者は無名の素人、後者は高濱虚子です。確かに、確実に正解を出す自信はありません。正解を知って、確かにそうなのかもと思えるというのが本当の所かもしれません。
さらに、俳句は他に職業を有する老人や病人が余技とし楽しむ程度の物であり、床屋の俳句や川柳のごときものを芸術と呼ぶことはできないと論じています。
確かにプロの俳人の句だとしても、どうにもつまらない句があることは否定出来ません。何千、何万句を作って、後世に残るのは良くて何百かもしれません。素人の句でも、出合頭のホームランというのもあります。テストでは、例句にはプロの有名句は避けているのはしょうがないとしても、これだけで語るには無理がある。
もっとも、大正から昭和初期にかけて、高濱虚子の「ホトトギス」が絶対正義となり、直接的な感情移入表現を拒絶した「花鳥諷詠」を大看板に掲げたことは、俳句の芸術的な広がりを抑制したことは間違いないかもしれません。
ですから、それに対抗して早くから自由な作句を目指した河東碧梧桐、種田山頭火のような新傾向俳句運動や、「ホトトギス」の内部から水原秋櫻子や山口誓子のようにもっと心情を発露していこうという新興俳句運動などが発生してきています。
フランスの芸術にしても、例えばルノアールの絵画から思想的内面をうかがうのは困難だろうと思いますし、そもそも日本とはキリスト教の信仰に基づいた文化的な背景がまったく違うので、同列に置いて優劣を論じることはあまり意味があるとは思えません。
水原秋櫻子はこれに対して、「俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである」と反論しましたが、逆に、「小説家は小説を書いてみなければ小説のことはわからないなどとは言わない、この言葉こそ俳句の近代芸術として命脈が尽きている証拠である」と切り返されてしまいます。
山口誓子は、大家の弊害はある程度認めつつも、「作品に失望するとしても、大家に失望しない。またよしんば大家に失望するとしても俳句そのものに失望しない」と述べています。最も強く反論したのは中村草田男で、「その説教調は理由なき優越感からくるもので、これを教授病と命名する」としました。ちなみに、本来もっとも標的になっていたはずの「ホトトギス」は沈黙を続けました。
少なくとも、この議論に勝者はいません。後年、桑原氏は自ら適切ではない部分があったことは認めていますし、俳人の側も効果的に論破できたとは言い難い。ただ、桑原氏の投げつけた爆弾と軍国主義の崩壊によって、戦後の社会派俳句と呼ばれるようなより内面的な句作が始められるきっかけになったことは間違いなく、「ホトトギス」だけでなく多くの傾向の違う俳句を作る流派も同等にみられるようになったのかもしれません。
2022年11月7日月曜日
俳句の鑑賞 40 中村草田男
降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男
いきなりですが、超有名です。誰もが一度は耳にしたことがある俳句の一つ。これは、大学に進学した俳人・中村草田男が、自分が通った東京都港区の青南尋常小学校を訪れた際に詠んだ句。本人は、「降る雪によって、時と場所の意識が空白化し、今も明治が続いていると同時に永久に消えてしまった」と感じたと後に述懐しています。
中村草田男、本名、清一郎は、明治34年(1901年)に清国の時代の中国で生まれました。両親は旧松山藩の士族の家系ですが、父親が外務省に勤務した関係で、清国領事として赴任していたのです。3歳で帰国し松山に戻ると、7歳で上京。毎年のように都内を転居し、そのたびに小学校を転校、11歳で再び松山に戻っています。
ところが、松山で草田男は学校が嫌いになり、しだいに精神的に安定を欠くようになりました。転勤の連続で父親がずっさといないことや、旧家の長男としての様々な重圧が関係しているのかもしれません。
大正3年、県立松山中学入学(夏目漱石が奉職していた学校)。大正5年には、いわゆるノイローゼ(神経衰弱)のため、1年間休学することになります。草田男の困難を救ったのが、同級生だった伊丹万作(戦前の片岡千恵蔵の映画を多数監督)でした。復学した草田男は、ニーチェの「ツァラツストラ」を愛読し、哲学的思索に傾倒するようになります。
大正10年、やっと中学を卒業した草田男は、1年間浪人して大正11年に松山高等学校に入学し無事卒業後は、東京帝国大学へ進学しました。この間に、近親者が相次いで亡くなり、再びノイローゼがひどくなった時に、自己逃避の一助として俳句を始めるのです。
松山に住み、家には当然ように雑誌「ホトトギス」があった環境では、草田男の俳句の出発点も高濱虚子の説く「客観写生」でした。東大俳句会にも入会し、水原秋櫻子からも直接指導を受けながら、昭和4年に「ホトトギス」初入選を得ます。
前向ける雀は白し朝ぐもり 草田男
「ホトトギス」初入選句。昭和6年に秋櫻子が反「ホトトギス」を表明し脱会した後は、しだいに会の重責を担うようになります。昭和8年、大学を卒業し、吉祥寺の成蹊学園に教師として就職。
軍隊の近づく音や秋風裡 草田男
しだいに日本の軍国化が顕著になって来る昭和8年の句。「裡」は「り」と読み、「裏」と同義語で物事の内側という意味。寒々とした秋風の裏に軍隊の気配を感じ取るという、すでに「ホトトギス」の花鳥諷詠からはずれた独自の句柄になっています。
昭和10年、日野草城が発表した連作「ミヤコホテル」に対して論争が起こると、「都ホテルとは厚顔無恥な、しかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。(中略)俳句は単なる十七音詩ではなくして、同時に本質的意味で自然諷詠詩なのである」と激烈な批判を展開しました。この年、草田男は第一句集「長子」を刊行します。
萬綠の中や吾子の齒生え初むる 草田男
昭和14年の、草田男の代表句として広く知られる句。季語は「万緑」ですが、今ではよく知られたこの単語は中国の詩句に登場し、俳句の季語として草田男かここで初めて使用し、見渡す限り草木の緑色の真っ只中という意味を持ちます。自分の幼い子に初めて歯が生えてきたことの喜びを、万緑に象徴させました。
また、この年、「俳句研究」誌の座談会「新しい俳句の課題」に出席。司会は評論家・山本健吉で、同席したのは、当時「馬酔木」に属していた加藤楸邨、石田波郷でした。三人は「人間の探究」が必要であるという点で共通の認識を確認したことで、「人間探求派」と呼ばれるようになる一方で、「難解派」とも称されることになります。
焼跡に遺る三和土や手毬つく 草田男
空襲により焦土と化した街並みの瓦礫の中に平らな三和土(たたき)が残っていて、こどもたちは無邪気に毬突きをして遊んでいるという様子。終戦により、俳壇も少しづつ活動が再開され、草田男も昭和21年に「萬綠」を主宰することになりました。
同年、再び俳壇に激震が走ります。フランス文学者の桑原武夫が「第二芸術 - 現代俳句について 」を発表し、思想的無自覚な俳句創作態度を、「到底芸術とは呼べず、あえていうなら病人や年寄りお楽しみ程度の第二芸術である」と痛烈に批判します。ここでも、草田男は反論を積極的に行いました。
昭和22年、石田波郷、西東三鬼らと現代俳句協会を結成。草田男は、精力的に活動を続け、昭和34年、虚子没後の「朝日俳壇」選者を引き継ぎます。昭和36年、運営方針に賛同できなくなったため現代俳句協会を辞し、石田波郷らと新たに俳人協会を設立しました。昭和58年7月肺炎を発症し、8月5日に82歳で亡くなりました。
草田男という俳号の由来は、俳句を始めた頃に親類から、一家の長男として「お前は腐った男だ」と叱られたことから、「くさったお」を思いついたらしい。腐っているかもしれないが、そうじゃなくなって見せるという反骨精神のようなものがあったのでしょう。
山本健吉評。「草田男の本質はメルヒェンの世界」とし、その根源には、伊丹万作らの松山の友人たち、多くの西洋の芸術家たち、そしてカトリックへの信仰などがベースになっていると指摘しています。俳句の世界にとどまらない、文学者としてもっともかけがえのない存在であると最大級の賛辞を贈っています。
2022年11月6日日曜日
俳句の鑑賞 39 永六輔
永六輔は昭和8年(1933年)生まれの、テレビ放送黎明期を代表する放送作家であり、大ヒットした「上を向いて歩こう」、「こんにちは赤ちゃん」、「いい湯だな」、「遠くへ行きたい」などなどの作詞家としても知られています。テレビやラジオで様々な意見を発信し、平成28年に多くの著作を残して83歳で亡くなりました。
永は、昭和44年に入船亭扇橋(九代目)、小沢昭一、江國茂らと(東京)やなぎ句会を結成しました。江戸情緒にも精通した放送作家、劇作家、噺家、芸能評論家、俳優らが参加し、2021年まで大いに盛り上がる句会を開催してきたそうです。
永は、俳号は六丁目で、「いかに短くするかという俳句と、いかに長くするかという歌詞とは両立できない」として、しだいに作詞家活動を止めてしまうくらい、俳句が好きだったようですが、自分では「たいした句はなく、(やなぎ句会で)俳句を作らなければどんなに楽しい会」と言っていたらしい。
看取られる筈を看取って寒椿 六丁目
愛妻家で知られる永が、妻に先立たれた際に詠んだ句。自選するならこの一句だけ、と述べています。寒くなって咲く寒椿の凛とした紅色の美しさと、妻への愛情が込められています。
梅干しでにぎるか結ぶか麦のめし 六丁目
おにぎりなのか、おむすびなのか昔から諸説入り乱れ、結論は様々。中に入れるのは、今では何でもありですが、戦後の食糧難を経験した永にとっては、一番シンプルな梅干しが定番で、白米よりも握りにくい麦飯がスタンダードだったのかもしれません。
遠回りして生きてきて小春かな 六丁目
歳時記にも収載された句。季語の「小春」は、初冬の春のような温かい陽気のこと。いろいろあったけど、今は小春日和のような気持の良い日々を送っているということでしょう。でも、小春の後には厳しい冬(老年)がやって来るのです。
寝返りうてば土筆は目の高さ 六丁目
「土筆(つくし)」は仲春の季語。どこかの原っぱで、春の陽を浴びてぬくぬくとしているこうけいでしょうか。寝返りを打ったら、すぐ目の前に土筆があったことで、いっそう春を感じたということ。
土筆の向こうに土筆より低い煙突 六丁目
寝返りしたら土筆があって、さらに遠くに視点を移すと煙突がある。なんだ煙突の方が土筆より低いだと思ったわけです。もちろん遠近感の問題ですが、人工物より自然物により愛着を持ち季節を感じることができることを、両句とも自由律で詠みました。
ずっしりと水の重さの梨をむく 六丁目
確かに梨は持って視ると重さを感じますが、美味しい梨はとても瑞々しいもの。梨の新鮮で美味しそうな雰囲気を「水の重さ」と表現するところが素敵です。
いかにも永六輔らしい、軽いユーモアをもありつつ、どこかに現実に対する鋭い観察眼から生まれる正確な写生をしている感じがする俳句です。これが、まさに「粋」な言葉というものなのかと思いますし、自然とこのように詠めたら嬉しいですね。
2022年11月5日土曜日
俳句の投句結果 1
俳句を作る上で、兼題というテーマが決められていることがあります。もちろんテーマが無く、好きに作れと言われても、なかなかネタを見出しにくいですから、プロの俳人でもなければ途方に暮れてしまいます。
兼題はほとんどの場合には季語が選ばれているわけですが、その言葉を聞くと頭の中に映像が浮かんでくるものとこないものがある。例えば、「桜の花」みたいな言葉から、当然春の満開の桜のイメージが連想できるわけですが、誰でも同じような映像からスタートするので類想・類句に陥りやすい。
一方、時候・天文に関する季語は明確な映像を持たないものが多く、例えば「初冬(はつふゆ)」と言えば10月、あるいは「神無月(かんなづき)」のことで、普段からいろいろなものを細かく観察していないとここから何も思いつかずに困惑するだけになってしまいます。
という、言い訳を長々としておいて、そろそろこれまでの投句の結果発表第一弾と行きたいと思います。今回は、愛媛県松山市が運営する「俳句ポスト365」の分。松山市は正岡子規をはじめとして、有名な俳人とのかかわりが深く、夏井いつき先生の地元です。
投句は中級者以上と初級に分かれていて、選者は前者は夏井いつき先生、後者は夏井先生の長男で俳人の家藤正人先生です。当然、自分は初心者ですから初級に挑戦しました。
まずは2022年6月の兼題、「夏の海」です。初級の投句数は4155句、投句人数は1702人です。
夏の海驚き払う飛ぶ海月
落選。この時は、けっこういいなと当然思っていたわけですが、あらためて見ると動詞が3つあって、全部の単語でぶつ切れ俳句です。季語が「夏の海」と「海月」で季重なり。しかも、どちらかというとクラゲの方が主役っぽい。映像としては想像しやすいと思いますが、俳句としては成立していませんでした。
夏の海泣く子澄ませば傘の波
入選。初級の入選は、俳句の体をなしているというほどの評価だろうと思いますが、とりあえず嬉しいことに変わりはありません。あらためて考えると、中七がまずい。
迷子が泣いている声を、耳を澄ましてて探しているという状況を詠みたかったのですが、「泣く子」が「澄ましている」状況になっていて内容が伝わらない。「耳を澄ます」という言葉にこだわりすぎて盛り込み過ぎた感じで、もっと単純に「泣く子探して」とか「泣き声かすか」などくらいが良かったかもしれません。
続いて、2022年7月の兼題、「原爆忌」です。初級の投句数は4116句、投句人数は1680人でした。
銀翼にフラッシュバック原爆忌
落選。う~ん、悪くはないと思うんですけど、何がダメなのか・・・「銀翼」とか、「フラッシュバック」という比喩表現が伝わりにくいのかなぁ。空を飛ぶ飛行機を見つけた時に、爆弾が投下される恐怖が思い出されるということなんですが、カタカナ言葉の使い方も難しいのかもしれません。
原爆忌手を止め未了の「黒い雨」
入選。小説の名称、つまり固有名詞を鈎括弧で囲むというのは、ちょっと冒険でしたが、何とか合格を貰えました。だから強気になるわけではありませんけど、これはまぁまぁイケてるんじゃないかと思います。
そして2022年8月の兼題は「芒」です。初級の投句数は3874句、投句人数は1614人でした。
待宵に鬼子母授けし芒木菟
落選。いゃ、もぅ、これは凝り過ぎ。考えすぎ。意味不明。言葉遊びになってしまい、そもそも兼題の「芒」が埋もれてしまいました。芒の類想を回避しようと悪戦苦闘したことだけが伝わるかもしれません。
芒原阿吽の息に靡きけり
入選。「芒原」から始まるススキがなびく様子は、山ほど類句がありますが、「阿吽の息」でというところがオリジナリティ。ススキの花言葉は一般的には「生命力」ですが、「心が通じる」というあまり知られていないもう一つの花言葉から、「阿吽の呼吸」に発想を飛ばしたところがわかれば面白いと感じてもらえると思います。
ちょっと気になっているのは、自分としては珍しく「切れ」を使って終わっているところ。「けり」は過去の感動ですので、「(以前に)なびいたんだなぁ」という感じです。よく登場する「かな」は現在の詠嘆なので、「靡くかな」とすれば「(今目の前で)なびいている」となります。どっちがいいのか、まだ決めかねています。
2句ずつ投句して、入選率50%ですから、十分に合格と言って問題ないと思いますが、基本的に初級は、季語を含む五七五という定型をしっかり作れということが目標です。9月の兼題「鰯雲」の初級発表はまだですし、入選以上の特選を貰ったわけではありませんが、今後は内容の勝負を含めて中級以上に投句すると宣言しておきます。
2022年11月4日金曜日
味噌を作ってみる 6 出来ている
4か月近く、その後音沙汰なしだったので、味噌作りは失敗して捨ててしまったんだろうと思っていたでしょう・・・ところが、そうじゃない。
とりあえず出来ています。仕込んでから最低3か月ということでしたが、さすがにそれじゃ熟成具合がイマイチだろうと、ずっとほったらかしていました。
もっとも、ビニール袋に入れていたんですが、9月ごろに黒カビっぽいものが表面に出たので、これを取り除く際に、今後の使い勝手も考えて密閉できるプラケースに移しました。
さて、さらに放置して本格的に食するのは1年くらいは待ちたいところなんですが、とりあえず一度は味見をしてみようと・・・
味噌汁を作ってみました。
元々、塩はやや少なめにしたので、塩辛さは丁度良い。思ったより甘めの感じに仕上がっています。それと麹のアルコール発酵のせいなのか、やや酒っぽい感じ。
予想よりも色も濃いので、夏の暑さで発酵がやや強めに進んだ・・・ってことありますかね。よくわかりませんが、一応食用として何とかなりそうです。
2022年11月3日木曜日
俳句の鑑賞 38 三遊亭圓樂
ここでは三遊亭圓樂は、六代目のこと。昭和の人間は、圓樂というと馬面の五代目の印象が強い。六代目は、1970年に五代目に入門して六代目圓生に命名された楽太郎と名乗っていた期間が長く、五代目が2009年に亡くなったことで、六代目を襲名しました。
三遊亭の大名代は圓朝と圓生。そして圓生と言えば六代目(1900-1979)。おそらく、今まで聞いたことがある最高の噺家だと思いますし、落語のベースとなる文化が忘れられた現代では、六代目圓生を超える落語家は出るべくもない。
六代目圓樂は、圓生の襲名にかなり思い入れがあったのだそうです。ですが、最近の圓樂の落語を聞いていないので、よけいなことは言えませんけど、やはり圓生は六代目があまりにも偉大であり、五代目圓樂もまったく及びもしない存在でしたから、個人的には到底難しいことだったと思います。
だったと過去形になってしまうのは、六代目圓樂は2022年9月に亡くなったからですが、落語界として考えれば惜しまれる存在だったことは間違いありません。六代目圓樂は、「プレバト!!」の俳句コーナーにも出演し、名人初段まで上がってきていたので、病気のことが無ければこちらも残念なことでした。
番組内では、全部で22句を詠んでいますが、夏井いつき先生に添削無しとされた句をいくつか拾い上げてみたいと思います。
町会長犬を預かる盆踊り 圓樂
お題は「盆踊り」です。盆踊り大会に誰かの大事な犬を預かって、自分は大会には行けないという、ちょっととぼけた噺家らしい俳句です。
チーママの裾はしょりたる梅雨の夜 圓樂
お題は「雨の銀座」で、季語としては「梅雨」を使っています。チーママは小さいママさんの意味で、スナックなどの女主人(ママさん)に次ぐ二番手のこと。着物の裾が濡れないように、片手で傘、片手で裾をちょいと持ち上げているという艶っぽさがある感じ。
塩鮭の喋るが如き売り子かな 圓樂
お題は「年末のアメ横」です。大声で客を読んでいる店員さんの姿が見えてきます。売り物の塩鮭を持ち上げて、もうまるで鮭が喋っているみたいという活気あふれる映像です。このあたりから、落語家としてのウケよりも、本気で句作し始めた感じがします。
段雷に靴紐きつく秋の朝 圓樂
お題は「運動会」で、一発なら号砲というところを、何発も続けざまに聞こえたので連続打ち上げ花火に例えて「段雷」という言葉を使ったようです。運動会にかける意気込みが詠まれています。
氷壁崩落白玉を掘り出す 圓樂
お題は「アイスクリーム売り場」です。アイスクリームというよりかき氷でしょぅか。スプーンでざくざくとかき分けていくのを「氷壁崩落」という大袈裟な表現をしたところが面白い。何だろうと思っていると、中から出てきたのが白玉というのがお茶目。
夕立や尻っぱしょりを犬が追う 圓樂
お題は「雨宿り」です。これは噺家ならではの俳句でしょう。熊さん八っさんの世界。おっと夕立だぜ、向こうの軒下まで一走りだ、と尻っぱしょりして駆け出すと、野良犬がワンワンと吠えて追いかけていく様子がありありと見えてきます。
この句が、一番良いなと思いました。噺家の俳句という、他の人では思いつかない世界が描けていると思います。元気であれば、もっとこのようなオリジナリティのある句が披露できたのでしょうね。ご冥福をお祈りします。
「プレバト!!」で芸能人が詠んだ句を、夏井先生の評も含めて、詳細に聞き書きしたブログを続けているプロキオン氏のサイトを参照させていただきました。テレビでは掛け捨てになってしまうところを、このような形でまとめられていることは大変な労力だと思います。
2022年11月2日水曜日
俳句の鑑賞 37 鷹女と多佳子
三橋鷹女、本名、たか子は、昭和初期に活躍した女流俳人の中で、「ホトトギス」との関係が無い例外的な存在です。明治32年(1899年)に千葉県成田で生まれました。県立成田高等女学校を卒業、歌人が多い家族の影響で短歌に親しむようになりました。
23歳で歯科医の夫と結婚し、夫の影響で俳句を始めました。近所の句友と句会を行ったりしていましたが、夫と共に原石鼎(はらせきてい)の「鹿火屋(かびや)」、小野蕪子の「鶏頭陣」などに参加しました。
「ホトトギス」の「台所俳句」とはまったく一線を画した女流俳句を発表するようになりました。戦後も新興俳句系の「俳句評論」を中心に活躍し、昭和47年に72歳で亡くなっています。
蔓踏んで一山の露動きけり 鷹女
山路で蔓を踏んだ途端にざっと落ちて来た露に山全体が動いたように思えたという、小さい物から大きな物へダイナミックに飛躍していく、当時の女流の中ではまったく傾向の違う研ぎ澄まされた感性が表出する俳句です。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 鷹女
ひるがほに電流かよひゐはせぬか 鷹女
客観写生とは対極にあるような、自分の感情を激しく前面に打ち出した主観句であり、鷹女からすれば台所俳句は相当生ぬるいものに見えただろうと感じます。昼顔が凛と咲いている様子は、まるで電気が流れているかのように見えるという感性がすごい。
あたたかい雨ですえんま蟋蟀です 鷹女
何者か来て驚けと巻貝ころがる 鷹女
鮮烈な文語表現を駆使したかと思うと、一転して口語での自由律も鮮やかに使い分けるところも面白い。いずれも対象物の主観が立つ句で、独特の物の見方は誰も真似できないところです。
山本健吉評。鷹女は「その特異な句風は(早くから)俳壇に印象づけられていた」もので、「多くの女流俳人の句が、おおむね一色の特色にぬりこめられているのに較べれば、たいへん変化が多く、多彩である」としています。
橋本多佳子は明治32年(1899年)、東京の本郷で生まれましたが、18歳で建築家、橋本豊次郎と結婚し、福岡県小倉市にモダンな洋館「魯山荘」を立て移住しました。
大正11年、高濱虚子か門司を訪れた際、魯山荘で句会が開催され、その時の虚子の「落椿投げて暖炉の火の上に」に感銘を受けた多佳子は、杉田久女の勧めもあって久女の手ほどきで俳句を始めました。
昭和2年、「ホトトギス」に初入選しますが、昭和4年に大阪に転居、ここで山口誓子に師事したことから、水原秋櫻子主宰の「馬酔木」に移りました。戦後も誓子と行動を共にして「天狼」に参画しています。男性俳人を凌駕する戦後の活躍が目覚ましく、昭和38年、64歳で病没しました。
たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏 多佳子
「ホトトギス」初入選の俳句。「ホトトギス」らしいと言えばらしい句で、後年の多佳子の句とは異なります。
月光にいのち死にゆくひとと寝る 多佳子
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 多佳子
「ホトトギス」離脱後は、誓子と関わるようになって、女性ならではの感性のもと主情的な激しい表現を盛り込むようになりました。男性たちに負けまいという気持ちもあったかもしれませんが、生来の心の強さを隠さず表出した結果であろうと想像します。
白桃に入れし刃先の種を割る 多佳子
一ところくらきをくぐる踊りの輪 多佳子
これらも多佳子の代表作として知られているもの。「切れ字」を使用を控えて、作者の視点が冷静に一点に集中していく力強さがはっきりと描かれています。ふだん誰も気にしないであろうところを、描き出す力があります。
臥して見る冬燈のひくさここは我家 多佳子
雪はげし書き遺すこと何ぞ多き 多佳子
晩年、胆管がんによる入院生活から退院しての句。自分の死期を悟っているのかもしれませんが、やや弱気な印象。一方で、生への執着のようなところも見てとれ、往年の力強さは失われていないようです。
山本健吉評。多佳子の句は「女流の俳句としての魅力を極度に具えている」のと同時に「女性として情に流される弱点」もあるとしています。
また、山口青邨が水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人を「ホトトギス」の「四S」と称したのにならって、山本健吉は中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子を「四T」と呼びました。
典型的な「ホトトギス」の花鳥諷詠を守った前二者に対して、後二者は主観的な感情吐露を恐れない力強い句を作り対照的です。主観が勝ると女性らしい視点がはっきりし、女流としての特徴が明確になることがよくわかります。
2022年11月1日火曜日
俳句の鑑賞 36 汀女と立子
昭和の時代になって、杉田久女に続いて「ホトトギス」で活躍し始めた女流俳人が中村汀女と星野立子でした。
中村汀女(ていじょ)は、本名は破魔子、明治33年(1900年)熊本県に生まれ、12歳の時に県立第一高等女学校に進学しました。大正7年卒業する頃より「ホトトギス」に投句を始め、すでに名が知れていた久女に憧れ、大正10年から交流を持つようになります。
久女と違い、この頃から汀女は子育てに専念し、約10年間はまったく俳壇から遠ざかっていました。昭和7年に再び俳句の世界に復帰し、昭和9年には「ホトトギス」同人となりました。昭和22年に主宰誌「風花」を創刊し、昭和63年に88歳で亡くなるまで、主婦・母親としての目線から女流俳人のトップとして活躍しました。
我に返り見直す隅に寒菊赤し 汀女
18歳の汀女が俳句作りを始めるきっかけとなった句。拭き掃除をしている時に、ひとりでに浮かび上がってきたと述べています。
ゆで玉子むけばかがやく花曇 汀女
ガソリンと街に描く灯や夜半の夏 汀女
台所俳句です。茹で卵から空に思いが飛んでいき、曇り空なのに輝くと表現したところが面白い。結婚後、夫の転勤で東京に住んでいました。熊本から出てきた都会の光景は、何もかもが珍しかっただろうと思います。
扇風機何も云わずに向けて去る 汀女
夫が暑そうに家事をしている汀女に、黙って扇風機を向けてくれたという優しさを詠んだものかもしれません。扇風機は、当時としてはかなりモダンな家電だったと思います。
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 汀女
瓦斯(ガス)や燐寸(マッチ)という、あまり俳句に馴染みそうもない言葉の使い方は素晴らしい。ガスに火が付くのではなく、火にガスが飛びつくと感じるところが、汀女独特の気づきということでしょう。
山本健吉評。「汀女は、中流家庭に幸福に育ち、自分の才能と感受性を順当に伸ばすことが出来たバランスの取れた作家」であるとし、「女流の主婦としての狭い生活空間で詠みだされる俳句を、そのまま純化し精錬した」ことが最大の功績としました。
星野立子(たつこ)は、明治36年(1903年)、高濱虚子の次女として生まれました。東京女子大学高等部を卒業、22歳で結婚後に「ホトトギス」に就職しました。虚子の子にしては、俳句を始めたのはこの頃からですが、たいへん素直な句風を虚子が絶賛し、またたくまに女流俳人の中心に位置するようになります。
昭和5年、27歳にして虚子の勧めで主宰誌「玉藻」を創刊。男性作家と同列に「ホトトギス」系の俳人として活躍し続けました。昭和59年、80歳で病没。生前、立子は「父の言う、客観写生、花鳥諷詠については頭から服従しています」と述べています。
父のつけしわが名立子や月を仰ぐ 立子
虚子の娘として自らに誇りを持って俳句に精進する決意がうかがえる、立子の代表作の一つです。
大仏の冬日は山に移りけり 立子
手袋のとりたての手の暖かく 立子
わざとらしさが無く、詠んだままの句・・・ですが、情景がはっきりと見えてきますし、何か柔らかいものに包まれるような温かい気持ちになれるところが素晴らしい。
廣々と紙の如しや白菖蒲 立子
花火上るはじめの音は静かなり 立子
ほどほどになすことおぼえ老いの春 立子
山本健吉評。「ありふれた日常語の使用や、軽い口語的発想は、立子の句の特徴」で、「明るく、淡々として、軽く、また延び延びとしていて、屈託が無く、素直な情感が盛られている」としていますが、それらの誉め言葉を反転させれば「あまりに他愛なくて物足りない」という不満を持つようです。
2022年10月31日月曜日
俳句の勉強 56 形容動詞のいろいろ
両者は何が違うの? と疑問がわくわけですが、その違いは終わり方にあります。形容詞の言い切りは「い」、形容動詞の言い切りは「だ」、「です」で終わる。文語の場合には、「なり」または「たり」で終わることができます。
口語の活用は、
未然形 「だろ(う)」
連用形 「だっ(た)」、「で(ある)」、「に(なる)」
連体形 「な(こと)」
仮定形 「なら(ば)」
命令形 ありません
例えば「穏やか」の場合は、「穏やかだろう」、「穏やかだった」、「穏やかだ」、「穏やかなこと」、「穏やかならば」と変化します。
文語のナリ活用となると、
未然形 「なら(ず)」
連用形 「なり(けり)」、あるいは「に(なる)」
終止形 「なり」
連体形 「なる(こと)」
已然形 「なれ(ども)」
命令形 「なれ」
「穏やか」の場合は、「穏やかならず」、「穏やかなりけり」、「穏やかなり」、「穏やかなること」、「穏やかなれども」、「穏やかなれ」と活用します。もともとは「穏やかに」+「あり」=「穏やかなり」なので、ラ変動詞の「あり」に準じた活用をします。
一方、漢語表現の形容動詞の場合は、タリ活用になります。漢語表現の形容動詞は、口語では「~としている」というような使い方をしています。
例えば「堂々たり」の場合は、「堂々たらず」、「堂々たりけれ」、「堂々たり」、「堂々たること」、「堂々たれども」、「堂々たれ」です。
さらに混乱するのは、指定・断定の助動詞「なり」、完了・接続の助動詞として「たり」があるので・・・ちなみに直前に「たいへん」をつけて意味が通るなら形容動詞と判断して間違いないということになっています。
例によって、ふぅ~ん、となったところで例句を探してみます。
蛇逃げて山静かなり百合の花 正岡子規
どちらも子規の句で、自ら推敲した例です。いずれも夏の季語「百合」が使われています。形容動詞としては「静か」を含んでいて、静かになるのはどちらも「山」です。前者は、上句を「や」で詠嘆して切っています。最後に終止形の「静かなり」で、「静かになった」と言い切って終わる感じ。
後者は順序を入れ替えて、季語を最後に持ってきたため、「静かなり」が中句に入っています。「静かになった、あっ、百合の花がある」という感じになって「静かなり」は終止形で、ここに切れがあることになります。でも、連用形の「静かなり」の可能性は・・・無いです。連用形は用言につながるもので、この場合は次に来るのは名詞(体言)です。
藁塚の茫々たりや伊賀に入る 西東三鬼
江の島に茫々として芒かな 河東碧梧桐
「茫々」は果てしなく広がっているという意味で、タリ活用する形容動詞です。三鬼の句は、終止形「茫々たり」に間投助詞「や」を接続して字数を合わせた使い方でしょうか。タリ活用の例はなかなか探すのが難しく、たいていは碧梧桐の句のように「~と(して)」という口語的な使用法です。「漢語+たり」は全体が堅苦しくなりすぎるため、避ける傾向があるのかもしれません。












